表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/69

外伝 第6話 新しい釜

 二ヶ月過ぎて七月。松三郎は力屋を正式に辞めて、自分の店を開く準備に取りかかっていた。


 彼が満足できる醤油が見つかり、希望する条件の店舗も見つかった。店開きの日は確実に近づいているのだが。


「上手くいかねえな……」


 釜を覗き込みながら、松三郎が渋い顔をしている。


「ちょっとあんた、暑いってのにいつまで火を使うんだい?」


 お桐が蚊帳の中から苦情を申し立てる。


「うーん、どうにも鰹出汁が上手く引けねえ。こりゃ参ったな」


 妻の言葉を無視して、松三郎が顎を撫でた。開店準備は着々と進んでいるのだが、肝心要のそば汁ができあがっていないのである。


「ちょっくら鋳物師いもじのところへ行ってくらあ」


 松三郎は火の始末をしてから、近所の鋳物師の仕事場に向かった。


「おお、松三郎じゃねえか」


「景気はどうでい? 相変わらず忙しいか?」


「新しい釜や鍋の注文は落ち着いたな。火事の後の仕事は、大工や左官には遠く及ばねえぜ」


「なら、オレの相談に乗ってくれねえか?」


「おお、構わねえぜ。上がってくれ」


 松三郎は鋳物師の仕事場に足を踏み入れた。


 火を使う仕事をしているということで、中はむせ返るような熱気に包まれている。


「相談っていうのは、鰹出汁を引くのに長い間煮込める釜を作って欲しいんだ」


「長いってどのくらいでい? 半刻(およそ一時間)くらいかい?」


「いや、できれば一刻(およそ二時間)煮詰めたい。今の釜だと、どんなに火を弱くしても一刻経たずに水が全て飛んじまうんだ」


「無茶を言ってくれるぜ」


 鋳物師は笑うが、松三郎は本気だ。


「鰹出汁をそんなに長く煮詰めて何がしたいんでい?」


「そりゃあ、濃い出汁を引きたいって決まっているだろ」


 彼の頭の中には、新しいそば汁の構想ができている。それを完成させるには濃い鰹出汁が必要なのだ。


「濃い出汁を作りたきゃ、鰹節を増やせよ」


「少ない鰹節で濃い出汁を引くのが、そば職人の腕の見せどころって奴よ。それに、鰹節を多く使うと、女房の機嫌が悪くなる」


「あはは。お桐さんを怒らせるとなりゃ、そんなことできねえな。見た目はおとなしげなのに、口を開くと信じられねえ怒鳴り声が出てくるわけだし」


 お桐の怒声は近所中にたびたび轟いているから、鋳物師もよく知っているのだ。


「うちの女房を怒らせねえために、新しい釜を作って欲しいわけよ」


「そうは言うけどよ、水が飛びにくい釜にするなら大きくするしかねえ。けど、そば屋はそんなに多くの鰹出汁を使わねえはずだろ?」


「ああ、鰹出汁は日持ちしねえから、多く作るわけにはいかん」


「なら、諦めておけ。日ノ本にそんな都合の良い釜なんてねえよ。唐土もろこしとか天竺てんじくに行けば転がっているかもしれねえがな」


「唐土か天竺?」


 これを聞いて、松三郎の頭にひらめくものがあった。


 鋳物師に礼を述べてから、外へ出た。そして、次は本石町の方へ向かう。


「いらっしゃい! あれ松三郎さん? お久しぶりです!」


 力屋の店に入ると、若旦那が威勢良く声をかけてくる。


「若旦那が帳場に入っているなんて珍しいじゃねえか」


「親父もお袋も留守だから、アタシが入る羽目になっているんですよ」


「お前さんも勘定仕事が苦手なクチだから、今のうちから帳場に入って覚えるのは悪くねえことだぜ。オレもやっておくべきだったと後悔しきりだ。――ところで、長崎から来たかつぎって、まだこの店に残っているか? それとも喧嘩して出て行っちまったか?」


「まだうちにいますよ。長く続いてくれて助かります」


「そいつは良かった。話をさせてもらって構わねえか?」


「今は出前に行っています。何か御用ですか?」


「ちっとばかり、南蛮人の屋敷の話が聞きたくてな」


 日本の釜では長く煮込めなくとも、南蛮の鍋なら可能なのではないかと松三郎は考えたのだ。肉がトロトロになるまで煮込む鍋のことを尋ねたい。


「そばでも食って待たせてもらうぜ。もりそばと御酒を頼む。あと、焼き海苔も付けてくれ」


「松三郎さんにそばを出すとなると、下手なものを出せませんね」


「そんなに畏まるな。いつも通りのそばを出せばいい」


「でも、松三郎さんが抜けて味が落ちたなんて言われたら……」


「若旦那、店の職人を信じてやれ。俺がいなくとも美味えそばを作れる連中が揃っているんだぜ」


「――そうですね。松三郎さんを満足させるそばを出します!」


「その意気だ、若旦那」


 花番が持ってきた酒を杯に注ぎながら、松三郎が笑った。



 翌日。松三郎は再び鋳物師の家を訪れていた。


「こういう形の釜を作って欲しい」


 長崎の南蛮人が使っているという鍋を絵に描いてもらったのだ。竈にはめ込むための鍔が必要なので、これは松三郎が描き加えた。


「茶筒みてえな形だな。面白えじゃねえか。これなら水が飛びにくいかもしれねえ」


「南蛮人の知恵に感謝だな」


「なんだい、南蛮の釜なのかい? 上手く考えられてあらあ」


「作れるか?」


「朝飯前だが、こいつを作るとなると相当に銭がかかるぜ? こんな珍しい形の釜なんて一点物になるだろうしな。一度作ってしまえば何十年も使えるのが釜だが、大金出すかどうかは難しい話だぞ」


「銭か……。女房を説得しなきゃならねえな……」


 また夫婦喧嘩が起こるような気がして、暗い気分になるのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] この夫婦、ホント先進的と言うか柔軟だわなぁw
[一言] 2時間煮込むのに必要な薪の価格と、1時間で同じ出汁を引ける量の鰹節の差額・・・ 気軽に1時間余分に煮られるほど、江戸には薪が流通してたのかな
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ