第十話 もうひとりのお姫様。
「うん、わかってる。ここは僕がいつもいる場所じゃないからね」
キャメリアは会釈を終えると姿勢を戻し、客間のドアを開けて散歩へと出ていく、ルードの背中を見送った。
その背中は将来、彼女が知る限りの強国であるウォルガードを背負う姿。
支えて、置いて行かれないようについて行くと心に決めた姿。
敬愛するご主人様であり、王太子殿下であり、可愛らしい弟の姿でもあった。
「(いってらっしゃいませ。ルード様)」
再度、口には出さずに、彼の背中へ語りかける。
本来、キャメリアには兄弟姉妹がいない。
そもそも、長い年月を経て子を授かるドラグリーナには、そう珍しい事ではないのだ。
伯母でありメルドラードの女王でもある、けだまの母エミリアーナも、数百年待ってやっと娘を授かった。
同じくして、キャメリアもまた一人っ子だから、弟がいる訳ではない。
同僚のドラグリーナも、兄や姉、弟や妹等がいたという話を聞いた事がなかった。
もし、いたとしても、それこそ、親子程に年の離れた関係になってしまう事だろう。
キャメリアを姉と慕ってくれている、ルードが可愛くて仕方がない。
クロケットから幾度となく、彼女からすれば弟のような彼の、昔からの話を聞いた事だろう。
クロケットもルードの本当に姉ではないのだが、それでも、羨ましいと思った事は何度もある。
いつの日だったか、ルードが自分の事を〝姉〟と呼んでくれた。
五歳年下の、真面目で、少し危なっかしい弟のようなご主人様。
誰も見てはいなかったが、彼女の今の表情は、間違いなく弟の成長を見守る姉のものだろう。
「(さて、……と、もう一人。どうしようもなく可愛らしい、お姫様の様子を見てきましょうか、ね)」
ルードが可愛い王子様だとすれば、クロケットは彼女にとってお姫様なのだ。
ご主人様の姉であり、婚約者であり、彼女の友達であり、手のかかる妹のような存在でもあった。
ルードのいた客間のドアを、そっと閉めて出て行く。
キャメリアはその見事な真紅の髪のせいか、嫌でも目立ってしまう。
彼女は背筋を伸ばして、躊躇う事なく、真っ直ぐに廊下を歩いている。
時折、この城に勤める家人達とすれ違うのだが、そこは慣れたもので、キャメリアの方から先に会釈をする。
ルードの話は、皆に行き届いているのだろう。
賓客として迎えられているルードの侍女である彼女もまた、注目を浴びる存在だった。
キャメリアにとって、出会う人全てが、今まで、言葉が通じなかった人達だ。
だが、今は、言葉でコミュニケーションを取る事ができる。
違う種族の人達と、言葉を交わす事が、これ程楽しいものだとは思っていなかった。
この城の執事長でもある、オルトレットとも会話を交わす事ができ、異文化の情報を手に入れる事ができているのだ。
すれ違う際に足を止め、家人達と二、三言葉を交わして、さりげなく情報を仕入れる。
これは、ルードを支えていく上では、必須ともいえる重要なお仕事のひとつ。
彼を共に支える、執事のイリスがここにいないからこそ、今はキャメリアの責務なのだから。
彼女の顔立ちは、お忍びでこの国を訪れている、どこかの国の姫君と言っても過言ではない程整っている。
実を言うと、ついこの間まで飛龍の姿だけで生活していた彼女は、化粧をするという習慣がなかった。
そもそも、今のように、服を着る習慣すらなかったのだ。
リーダ家の家事の達人でもある、彼女が師匠として尊敬しているクレアーナに、始めて化粧を教わった。
クレアーナは、『主人に恥をかかせない程度に、最低限の身だしなみを整えるのが、侍女というものなのです』と、言っていた。
メルドラードで侍女として学んだキャメリアは、改めて、彼女から〝侍女のいろは〟を指導されたのだ。
キャメリアは薄く控えめに、今でいう〝基礎化粧〟のみを施しただけ。
それなのに、ルードの侍女という情報がなければ、凜としたその佇まいもあり、勘違いされてしまう事だっただろう。
それもそのはず、彼女の母親シルヴィネは、女王エミリアーナの従姉妹の姉。
人の姿でフェリスの助手を務めている彼女の顔立ちは、キャメリアのように整っていた。
元々はそういう立場にいた女性だったのだから、血筋としては、キャメリアもサラブレッドと言ってもおかしくはないのだ。
ただ、シルヴィネからは、その細かい話は聞いてはいない。
彼女の悪行とも言える、エミリアーナが被った被害は母からではなく、叔母である彼女自身から聞かされるという始末だった事で、間接的には理解していただろう。
キャメリアにとっては、『見た目だけでも、ルード様に恥をかかせる事がなくて、母には感謝しています』という感想しかない。
要は、今が重要なのであって、自分の氏素姓等は、全く興味がなかったのであった。
程なくして、クロケットとキャメリアが滞在する客間へ到着する。
彼女は全神経を集中し、そっと聞き耳をたてると、中からは静かなクロケットの寝息が聞こえてくる。
キャメリアは、触れるか触れないかの強さで、ドアをノックする。
音を立てないように、そっとドアを開けると、そこは明かりのついていない薄暗さ。
居間を通り過ぎるとドアのない入り口があり、そちらがベッドルームになっている。
居間にあるテーブルの上に、様々な果物やお菓子の類いが乗っていた。
これはきっと、オルトレットがクロケットの機嫌を伺いに来た際に、持ってきたものだろう。
ルードやイリスから話に聞いた、ルードの母リーダの〝食っちゃ寝さん伝説〟や〝買い食い王女様伝説〟。
それに負けない、〝別腹のお姫様〟と、勝手に彼女が心の中で呼んでいるクロケットですら、食べきれないで残してしまう程の大量の贈り物。
キャメリアは、ささっと手を触れると、虚空の彼方へ仕舞い込む。
テーブルの上は綺麗に片づけられ、流れるような手つきで台拭きで拭うと、指紋一つ無い綺麗なテーブルへと戻っていく。
「(よし、と。完璧っ)」
片付けに満足すると、彼女はベッドルームに入っていく。
そこは、ベッドが二つ並べられていて、窓際になる右側のベッドには、部屋着のまま気持ちよさそうに眠るクロケットの姿が確認できた。
クロケットの寝顔が見える場所へ椅子を持ってくると、音もなく座り、キャメリアは表情を緩める。
「うにゃぁ……、もう、食べられませんにゃ……」
寝言がまた、可愛らしい。
まるで、彼女の姪でもある、けだまこと、マリアーヌの寝姿そっくり。
二人とは姉妹のように見えると言われる事があるが、けだまとクロケットもまた、年の離れた姉妹のように、そっくりな部分がある。
それは彼女が、どんなに辛いときでも、ルードを笑顔で送り出し、笑顔で迎える事ができるという強さだ。
彼女は、『お嫁さんが家を守っていないと、ルードちゃんに心配させちゃいますにゃ』と、よく言う事がある。
それは見習うべき姿勢だと、イリスと話をするときも出てくる話題だ。
クロケットはルードの婚約者でありながら、クレアーナの次に古く、一番長くルードの家に仕える侍女でもあったのだ。
ルードが作る新作の料理や菓子は、一通り作る事ができる程の料理の腕前を持ち、クレアーナに続く、縫製の腕前も持ち合わせている、家事の達人。
その昔、ルードに命を救われ、それがきっかけで彼を幼少の頃から見守り、支え続けてきた。
リーダがまだ、フェンリラの姿だった頃、ルードと一緒にお世話をするのが楽しかったと聞いた事がある。
彼女が〝食っちゃ寝さん〟と呼ばれている所以は、皆が納得してしまう姿が毎朝見る事ができる。
ただ、ルードからは、こう聞いている。
『母さんが本気を出すのは、僕達家族を守らなくてはならない時だけだと思うよ』
あの、〝消滅のフェリス〟の孫であり、彼女を除けば世界最強の部類に入る、フェンリラなのだから。
彼女があのようにだらけているように見えるのは、それはルードの周りが平和だからと言えるのだろう。
クロケットは、そんなリーダからも娘のように可愛がられ、ルードの産みの親のエリスからの信頼も厚い。
キャメリアだって、小さな頃は、王子様とお姫様の物語を読んだ事くらいはある。
彼女には、ルードとクロケットこそ、理想的な王子様とお姫様だったりするのだ。
いずれは、ルードがウォルガードの国王になったとき、その横に王妃として並ぶと決まっているのに、お姫様は日々努力を忘れない。
王子様は若干暴走気味だけど、それでも、自分を常に高めようとしている。
それが、キャメリアもイリスも、余計に頑張らなくてはならない理由になっていたのだ。
虚空から柔らかい手ぬぐいを取り出し、クロケットの額に浮かんだ珠のような寝汗を、前髪を軽く分けてから優しく拭う。
クロケットのつやつやとした、リップオイルの塗られた唇に、ほんの少しだけお菓子の欠片がくっついているのが見えたから。
「(化粧も落とさないで寝るなんて、女の子としてどうなのかしらね?)」
クロケットの口元も、優しく拭ってあげる事にした。
ルードを支える時に、彼に恥をかかせないためでもあり、彼女自身の研鑽に必要なものでもあるから。
キャメリアはメルドラードの外での情報を、貪欲に求め続けた。
化粧を知らなかった彼女が言うのはどうかと思うが、ルードに仕え始めてからまだ日は浅いが、吸収した情報量は人の数倍は軽く超える事だろう。
「ほんと、支え甲斐のあるお姫様ですこと……」
「……うにゃ?」
「あ、クロケット様。起こしてしまって、申し訳ございません」
「……キャメリアちゃん。私と二人きりの時は、それはやめてと言ったじゃにゃいですか」
肌掛けを鼻先まで持ち上げて、隠れるようにしてそう言う彼女。
少し拗ねたような彼女の仕草が、あまりにも可愛らしくて、キャメリアは言葉に詰まってしまう。
「あ……、はい。うん。んー、んっ。……おはよう、クロケット」
だから、今、自分に出せる笑顔で応えるのが、キャメリアの精一杯。
「はいですにゃ」
キャメリアは、すっと笑顔を消し去り、眉を若干ひそめて続けて言う。
「駄目でしょう。食べたものを片付けもせずに、眠りこけるなんて。女の子として、駄目駄目ですよ。ルード様が見たら千年の恋も醒めると――」
「はいっ。申し訳ございません……、ですにゃ」
「ぷっ……」
「にゃははは」
「ほんと、クロケットったら。いつもだらしないんだから」
「お世話になります、にゃ。……うにゃ? そういえばキャメリアちゃん、ルードちゃんはどこですかにゃ?」
仮眠から起きてすぐに、心配するのはルードの事。
この辺りが、彼女達の似ているところなのだろう。
「ルード様はその、色々といっぱいいっぱいだからと、お散歩に行かれました」
「にゃるほど、ですにゃ。ルードちゃんの事はわかりましたにゃ。さて、と。キャメリアちゃん」
「はい」
「顔色、悪いですにゃよ?」
よく見てくれている、いや、よく見られている。
天然さんなところがあるくせに、家族の事をいつも心配してる。
気遣いのしすぎのくせに、疲れるという事を知らない。
いつも笑顔の彼女が待っているから、ルードも安心して戻ってこれる。
キャメリアは、クロケットやルード達とは違い、今の人の姿を保っているためには、指輪へと魔力を供給し続けなければならない。
そういえば、衛士長のティリシアや王女のレラマリンが言うように、元々はこの国の魔力量は多いという話。
シーウェールズやエランズリルドでは、毎日ぎりぎりだった、魔力の回復量。
あの憎き魔獣のせいとはいえ、たしかに、辛いものがあるだろう。
だが、ドラグリーナの姿でいる訳にはいかない。
無理をしているのがわかってはいても、我慢するしかないのが現状だったから。
クロケットは身体に流れる魔力を、両手のひらへ『ぎゅっと』絞り出すように集めていく。
彼女は寝ていた状態から身体を起こすと、そのまま、キャメリアの頬を両手で優しく包んでいく。
「はい。キャメリアちゃん」
「も、申し訳ないです……」
頬から口の中へ、喉を通って体中に魔力が行き渡る感覚を覚えた。
まるで糖蜜のような甘さだった。
ルードが言うには、クロケットからもらう魔力は、味覚とは違うとはいえ、甘く感じる。
まるで、ルードの作ったプリンを舌と上顎でぎゅっと押しつぶすように咀嚼して、じわりと喉へ通り抜けるかのような、あの快感と同じ。
きっと、彼女が家族に対する慈愛の想いが、そう作用させたのだろう。
クロケットから見ても、キャメリアの顔色は頬のあたりが赤みが増すくらいには、回復したようだ。
「よかったですにゃ。あ、でも、『申し訳ございません』じゃ、ありませんにゃ。そこは、『ありがとう』ですにゃ、よ?」
キャメリアに向ける、無償の愛の微笑み。
それは、ルードに向けている時のものと全く同じ。
家族への思いやり、労りの気持ちの表れなのだろう。
キャメリアは思った、『敵わないですね』、と。
「ありがとう、クロケット。でも、大丈夫なの?」
「大丈夫ですにゃ。これくらいなら、すぐにほら、むにゃむにゃ……」
その細腕の手のひらに、大気中に漂っている水を少し集めて、お手玉をして戯けてみせる。
「油断すると、溢れちゃいますにゃ。だから、心配は全くありませんにゃ」
ケットシーとしての体質なのか、それとも、尻尾が二股に分かれている特異体質なのか。
キャメリアは侍女長として、イリスは執事として、いつも家族全体の事を相談しあっている。
そんな話の中、ウォルガードへ引っ越して来た際の、クロケットの魔力酔いとされる昏倒の一件。
猫人の村(前より人が増えて、ルードは村と呼ぶようになった)の黒い猫人達は、魔力酔いを起こす者はいなかったと報告がある。
メルドラードにおける魔術研究の第一人者で、今はフェリスの助手をしている母のシルヴィネ。
彼女から魔術、こちらでは魔法と呼ばれるものは、小さい頃から知識として教えられていたのだ。
メルドラードも大気中や水中の魔力が、ウォルガードと同様に濃い。
それでいて、空を飛んでいない、魔法を使わない子供達ですら、魔力酔いを起こすことがないとされていた。
その証拠に、けだまには何の変化も感じられなかったからである。
クロケットが倒れた際に、シルヴィネが『クロケットさんは、我々ドラグリーナやフェンリラ様達より、体内に内包する魔力の量が比べものにならない程かもしれませんね』と言っていた。
多いというより、無制限に沸き続けている感がある。
だからこそ、引っ越したタイミングで魔力を消費しない彼女は、パンク状態になって倒れてしまったのではないのかと推測されるのだ。
オルトレットやルードとの話から得た情報を精査する限り、クロケットはとても希有な存在。
この事実が知れ渡ってしまうと、彼女の身に危険が及んでしまう程、危うい存在だという事が、キャメリアの中では確定してしまっている。
魔力を消費し続ける彼女としては、クロケットの存在はとても尊いもの。
今改めて、ルードとクロケットに仕える事ができる嬉しさを噛みしめるキャメリアだった。
「(でも、ドレスが着られない程ふくよかになられたら、ルード様も心配されてしまうかもしれませんね。何とかして運動させないと、ダメでしょうか……)」
ちょっと、いじめっ子のような目になっていたキャメリアの視線は、クロケットの二の腕やお腹あたりを行ったり来たりしていた。
背筋に少し寒いものを感じたのは、獣人種であるクロケットの本能だったのだろう。
「う、うにゃ? にゃにか、薄ら寒いものを感じましたにゃ……」
「さぁ、ルード様が帰ってくる前に、少しお散歩をしましょう。あ、でも、買い食いはなしですよ? 晩ご飯、食べられなくなりますからね?」
「そんにゃ、それじゃ楽しみが全くにゃいじゃにゃいですかー」
クロケットを立たせて、着替えさせる。
早く外へと連れ出さないと、このぐうたらお姫様は動こうとしない。
これもキャメリアの立派なお仕事なのだから。
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ルードがいなくなってから、一月近くになっていた。
ウォルガードでは、イエッタから、ルード達の様子を、食後のお茶の時間に教えてもらえる。
だが、徐々に、けだまも二人に会えない寂しさからか、ぐずり始めてきてしまった。
「イリスちゃん。ルードちゃんとおねーちゃんがいないの、いやなのーっ」
「けだまさん。ルード様達は、その……。もうすぐ戻ってくるでしょうから」
「いやなのーっ。あたしもいくのーっ」
食卓前に膝立ちで座り込み、ぶつぶつと独り言を言っていたリーダの姿を見て、イエッタは『限界かしらね?』と思い、エリスはどうにかして宥めようと右往左往していた。
「ルード、わたし、ルードがいないと……」
「リーダ姉さん。大丈夫だから。イエッタさんも、変わりはないって」
「でもねエリス。ルード、困ってるじゃないの。わたし、すぐにでも――」




