第10話 初出勤②
そうこうしているうちに、鰹節がいい感じに柔らかくなったようだ。
「ヒロ坊、そろそろ鰹節を削れ。鉋の使い方は分かるか?」
「――なんとかなると思います」
鰹節削り器のような鉋と桐箱の一体型ではなく、大工が使う鉋そのものだ。それでも鰹節削り器と同じ要領で扱えるだろうと、宏明は見当を付けた。
「どのくらいの厚さで削りますか?」
「こんくらいだ」
鹿兵衛が親指と人差し指の間を広げて見せる。
「長さはどんなもんでしょう?」
「そっちはこんくらいだ」
今度は指の間が大きく広がった。
「分かりました。結構な厚削りですね」
宏明が鰹節を手に取る。
厚さが一・五ミリメートルくらいで、長さは十センチメートルくらいだと見当を付けた。
「おお、この鉋すごく切れ味が良い!」
宏明が感嘆の声を上げた。軽く動かすだけでスッと鰹節が削れていくのである。
「これなら、鰹節削り器よりも上手く削れそう」
「宏明さん、ずいぶんと手慣れているじゃないかい」
「実家では削り節をパックで買っているんだけど、『自分で作業できるようになってから楽をしろ』ってのが親父からの教えなんで、鰹節を削るのはかなり練習させられたよ」
「ぱっく? 何だいそれは?」
「あー、鰹節屋さんに削ってもらって、長持ちさせる包み方って感じかな? ごめん、上手く説明できないや」
そんなことを話しながら、次々に鰹節を削っていく。みるみるうちに大ザル一杯分の削り節ができあがった。
「上出来だ、ヒロ坊。湯が沸いているから、出汁釜に鰹節を入れろ」
「――鹿兵衛さん、出汁釜ってこの円筒形の釜ですよね?」
「何だあ? 見たことない形の鍋だから驚いているのか?」
「この台所に入ったときからずっと気になっていました」
鹿兵衛が指さした釜は確かに変な形をしていた。しかし、実のところ宏明には見慣れた形のものである。
(どうして寸胴がこんなところに? 西洋調理器具のはずなんだけど)
下部の形状が竈に収まるようになっている点は違うが、どう見ても寸胴だ。まだ開国されていない日本にどうして存在しているのだろうか。
「この釜って江戸では普通に売っているんでしょうか?」
「いや、うちの旦那が若い頃に作らせたって話だぞ。なんでも長崎ではこういう形の鍋があるらしくて、それを真似したとかなんとか」
「なるほど、異文化コミュニケーションがそういうルートで行われているんですね」
「いぶんかこみぬけ……なんだって? 長ったらしい言葉を使いやがって。ほら、早く釜に鰹節を入れろ」
言われたとおりに宏明が鰹節を投入する。続いて、鹿兵衛が釜の中をかき回し始めた。
「出汁は鹿兵衛兄さんに任せておくとして、宏明さんには下ごしらえを手伝ってもらうよ」
お藤が包丁を手にしている。
「ねえ、お姉ちゃん。ヒロお兄ちゃんにそばがきの作り方を教えてあげてよ」
お梅が台所に顔を出した。
「そうだ。これを宏明さんに覚えてもらわないといけなかったね」
「俺は一応作り方を知っているから、この店のやり方を教えて」
そばがきというのは、そば粉を水やお湯で練った料理だ。二十一世紀のそば屋でもたまに見かけることができる。
「うちでは、一人前だと手鍋にそば粉八勺(およそ百五十ミリリットル)を入れておいて、そこにお湯一合(およそ百八十ミリリットル)を加えるよ」
宏明は教わった通りに、手鍋の中にそば粉を入れて、その上から湯を注いだ。あとはすりこぎでひたすらかき混ぜるだけだ。
「久々にそばがきを作るけど、やっぱりキツい!」
とにかく力が要る作業なのだ。手がだんだんとだるくなってくる。
「手慣れた動きだね。良い具合にツヤが出てきたよ。じゃあ、鍋を貸して」
お藤が手鍋を引き寄せた。
「しゃもじで小判の形にして、皿に移して出来上がり。これに辛汁(もりそばの汁)と薬味を添えて客にお出しするのが、うちのそばがきだよ」
彼女が手際良くそばがきを皿に盛り付けて台の上に置いた。
「ヒロお兄ちゃん、上出来だよ。やっぱりそば屋の子だけあって頼もしいね。教える手間が省けちゃうもん」
横で見ていたお梅が手放しで褒めてくれる。
「チッ。そばがきくらいなら誰だって作れるぜ」
帳場に座って様子を見ていた松三郎からは舌打ちが飛んできた。
「お父ちゃん、そこにいられると邪魔だから床屋にでも行っちゃって」
お梅が追い払うように手をシッシッと振った。
「嫌なもんだねえ。父親に対する扱いじゃないよ、まったく。とんでもねえ娘を持ったもんだぜ。あー、嫌だ嫌だ」
愚痴りながら、松三郎は店の外へ出て行ってしまった。
「どうして、そば作りの他はダメな人なんだろう……」
お梅が大きなため息をついた。
「それはともかくとして、ヒロお兄ちゃんが来てくれたおかげで、そばがきを出せるようになるよ。昨日までは人手が足りなくて作れなかったから」
「わたしが作れれば良いんだけどねえ。女の力だとどうにも厳しくて」
男の宏明が一回やっただけでもしんどいのだ。お藤が作るとなると辛いだろう。
「というわけで、ヒロお兄ちゃんはそばがき作りをよろしくね。そばがきの注文が入っていない時は洗いもの、もしくは脇中として中台のお手伝いね」
中台は調理やそばの盛り付けなどをする職制だ。脇中というのはその中台をサポートする係となる。
「俺は新入りなんだけど、脇中なんてやってもいいのかな?」
「色々とできる新入りさんなんだから、下働きばかりさせるのはもったいないよ」
「了解。で、中台は誰なの?」
「お姉ちゃんが中台だよ」
「お藤さんが……?」
宏明が絶句してしまった。普通はベテランが入るポジションだ。まさか同い年の女の子が担当しているとは思っていなかった。
「うんうん。ヒロお兄ちゃんが戸惑うのは分かるよ。でも、お姉ちゃんはそばに関してはすごいんだから。他はてんでダメだけど」
「あんたは一言多い!」
「イタっ! 髪が崩れちゃうから頭を叩かないでよ!」
お梅が両手で髷を直す。
「俺が戸惑ったのはそういう意味じゃなかったんだけどね。ところで、お梅ちゃんも店で働くのかな?」
「うん、あたしは花番だよ」
花番というのは接客係のことである。
「寺子屋に通ったりしていないの?」
「何のお店? 寺子屋って?」
お梅が首を小さく傾げた。
「ヒロ坊、江戸では手習いって言わなきゃ通じないで」
竈の前から鹿兵衛が口を挟む。
「……教科書知識って何なんだよ」
さすがにボヤいてしまった。学校の勉強が役に立たないとなると、今まで頑張って覚えたことが無意味同然で悲しくなってしまう。
「ああ、手習いのことね。一昨年、師匠から『もう教えることがないから来なくていい』って言われたんで、ずっと店の手伝いをしているんだ」
お梅がエヘンと胸を張った。
「お梅ちゃんが賢いのは分かった。で、他の店員さんはまだ来ないの?」
「ん? うちの店で働くのはここにいる人だけだよ」
「……何を言っているのかな、このロリっ子は? どう考えても人手が足りないよね? どうやって店を回すの?」
「ヒロお兄ちゃんが脇中でしょ。あたしが花番で、お姉ちゃんが中台。シカお兄ちゃんが板前と釜前。ほら、ちゃんと人が足りてる」
「いやいやいや。板前と釜前を兼任するなんて、製麺機が普及した大正以降の話でしょ。江戸でそんなのできるわけないよ」
「何を言っているのか分からないけど、シカお兄ちゃんなら上手く回せるから心配しないで。ね、そうだよね?」
お梅が竈の方に向かって問いかける。
「おうよ。ワシに任せておけ。と言いたいところだが、店が立て込んだ時は旦那が釜前に入ってくれるだけだわ」
そう言って、鹿兵衛が笑う。
「ああ、理解できました。それでもギリギリの人数ですね」
誰かが欠けたらこの店は回らなくなってしまうだろう。普通なら口入れ屋に頼んで臨時の職人を派遣してもらって乗り越えていくはずだ。しかし、力屋古橋への派遣は見合わせていると親分の姪のお菊から聞かされている。
(うっかり風邪もひけないな)
未来世界の健康知識がどれほど生かせるかは分からないが、体調管理に努めざるを得ない。
「仕込みはだいたい終わったで、ワシは一服しに外へ行ってくるわ。お藤ちゃん、鍋の火の番は任せた」
鹿兵衛が手ぬぐいで顔を拭いながら言った。
「ここでタバコを吸っても構わないんだよ、鹿兵衛兄さん?」
「いやあ、店の中で吸ったら、おカミさんの怒鳴り声が飛んできそうで恐ろしいわ。ついでに風呂へ行ってくる。――ヒロ坊、一緒に行くか?」
鹿兵衛が宏明の方を見る。
「え? 仕事中に外出しちゃって良いんですか?」
「あとは汁取りだけなもんで、鰹出汁が出来上がるまでは何もすることがないじゃん」
「そういうものなんですか……」
現代人とは働き方の感覚が違う。営業時間前とはいえ、外出可能とは思わなかった。
「江戸ってのはみんな湯屋へしょっちゅう行くじゃんねえ。田舎者としてはなかなか慣れないだろうが、バカにされないためにも身ぎれいにしていた方がいいぞ。まあ、ヒロ坊はきちんと風呂に入っているみたいだが」
「銭湯には毎日行っていますよ」
「どこの店に行っとる? 三助を置かねえしみったれたあそこか?」
「はい。三助とか地元じゃ聞かないし、気になりません」
「ワシと入り込み湯へ行くか? 良い店を教えたるわ」
下卑た顔つきになって、鹿兵衛が宏明に笑いかけた。
「入り込み湯?」
「男と女が一緒に入る風呂のことよ」
「こ、混浴? そんなものがあるんですか」
「寛政(一七八九年―一八○一年)の頃にお上が禁じたらしいが、まだ残っとる。八王子にはないのか? 田舎の方が残ってそうだが」
「うちの地元にはありませんよ。江戸ってすげえな……」
宏明も年頃の男の子だ。おおいに興味がある。是非とも混浴の場所を教えてもらいたい。
しかし、その欲望はグッと我慢することにした。冷たい視線を感じてしまったからだ。もちろんお藤とお梅の姉妹からの視線である。ここで二人に軽蔑されてしまっては、力屋古橋で働くのに息苦しくなってしまう。
「あ、あの、混浴に行く勇気が出ないんで、また今度お願いします」
ぎこちない笑顔を作って断った。
「そっか、まあええわ」
そう言いながら、鹿兵衛が外へ出て行った。同時に、お梅は客席の掃除に戻っていく。
「宏明さんもタバコを吸いに行ってもらって構わないよ」
お藤が新入りに優しく声をかける。
「俺はタバコを吸わないよ。故郷だと二十歳になるまでは吸えないんだ」
「じゃあ、店の者で吸うのは鹿兵衛兄さんだけかい。江戸広しといえど、タバコを吸わない人がこんなに揃うなんて珍しいよ」
「江戸の人ってタバコが好きなんだ?」
時代劇でもキセルをくわえている人物が多かったことを、宏明は思い出した。
「この江戸では男女問わず多くの人が吸っているよ。うちの場合は、母ちゃんがタバコ嫌いだったからみんな吸わないだけで」
「さっき、鹿兵衛さんが怒鳴り声うんぬん言っていたのは、そういう意味だったのか」
「客は仕方ないとして、職人にはどんなことがあろうと店の中で吸わせなかったね。父ちゃんなんて、若い頃は吸っていたのにやめさせられたらしいよ。わたしとお梅は端から吸わせてもらえなかったね」
「なかなかに強烈なお母さんだったみたいだね」
江戸の町にも嫌煙派が存在したようだ。
宏明はお藤との話を打ち切って、竈の前に移動した。
「猫ちゃんたち、ちょっとゴメンよ」
暖を取っていたミケとトラに退いてもらって、竈の下をのぞき込む。仕事中に暇があったら先輩方の技を見て覚えておくべきだ。ここでは火のくべ方を見ておきたい。
ひと通り竈を観察し終わったら、次はのし台の方へ移動する。
「――って、おいトラ、急にどうしたんだ?」
トラが宏明に近づいていて、足にまとわりつき始めた。
「おや、トラは宏明さんが気になるみたいだね。この子は新しい人や物をとにかく調べないと気が済まないから。宏明さんと同じだね」
「猫と同じって――。おいおい、お前すごいな。木登りかよ」
トラが宏明の着物に爪を引っかけて登り始めた。スルスルと肩まで到達して、まるで誇っているかのようにニャンと一つ鳴く。
その様子をお藤が見て微笑む。
「どうやら、男同士仲良くできそうじゃない」
「トラってオスなの? まあ、いいや。これからよろしくな」
宏明が撫でてあげると、トラはニャーと鳴いて返した。
もう一匹のミケは座ったままで、ジッと宏明たちを見つめている。
「お前もよろしくな」
しかし、ミケの方はあいさつに無反応だ。
「ミケは人見知りでなかなか打ち解けてくれないと思うから、宏明さんも気長に付き合ってね」
「シャイな性格なのね。三毛猫ってことはメスかな? そのうち慣れてくれるでしょ」
「そうだね。それじゃあ、水の場所を教えるよ。毎日汲みに行くことになるから、覚えておいてね」
「そば屋は水をたくさん使うもんね。――トラ、そろそろ肩から下りてくれないか」
「ニャッ」
返事はしてくれたものの、トラは一向に動く気配がない。
「猫って高いところが好きだから、宏明さんの肩の上が気に入ったんじゃないかい?」
「そういうことか! 俺を木か何かと思っているんだな! おいトラ、水に落ちたら危ないぞ。どいてくれ。てか、どけ。――よし、全く聞く耳を持っていないな」
そんな宏明を見ながら、お藤はクスクスと笑った。
「猫たちとも上手くやっていけそうで良かったよ」
「見下されているような気がしてならないんだけど」
「ニャン」
「肯定するかのようなタイミングで鳴くんじゃねーよ!」
ギャアギャア騒ぎながらも、なんだかんだで開店準備が進んでいったのであった。




