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外伝 第2話 経営戦略

 松三郎は夕方に仕事を終え、自身が住む裏長屋へ戻っていた。


 縁側があって、六畳の広さがあるので、裏長屋の中では比較的上等な部屋である。


「おや、のれん分けを許してもらえたのかい」


 松三郎の妻、おきりが喜びの声を上げた。年齢は松三郎より二つ下の二十二歳。大きい瞳が印象的な童顔で、実年齢よりも若く見える。


「おめでたい話じゃないか。とうとう夢が叶ったね」


「ああ、その通りだぜ」


 力屋に奉公すると決まった時からずっと、松三郎は自分の店を持つことを夢見て頑張ってきたのだ。


「どれ、良い酒で祝杯としようか」


 お桐が土間に下りた。


「ほら、ハナ。ちょっとおどきなさいな」


 土間で寝そべっていた黒猫に、お桐が声をかける。


 夫婦の飼い猫「ハナ」だ。十一歳のメス猫ながら、まだまだ機敏さを保っている。


 土間でお桐が家事を始めて騒々しくなったので、ハナは畳に上がって避難した。


「――おめえ、こんな立派なお銚子をいつの間に買ったんだ?」


 妻が持ち出した酒器を見て、松三郎が驚きの声を上げる。


「実家の蔵の中に転がっていたから、もらってきたんだよ。長らく誰も使ってなかったみたいだしね」


「こんな長屋に置いとくもんじゃねえだろ。また火事に遭ったらおしめえだぞ」


「――嫌なことを思い出させないでおくれよ。あの時は本当に恐かったんだから」


 先の大火で夫婦が暮らしていた家も燃えた。お桐は飼い猫を抱きかかえて逃げ惑う羽目になったのだ。


 火事と喧嘩は江戸の華という言葉があるくらいに、江戸は火事が頻繁に発生する町だ。そんな江戸の町で暮らす市民の住み処は、火災に遭うことを前提として建てられている。

 特に長屋は安普請ということで知られている。燃えても仕方がない。燃えたらすぐに建て直せる。そういう割り切った設計なのである。


 松三郎夫婦が今現在暮らしている家も、大火後に急ごしらえで建った長屋だ。

 まだ住居を確保できていない人も多い中、運が良いことに彼らは早いうちに入ることができた。


 今の江戸の町では、大工が連日新しい建物を造っている。町中からトントンカンカンと金槌の音が響き続けているのだ。


「江戸で暮らすなら、いつ火事に遭ってもおかしくねえ。覚悟を決めておくしかねえだろ」


「道具なら買い直せばいいけど、命だけは代えがきかないからね。やっぱり、恐いものは恐いよ」


 言いながら、彼女が箱膳を部屋の中に持ってきた。銚子と杯と、ツマミの梅干しが乗った皿が上に乗っている。


(熱いな……)


 お燗の温度に文句を言いたくなったが、松三郎は黙って杯を傾ける。のんびりと飲んでいれば、そのうち酒が冷めてくるだろうと考えた。


「で、どんな店にするのか考えているのかい?」


 同じく口に杯を運んでいるお桐が質問をする。


「力屋と違う味にしろと大旦那は言っていたが、すぐには思いつかねえ。しばらくは力屋と同じ味のそばを出す」


「そうかい。どこに店を構えるかは決めているの?」


「そいつもサッパリだ」


「じゃあ、わたしも探してみるよ。どこか手頃な表店が空いていると助かるんだけど」


「頼むぜ。できれば、人通りが年中多いところを見つけてくれ。河岸かしがあるところとか、門前町とか」


「あら、どうしてだい?」


「さっき、力屋と同じそばを売るって言ったが、変えたいところもある」


 どのようなそばを売るのかという問題は、どこに出店するのかという問題と直結する。店の経営戦略は既にここから始まっているのだ。


「力屋では生粉打ち、十杯一杯(そば粉十に対して小麦粉一のそば)、うどんの三つをこしらえているが、オレは生粉打ち一本で店を出してえ。生粉打ちを売るとなると、客が次々に入ってきてくれて、どんどん食べ終えて出て行ってくれる町だと都合が良えんだ」


「だから、人通りが多いところなんだね? 十杯一杯のそばと、うどんを作りたくないのはどうしてなんだい?」


「麺を三つこしらえるからには、それに合わせた汁をそれぞれ用意しなきゃならねえ。正直、骨が折れる。あと、銭も余分にかかる」


「ふむふむ、銭の節約は大切だからねえ」


「とにかく店に客が入ってくれねえことには、全く話にならねえからな。出前は一切やらないつもりだし」


「出前をやらない……?」


 お桐の片眉が少しつり上がった。


 飼い主のその微妙な変化を感じ取ったのか、ハナは部屋の片隅に置いてある布団の陰へ素早く逃げ込んだ。そして、金色の瞳で夫婦の様子をそっと窺う。


 しかし、人間の松三郎は全く気付いた様子を見せず、話を続ける。


「生粉打ちのそばは出前に向かねえからな。あと、かけそばも出さねえ。こっちも生粉打ちに合ってねえわけだし。もりそば一本でやってやるぜ」


「ったく、バカ言ってんじゃないよ!」


「お、おぅ? 急に怒鳴るんじゃねえよ」


 突然の怒声に、松三郎の腰が少し引けてしまった。


「あれはやりたくない、これもやりたくないって、いい年して駄々っ子みたいなこと言ってんじゃないよ! 一から考え直しな!」


「駄々っ子とは何だ! オレはきちんと考えて決めたんだぜ!」


「その考えが間違っているんだよ! 一昨日来やがれってんだ、このバカ亭主が!」


 お桐の怒鳴り声が長屋中に響き渡ったのであった。

お桐の実家に蔵があるということで、彼女が裕福な家の出だと気付いた方もおられると思います。

しかし、彼女の実家は本編の頃にはお金の余裕がなくなっているという設定になっています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 蔵の壁の要塞みたいな分厚さを見るに 家は焼けても仕方ないとして、蔵だけは守る作りなんでしょうね  
[一言] そら蔵が焼けたら裕福も何もないよね
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