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姫神幻想伝奇  作者: セリ
40/53

9  扉は開かれる  ②


 鈴姫は灰悠を背後に従え、人々の前に一幅の絵のように立った。 


 白い布を体に巻き、右肩だけを出した装いは睡蓮や他のアシブ住人と同じだが、その上にきらきら光る朱色の薄衣をまとっている。冠はなく艶やかな黒髪を背に流し、小さな顔の中で夢見るような黒い瞳が人目を引く。凛とした姿は威厳ある小女神のようであり、どこか脆く儚げでもある。


 華奢な身体もか細い手足も、何かのはずみでポッキリ折れてしまいそうだ。加奈は初めて鈴姫に会った時、何とかして助けてあげたいと思ったことを思い出した。鈴姫には、保護欲を刺激するものがある。守ってあげたい、助けてあげたいと思わせるものがある。


「姫神さまが戻って来られた!」

「助けに来てくださった。やはり姫神さまは、わしらの味方だ」


 可憐な鈴姫を前にして膝を突き頭を垂れる者が現れ、他の者もそれにならう。加奈は両膝を地面につけ、鈴姫と守礼に穢れがあると言った女性はばつが悪そうに顔をそむけ、しぶしぶ膝を折った。


「御無事で何よりです、鈴姫さま。どうぞこちらへ」

「いいえ。ここで充分です」


 鈴姫は場所を譲ろうとするタルモイに鈴の音のような声で語りかけ、涼やかな目で人々を見渡した。


「心配をかけました。シギに何が起きたのか、灰悠からすべて聞きました。獣杯の暴走を止められずに、このような事態を招き、姫神として詫びの言いようもありません」


「暴走……?!」

「獣杯は、暴走したのですか」

「誰かが獣を解き放ったのではなく?」


 口々に言う人々に、鈴姫はうなずきかける。


「原因は分かりませんが、獣杯が突然暴走を始めたのです。わたしは気を失い、その後のことは何も覚えていません。すべてはわたしの責任、わたしの不手際と力不足のせいです。これより持てる力のすべてを使い、獣を獣杯に戻します。今後は何ら憂うことなく暮らせますよ」


 わあっと歓声があがり、人々の間に笑顔が広がった。獣を獣杯に戻せるなら万事解決する、獣杯を異界の扉から取り出した甲斐があったと加奈もまた笑顔になり、守礼の厳しい表情に笑みを凍りつかせた。


 鈴姫を見る彼の尖った視線――――。一度だけ、守礼のこういう表情を見たことがある。舟に乗った時、追いかけて来る緑青と黄櫨に向けられた彼の顔――――冷たく戦闘的な表情。あの時と同じ顔つきで守礼は鈴姫を見、視線を落とす。


(どうしたんだろう……)


 裏庭で感じた温もりは何処かに行ってしまい、突如見知らぬ人に変わってしまった守礼に、加奈は違和感を覚えた。なぜ鈴姫に冷たい目を向けるんだろう。獣を戻したくないの? それとも鈴姫との間に何かあったの?


「睡蓮。獣杯を持って来てください」


 鈴姫の視線をたどり、人々は神殿横から出て来た睡蓮と黄櫨に注目した。睡蓮は一瞬棒立ちになり、すぐに気を取り直して頭を下げる。神殿裏口に向かう彼女を、黄櫨が追った。


「私は老亥と申す者。姫神に対し立ち姿の無礼、許して頂きたい」


 老亥が、鈴姫に向かって軽く頭を下げる。膝を突いた人々の間にあって、立っているのは石段上のタルモイと守礼を除けば、数人のタリム兵だけである。鈴姫は、清楚な微笑を浮かべた。


「タリムにはタリムの習慣がありましょう。お気になさいませんよう」

「先ほど獣を獣杯に戻すと言われたが、聞いた話によれば、焔氏が手に入れた獣杯は偽物であったとか。アシブにある獣杯は、キシルラにあった物とは違うのか」


「我らが謀り、焔氏に偽物を渡したのです。本物は加奈が探し出し、龍宮の住人によって隠され、アシブに運び込まれました。加奈、こちらへ」


 守礼に言われ、彼女は立ち上がった。石段をのぼり、緊張しながら守礼の横に立つ加奈を、老亥が穏やかな目で見る。


「生者の国の姫については耳にしている。よくぞ獣杯を見つけてくれた、加奈どの。獣がいなくなれば、シギは安泰だ」

「そうですね……」


 隣から聞こえる、守礼のくぐもった声。やはり彼はこの流れに不満なんだと、加奈は守礼の横顔を見上げた。いつもの優美な顔に戻っているものの、鈴姫を見る視線に険しさが残されている。 


「真実を聞かせて頂きたい。鈴姫さまと守礼には生まれながらの穢れがあると、さっき聞かされた。そのような事実はないと、きっぱり否定して頂きたい。でないと気分がもやもやして……こんな気分は御免だ」 


 男が一人立ち上がり、確かこの人は黄櫨の友人だったはずと加奈は記憶をたどった。名前は智照。「無礼だぞ」と声が飛び、智照は苦虫を潰したような顔になった。


「謎や秘密は、もうたくさんだ。俺たちは事実をすべて知り、その上で身の処し方を考えるべきだ。俺はシギに残るつもりだが、知った事実によっては立ち去るかもしれん」

「穢れ、ですか」


 鈴姫の花のような唇がほころび、愛らしい微笑を作る。


「わたしの出生について、わたしよりもここにいる皆の方がよく知っているでしょう。虚実入り乱れ、さまざまな憶測が流されたと聞いています」


 鈴姫が言うと、場はしんと静まり返った。人々は顔を見合わせ、気まずそうにうつむく。タリム兵だけが怪訝な顔をし、智照は目を剥いた。


「憶測が流された? 俺は知らないが?」

「僕も知らない。僕の周りにいた者は、誰も知らないと思う。何だよ、この間から思わせぶりな話ばっかりで。はっきりさせてほしい。智照じゃないけど、こんな話は気分が悪いよ」


 緑青が言葉を挟み、若い女性が恐る恐る声をあげる。


「……あたしは聞いたことがある。鈴姫さまと守礼は、族長と李姫さまの間に生まれた兄妹だって。でも……ただの噂話だよ」

「噂というより、中傷じゃないか」


 緑青は、吐き捨てた。


「真実だと言う者もいたよ、嫉妬でね。族長があんまりご立派だから男どもがやっかみ、李姫さまが男たちにちやほやされてたから女たちが妬み、噂を真実みたいに広げていったのさ」


「馬鹿言うな。神殿から流れて来た話など、気晴らしにすぎん。笑って楽しみ、それでおしまいだ。信じる者などいやしない」


 気晴らしに笑って楽しまれた者が、目の前にいるのに――――。加奈は、信じられない思いで人々を見回した。守礼と鈴姫は表情一つ変えず、黙って話を聞いている。


「口をつつしめ! 姫神さまの前だぞ!」


 キクリの怒声に重なるように、男の大声が轟く。


「信じた者もいたではないか。族長を罷免すべきだ、いや他に適任者がいないからもう少し様子を見ようと真面目に議論する者がいた。声を上げたところで何も変わらないと、あきらめる者もいた」

「わしは信じなかったぞ。つまらん噂など聞く耳もたん」


「真実が神殿から漏れ出たようですね。あなた方が耳にした噂の根底に、真実があります。わたしの母は李姫、父は族長の莱熊、守礼は父母を同じくする兄だという真実」


 鈴姫の凛とした声が響き、静寂が降りた。凍りついた人々を見回す加奈の耳に、守礼の鋭く息を吸う音が聞こえる。智照が、震える声で尋ねた。


「誰からお聞きになったのです?」

「父……いいえ、本当は義父だったのですね。恵朴が教えてくれました」


 悲鳴とも唸り声ともつかない音が広場を巡り、若い女性が狂乱一歩手前の形相で立ち上がる。


「……本当だったのですか? 李姫さまには夫が……族長は妻帯者で……その子供が聖なる姫神さまと神官なのですか?」

「だから穢れがあると言っただろ! 神をも恐れぬ所業さ。戦乱を前にして長老も神官も狂ったのさ」


 女性が言い放ち、鼻を鳴らした。


「……獣杯が届いたようですね。睡蓮、ご苦労でした」


 鈴姫が朱色の薄衣をひるがえし、楚々とした仕草で振り返る。睡蓮は本物の獣杯を腕に抱え、探るような視線を加奈から守礼、鈴姫へと移した。


「翡翠はどうしました?」


 鈴姫の目が、獣杯の表面に穿たれた小さな穴に向けられる。加奈が困って守礼を見上げると、彼は無言で彼女を見下ろした。守礼の美しく冷たく怖い顔。別人のような彼の様子に加奈の体がこわばり、彼は怒っているのだろうかと想像した。


「生者の国の姫――――加奈でしたか? あなたが持っているのですか?」

「……はい」

「翡翠を獣杯に戻してください」


「獣杯を鈴姫さまに渡していいのか」


 男の声が鋭く響き渡り、人々の間に動揺が走った。


「獣杯はなぜ暴走したんだ? 天神の怒りがなぜ下った?」

「暴走したという話がそもそも……事実かどうか」

「鈴姫さまが獣を放ったという説を、誰か納得がいくようにきっぱり否定してくれ」


「いい加減にせんか!」


 タルモイが怒鳴りつけても、人々の疑念は収まらない。鈴姫は儚げな身体を震わせ、哀しい顔で長い睫毛を伏せた。


(可哀相すぎる……)


 加奈は、鈴姫に同情した。子供は両親を選べない。李姫と族長の間にあったことは、鈴姫のせいじゃない。幼い頃から姫神として祭り上げられ、相当な重圧があっただろうに、それをはねのけ疫病から人々を救った。鈴姫も守礼も努力したに違いないのに、その努力が認められていない。努力よりも『生まれながらの穢れ』の方が重大事みたいで、そんなのひど過ぎる。


 加奈は胸ポケットから翡翠を取り出し、皆によく見えるよう高く掲げた。深い翠の宝玉が月光に照り映え、人々の溜め息を誘う。翡翠を握りしめ石段を下りる加奈を、睡蓮がじっと見つめている。黄櫨は困惑の表情で周囲を見回し、鈴姫の背後に立つ灰悠が守礼に目で合図を送っている。


「お願いだ、鈴姫さま。わしらを救ってください。獣を消し去ってください。お願いします」


 加奈と鈴姫の間に老婆が飛び込み、両手を地につけた。


「俺からも頼みます。いつ獣に喰われるかもしれん暮らしなど、もう嫌だ」

「獣がどういう経緯で放たれたか、明らかにするのが先だ。もしも姫神が関わっているなら、獣を獣杯に戻すどころか呼び出すんじゃないか」


「やめろ! そんな疑いは失礼だ。姫神さま以外に獣を消せる者はいない。おすがりするしかないんだ」

「そうだよ。頭を下げるしかない。お願いします、姫神さま。あたしらを助けてください」


 お願いします、助けてくださいと連呼する人々を前にして、加奈は唇を噛んだ。獣杯から獣を放った疑いが鈴姫にある限り、翡翠を彼女に渡すべきじゃない。でも、疑いの目を向けたくない。


 鈴姫は味方だという確信がほしい。獣がどうやって放たれたのか、はっきり分かればいいのに。鈴姫への疑いがきっぱり否定されればいいのに――――。


 鈴姫が加奈に手を差し出している。翡翠を受け取ろうと広げられた小さな掌。その爪が薄赤紫に塗られているのを目にし、加奈はどきりとした。


(焔氏の爪と同じ色……)


 眠っている時の鈴姫の爪は、彩色されていなかった気がする。彼女が目覚めた時、爪の色が現れたんだろうか。唇が、紅を刷いたように紅い。きらめく朱色の薄衣は金が織り込まれているようで、鈴姫以外の誰もそのような布をまとっていない。


「赤や紫が好きですか?」


 加奈が尋ねると、鈴姫は怪訝な顔で小さくうなずいた。鈴姫は爪を彩ることを好み、衣裳に気を遣い、赤や紫が好き――――。まるで焔氏みたいだと思った瞬間、焔氏の女性的な姿が鈴姫に重なった。


 獣に憑依されてから焔氏は変わったと、蛇眼は言っていた。焔氏は獣にではなく、鈴姫に憑依されていたのではないの……? でも……まさか。目の前にいるか弱そうな美少女が、焔氏のような大人の男性を操るとは想像できない。


 硬直した加奈を見る鈴姫の美しい目が細められ、視線が加奈に突き刺さる。似てる――――美しい瞳の奥から絡みついてくる、この視線。わたしを見た焔氏の蛇のような視線に似てる。加奈は、一歩後ずさった。


「……ごめんなさい、鈴姫さん。今はまだ翡翠をあなたに渡せません」 


 か細い声ながらきっぱり言い切ると、鈴姫の前に手をついていた人々から怒声があがった。


「渡せ! 獣を消すために」

「そうだよ。シギの宝玉を何でよそ者が持ってるの!」


「……睡蓮、獣杯を砕いてください」


 守礼の低い声が、空気を震わせる。


「……賛成です」


 睡蓮は頭の上に獣杯を掲げ、人々が止める間もなく、渾身の力をこめて地面に叩きつけた。乾いた音が響き、古の陶器は粉々に砕け散る。加奈ははっと息を呑み、人々の間から悲鳴があがった。


「あああっ……!」

「何てことを……どうして」

「馬鹿野郎!!」


 肩で息をする睡蓮に人々の非難と罵声が向けられ、低く暗い笑い声が響き渡る。


「くくく……くっくっく……」


 地の底から湧くような不気味な笑い声。人々は、驚愕と恐怖に体をこわばらせた。





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