外伝 第6話 新しい釜
二ヶ月過ぎて七月。松三郎は力屋を正式に辞めて、自分の店を開く準備に取りかかっていた。
彼が満足できる醤油が見つかり、希望する条件の店舗も見つかった。店開きの日は確実に近づいているのだが。
「上手くいかねえな……」
釜を覗き込みながら、松三郎が渋い顔をしている。
「ちょっとあんた、暑いってのにいつまで火を使うんだい?」
お桐が蚊帳の中から苦情を申し立てる。
「うーん、どうにも鰹出汁が上手く引けねえ。こりゃ参ったな」
妻の言葉を無視して、松三郎が顎を撫でた。開店準備は着々と進んでいるのだが、肝心要のそば汁ができあがっていないのである。
「ちょっくら鋳物師のところへ行ってくらあ」
松三郎は火の始末をしてから、近所の鋳物師の仕事場に向かった。
「おお、松三郎じゃねえか」
「景気はどうでい? 相変わらず忙しいか?」
「新しい釜や鍋の注文は落ち着いたな。火事の後の仕事は、大工や左官には遠く及ばねえぜ」
「なら、オレの相談に乗ってくれねえか?」
「おお、構わねえぜ。上がってくれ」
松三郎は鋳物師の仕事場に足を踏み入れた。
火を使う仕事をしているということで、中はむせ返るような熱気に包まれている。
「相談っていうのは、鰹出汁を引くのに長い間煮込める釜を作って欲しいんだ」
「長いってどのくらいでい? 半刻(およそ一時間)くらいかい?」
「いや、できれば一刻(およそ二時間)煮詰めたい。今の釜だと、どんなに火を弱くしても一刻経たずに水が全て飛んじまうんだ」
「無茶を言ってくれるぜ」
鋳物師は笑うが、松三郎は本気だ。
「鰹出汁をそんなに長く煮詰めて何がしたいんでい?」
「そりゃあ、濃い出汁を引きたいって決まっているだろ」
彼の頭の中には、新しいそば汁の構想ができている。それを完成させるには濃い鰹出汁が必要なのだ。
「濃い出汁を作りたきゃ、鰹節を増やせよ」
「少ない鰹節で濃い出汁を引くのが、そば職人の腕の見せどころって奴よ。それに、鰹節を多く使うと、女房の機嫌が悪くなる」
「あはは。お桐さんを怒らせるとなりゃ、そんなことできねえな。見た目はおとなしげなのに、口を開くと信じられねえ怒鳴り声が出てくるわけだし」
お桐の怒声は近所中にたびたび轟いているから、鋳物師もよく知っているのだ。
「うちの女房を怒らせねえために、新しい釜を作って欲しいわけよ」
「そうは言うけどよ、水が飛びにくい釜にするなら大きくするしかねえ。けど、そば屋はそんなに多くの鰹出汁を使わねえはずだろ?」
「ああ、鰹出汁は日持ちしねえから、多く作るわけにはいかん」
「なら、諦めておけ。日ノ本にそんな都合の良い釜なんてねえよ。唐土とか天竺に行けば転がっているかもしれねえがな」
「唐土か天竺?」
これを聞いて、松三郎の頭にひらめくものがあった。
鋳物師に礼を述べてから、外へ出た。そして、次は本石町の方へ向かう。
「いらっしゃい! あれ松三郎さん? お久しぶりです!」
力屋の店に入ると、若旦那が威勢良く声をかけてくる。
「若旦那が帳場に入っているなんて珍しいじゃねえか」
「親父もお袋も留守だから、アタシが入る羽目になっているんですよ」
「お前さんも勘定仕事が苦手なクチだから、今のうちから帳場に入って覚えるのは悪くねえことだぜ。オレもやっておくべきだったと後悔しきりだ。――ところで、長崎から来たかつぎって、まだこの店に残っているか? それとも喧嘩して出て行っちまったか?」
「まだうちにいますよ。長く続いてくれて助かります」
「そいつは良かった。話をさせてもらって構わねえか?」
「今は出前に行っています。何か御用ですか?」
「ちっとばかり、南蛮人の屋敷の話が聞きたくてな」
日本の釜では長く煮込めなくとも、南蛮の鍋なら可能なのではないかと松三郎は考えたのだ。肉がトロトロになるまで煮込む鍋のことを尋ねたい。
「そばでも食って待たせてもらうぜ。もりそばと御酒を頼む。あと、焼き海苔も付けてくれ」
「松三郎さんにそばを出すとなると、下手なものを出せませんね」
「そんなに畏まるな。いつも通りのそばを出せばいい」
「でも、松三郎さんが抜けて味が落ちたなんて言われたら……」
「若旦那、店の職人を信じてやれ。俺がいなくとも美味えそばを作れる連中が揃っているんだぜ」
「――そうですね。松三郎さんを満足させるそばを出します!」
「その意気だ、若旦那」
花番が持ってきた酒を杯に注ぎながら、松三郎が笑った。
翌日。松三郎は再び鋳物師の家を訪れていた。
「こういう形の釜を作って欲しい」
長崎の南蛮人が使っているという鍋を絵に描いてもらったのだ。竈にはめ込むための鍔が必要なので、これは松三郎が描き加えた。
「茶筒みてえな形だな。面白えじゃねえか。これなら水が飛びにくいかもしれねえ」
「南蛮人の知恵に感謝だな」
「なんだい、南蛮の釜なのかい? 上手く考えられてあらあ」
「作れるか?」
「朝飯前だが、こいつを作るとなると相当に銭がかかるぜ? こんな珍しい形の釜なんて一点物になるだろうしな。一度作ってしまえば何十年も使えるのが釜だが、大金出すかどうかは難しい話だぞ」
「銭か……。女房を説得しなきゃならねえな……」
また夫婦喧嘩が起こるような気がして、暗い気分になるのであった。




