第55話 試食
十二月二十八日。
「じゃあ、本日のそば打ちを始めるよ」
朝食後、宏明が木鉢台の前に立った。
今日からそばの販売を再開するのだ。絶対に成功させたい。
両手を宙にぷらぷらと揺らしてから、彼はそば打ちを始める。
「――ヒロお兄ちゃん、ちょっとゆっくり過ぎるんじゃない?」
彼の手つきを見たお梅が疑問の声を上げる。
「これで大丈夫だよ。俺は今まで粉が乾くのを恐れて急ぎ過ぎだったわけだから」
「どういうこと?」
「旦那や鹿兵衛さんの動きを真似することばかり考えて、江戸のそば粉事情を見落としていた。いや、気付いてはいたんだけど正しい打ち方が分かっていなかったってのが正確なところかな」
「だから、全く分からないってば」
「まあ、見ていてよ」
お梅の疑問をはぐらかしながら、宏明は作業を続ける。
「――宏明さん、おめでとう。上手くできているよ」
くくり作業まで終わった時、今までずっと無言だったお藤が宏明を褒めた。
「お姉ちゃん、どうして言い切れるの? あたしは全く分からないんだけど?」
「よく見てみなさい。生地のツヤが違うから。ずる玉だとこんな色にならないんだよ」
「うー、違いなんて分からないよ」
姉妹が話しているうちに、宏明はのし作業に取りかかる。
(余計な水分が出てこない。やっぱり成功しているな)
ここまで来て、宏明はようやく安堵した。
今まで失敗が続いていた原因は、先ほど言ったように作業を急ぎ過ぎていたことだ。
宏明の体感だが、昨日お藤が水回しにかけた時間と、松三郎と鹿兵衛の水回しの時間は同じくらいだった。腕を動かす速さは違うのに、使う時間は同じ。
対して、宏明は全体に水が行き渡った時点ですぐに水回し作業からくくり作業に移行していた。ここが問題だったのだ。現代のそば粉ならこれで正解なのだが、江戸時代では誤りであった。
(水回し作業は素早く行うことが基本なんだけど、粒子が粗い粉を扱う場合はたっぷり時間をかけてやる必要があるのか)
粉の中心部まで水が浸透するのに時間がかかるからだ。全ての粉に水が行き渡ったと宏明が思った時、実は水が粉の表面から中心へ吸われている最中だったのである。その時に表面を触って水不足だと誤った判断を下してしまい、必要以上の加水をしていたからずる玉となっていた。
今となっては想像でしかないが、松三郎と鹿兵衛は粉の全てに水分を与えた後も水回し作業を続けていたと思われる。中心部まで水が染み渡ったかどうか、目と指先で注意深く見守り続けていたのだろう。
宏明が長屋で練習していた時は、父親のやり方の真似をしてそこまで手の速さにこだわらない打ち方をしていたから、江戸の粉でもたまたま上手く打てていた。
しかし、生粉打ちということで力屋古橋の動きを上辺だけ真似てしまったのが悪かった。昨日、小麦粉を混ぜたそば打ちが失敗した原因も、最近ずっとやっていた力屋古橋の速さで打ってしまったから時間が不足していたのである。
今日は意識して時間をかけて水回しを実施したので、粉の芯まで水が届くまで待てた。結果、適切な水分量を与えることができたのだ。
「なんとかギリギリで間に合ったよ。あー、やっと肩の荷が下りた」
そばを切り終えて、宏明が安堵の声を上げた。
「ヒロお兄ちゃん、やったね! これで安心して今日からそばを売れるね」
「ありがとう、お梅ちゃん。お客さんに出すわけだから、これを十回やって十回成功させないといけないんだよね。商売人である以上、必ず同じ味を出し続けないと」
「お姉ちゃんが作った汁で食べてみようよ」
「少し待っていて。包丁下を茹でるわけにはいかないから」
そんな話をしていると、戸口の方から男性の声が聞こえてきた。
「帰ぇったぞー」
声の主は松三郎だった。彼の姿は旅の汚れにまみれ、髭も伸び放題となっていて、ずいぶんとみすぼらしいことになってしまっている。
「父ちゃん! 心配したんだからね!」
「娘たちに何も言わず江戸から出ていくなんて、どういう了見なの!」
お藤とお梅が、父親の顔を見るやいなや甲高い声で食ってかかった。
「帰ってきた早々キンキン声でお出迎えかよ。まあ、これも江戸に戻ってきたってことか。――で、おめえたちは何をやっているんでい? この匂い、まさかそばを作っていたのか?」
「その通りだよ! お父ちゃんが帰ってくるかどうか分からなかったから、お姉ちゃんとヒロお兄ちゃんと一緒に作ったんだから!」
これを聞いて、松三郎が少し厳しい目になる。
「客に出したのか?」
「まだこれからだよ。今日から売りに出すつもり」
「危うく間に合ったってところか。半人前どものそばを客に食わせでもしたら、店の沽券に関わっちまう」
「そんな言い方ないでしょ! みんなで一生懸命作ったのに!」
「客が気にするのは、どうやって作ったかじゃねえ。どんな味がするのかだ。そのそばを出すかどうかは、俺が味見してからだな」
「お父ちゃんを納得させる味だったら売っても構わないんだね?」
「もちろんだぜ。――早速食べたいところではあるが、湯屋へ行って垢を落としてくる。それまでに支度をしておけ」
松三郎が湯屋から帰ってきた後、客席で試食会が始まった。仕舞いそばの時と同じように、力屋古橋の面々が円座している。
「お待たせしました」
その真ん中に、宏明が溜め笊を置いた。笊にはひと水切ったそばが乗っている。これは彼が茹でたものだ。
(旦那に味見をしてもらう時って、こんなにおそろしいのか)
宏明の手が緊張で少し震えてしまっている。
その松三郎は、しかめっ面で腕組みをして座っていた。風呂に入ったということで、いつも通りの小ぎれいな格好に戻っている。
「じゃあ、お手並み拝見と行くぜ」
松三郎が宣言をして、箸を手に取った。そして、そばをすする。
宏明、お藤、お梅の三人も店主に続いてそばを口に運ぶ。
最初に口を開いたのは松三郎だった。
「――まずは褒めておく。半人前どもがよくぞここまで美味いそばを作ったな。恐れ入谷の鬼子母神よ(恐れ入った)」
「やった! お父ちゃんが褒めてくれたよ! 本当に美味しいもんね!」
「みんなで頑張った甲斐があったねえ」
お梅とお藤が喜びの声を上げる。
「お父ちゃんが認めてくれたわけだから、このそばを売りに出すよ。お姉ちゃん、ヒロお兄ちゃん、これまでの苦労が報われたね」
「そいつは許さねえ」
「は? たった今美味しいって言ったでしょ、お父ちゃん?」
「美味いのと、客に出すのは別の話だ」
「どういうことなの!」
「そばは上手に打てている。辛汁もだいたいうちの店の味に似せてある。だが、そばってのはそれだけじゃねえんだ」
「あたしに分かるように言ってよ!」
「天狗が分かっている顔をしているから、こいつに教えてもらえ」
松三郎が宏明の方に目をやった。
「……旦那の言う通り、このそばはお客さんに出せないよ」
宏明が苦しそうに言葉を吐いた。
「そばと汁の相性がずれている。きちんと合うように作ったはずなのに、辛汁の当たりがほんの少し強い。どうしてこんなことに……」
彼の頭の中は混乱の極みにあった。どこで間違ったのか全く分からない。醤油を変えたことが原因だということは間違いないだろうが、きちんと味の調整をしたはずである。
「相変わらず天狗は良い舌を持ってるな。お梅もお藤も、もう一回味を確かめてみろ」
「……言われてみれば、汁の方が勝っちゃっているかも」
お藤が眉根を寄せてうなる。
「このくらい気付ける人なんてそんなにいないよ! 売り出しても平気だって!」
お梅は諦めきれない様子で、父親に詰め寄る。
「これだから、そばって食い物は難しい。申し分のないそばと汁を作っても、上手いところ噛み合わねえことがあるからな。そば屋からすると、頭が痛え話だぜ」
娘の言うことに取り合わずに、松三郎が箸を置いた。
「旦那、俺たちはどこで間違ったんでしょうか?」
「作っているところを見てねえからハッキリとは言えんが、味から察するにかえしの作り方だな。おおかた、火入れした醤油と生のままの醤油を半分半分で混ぜたんだろ。この間まで使っていた醤油ならそれが正しい。ただ、この醤油だと火入れする分をもっと多めにしなきゃならなかったな」
「かえし作りから既に失敗していたということですか……」
宏明が歯噛みをする。かえしを作るには日数がかかるので、もう取り返しが付かない。彼らがやってきたことは全て無駄になってしまったのである。
「お父ちゃん! このおそばでも十分に美味しいんだから、売ろうってば!」
お梅がなおも抵抗を続ける。
「そばと汁を揃えてみろ。それなら、客に出しても構わねえ」
「え? そんなことできるの?」
「オレならできる。おめえたち三人で考えてみろ。ここまでやってきたんだから、今さらオレに口出しされるのも嫌だろ」
(そばと汁の相性を揃える?)
松三郎に言われたので、宏明は頭をそちらに切り替えた。
「揃えるって言われても、どうやるの?」
お梅が困惑している。
「当たりを弱くするなら、汁に砂糖か味醂を加えるべきなんだろうけど、それはできないよ。せっかく味の真ん中になっているんだし」
お藤も答えを出せないようだ。
(味のバランスが取れているんだから、お藤さんが言っている通り、汁には手を加えない方が良い)
宏明は目をつむって考え始めた。
思い出すのは、そばと汁の相性を決める口伝だ。
そば粉の含有量が多いほど汁は濃く、当たりはキツく。小麦粉が増えるにつれて薄く、おだやかに。そばの色が濃いほど当たりがきつく、白いほど穏やかに。そばが細いほど汁は濃く、太くなるほど薄く。あげ出しはきつく、出前はおだやかになっている。
「……分かった。汁じゃなくてそばをいじるのが正解だ。そばをより細く切れば汁との相性が良くなる。これで合っていますよね、旦那?」
「やっぱり天狗は頭が回りやがるな。一寸あたり二十五本か二十六本だ。やってみろ」
松三郎の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「それでもオレのそばには遠く及ばねえわけだから――。そうだな『半人前そば』と名付けて売り出すか。半人前が作ったそばに十六文(およそ三百二十円)出せるって客だけに食ってもらう」
「じゃあ、そばを売ることを許してくれるんだね、お父ちゃん?」
「ああ、客が来てくれるかどうかは知らねえがな」
「やったね、ヒロお兄ちゃん!」
お梅が宏明に抱きついた。
「――あんた、どさくさに紛れて何をやっているんだい?」
その妹をお藤が力一杯引き剥がす。
「…………」
その様子を見た松三郎が、無言で台所に入っていった。そして、すぐに客席に戻ってくる。
「旦那、どうして包丁なんか持ち出しているんでしょうか? しかも何故か俺の方に向けているし――」
「まさかお梅の方を狙っていたなんて、全く気付かなかったぜ。このクソ野郎がっ」
「違う! 誤解、誤解ですってば!」
これを聞いたお梅が頬を膨らませる。
「誤解とか酷くない? ここは『娘さんをください』ってあいさつするところでしょ」
「しねーよ、そんなこと! どうして火に油を注ぐようなことを言うかな、このロリっ娘は!」
「よし、殺す」
松三郎の目が据わった。
「だから違いますって! 俺の話を聞いてください!」
「うるせえ! 申し開きなら、地獄の閻魔様の前でしやがれ!」
この大騒ぎは隣近所に響き渡り、自身番が出動して松三郎をなだめ終わるまで続くことになるのであった。




