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unspell  作者: 久保田千景
その後
92/98

とけていく心 前編

 斡旋所で掲示板を見ていたときに、それは聞こえてきた。


「――そう言えば、あの話聞いたか?」

「何?」


 何気なく声の方を向くと、奥の卓に若い男性が二人座っていた。雨が降る夕刻前だからか斡旋所はがらんとしていており、会話が自然と耳に入ってくる。


「あいつ、彼女と別れたらしい」

 口を開いている男が顎をしゃくった先で扉が閉る音がした。今ほど出て行った男の人のことだろう。

 自分とは関係ない話に、サラは掲示板に顔を戻した。


「えっ? あの美人と? 何で?」

「服を脱がせたら身体に火傷の痕があったんだって」


 後頭部を思い切り殴られたような衝撃に息が止まった。

 そんなサラに気付くことなく二人は話し続ける。


「はぁ? それだけで別れるって、何だそれ?」

「だろ? 俺も同じこと言ったんだよ。そしたら『三ヶ月も付き合っていてそれを隠していたことが許せねぇんだ』とさ」


 呼吸が止まっているからだろうか、頭が真っ白になっていく。目の前にあるものは見えているのに、何を見ているのか理解ができない。

 見知らぬ他人の声だけがサラを責めるように突き刺さってくる。


「んー、わからないでもないけど、でもなぁ」

「もう違う子と付き合っているよ」

「うわっ、ムカつく!」

「あ、そうそう。話変わるけど、今度の休みにさ――」





「サラさん? どうしましたか?」

 気が付けば受付嬢のビビアナがサラを覗き込んでいた。

 サラは掲示板の前に立っていた。振り返ると卓にはもう誰もいなかった。


「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」

 心配してくれたビビアナの手がサラの背中を摩るように触れた。

 思わず身体を反転させてその手を振り払ってしまった。

「あっ」

 驚いたような表情でビビアナが手を引いた。

「大丈夫、です――ごめんなさい」

 ビビアナに申し訳ないと思いながらもそれ以上のことは言えず、サラは逃げるように斡旋所を後にした。



******



 セイアッドはまだ帰っていなかった。雨の音しか聞こえない静かな家の中で、サラは一人身体を震わせていた。

 雨に濡れたせいだ。

 震えの原因を無理やり雨のせいにして、サラは濡れて重くなった冷たい服を脱いだ。部屋にある姿見が背中の傷痕をありのまま映し出す。

 ミシェルが言っていたように、気に病むほどではないように見えた。でも何もないほうが、綺麗なほうが良いだろうと、サラは勝手に思っている。


 セイアッドはこの傷痕を知らない。

 

 言わなければいけない、と思い始めたときには、もう怖くて言えなくなっていた。

 

 いつ言えば良かったのだろう。

 この傷痕よりも、それを黙っていたことに怒りを覚えるかもしれない。いつまでも言わなかったことに、騙されたと感じるかもしれない。


 今まで頑なだったのは傷痕のことを言えなかったからだ、とようやくサラは気が付いた。

 着替えて居間に行くとセイアッドが帰っていた。サラと同じく雨に打たれたようで、タオルで濡れた髪を拭いている。

「ただいま」

 セイアッドはサラの姿を見ていつものように微笑んだ。サラもいつものように「おかえりなさい」と言おうとして、口が動かないことに気付いた。

 セイアッドはサラの異変に気付き、心配そうに寄ってきた。

「どうした? 具合でも悪いのか?」

 セイアッドは使っていたタオルでサラの冷たく濡れた髪をわしゃわしゃと拭きだした。


 どうしてこんなに優しいのだろう。

 強い罪悪感に苛まれ俯いたサラの目に涙が滲む。


「ごめん、なさい」

 小さな声はセイアッドの腕を止めた。

 静かな部屋の中でサラは重い口を開いた。

「か、隠していた訳じゃないけど、今更何を言っても言い訳にしかならないけど、でも、言い出す切っ掛けがなくて、それで」


 セイアッドは意味不明な言葉に疑問をぶつけることなく、ゆっくりサラを抱きしめた。

 部屋はまた静寂に包まれる。

 しばらくして幾分落ち着いたサラは顔を上げた。

 セイアッドは優しく微笑み返す。いつもなら自分より体温の低いセイアッドの身体が今日は温かく感じた。

 胸の中で氷のように固まっていた何かが、その温かさでゆっくりとけていく。


「私、背中に傷があるんです」

「知っている。それで?」


 えっ? それで? それでって――どういうこと?

 

 セイアッドの意外な反応にサラは固まった。頭に中はすでに真っ白だ。

 セイアッドも、何故サラが混乱しているのかわからないといった表情だ。


「前に言いましたか?」

「いや」

「見たことありましたか?」

「残念ながらまだ見せてもらっていない」

 

 混乱の真っ只中にいるサラはセイアッドの返答が微妙におかしいことに気付く余裕がない。


「そのことを隠していて、騙していたみたいで――ごめんなさい」

「謝る必要はないと言っただろ?」

 セイアッド少し呆れたような表情を見せた。

「例えサラの背中に傷があろうが鱗があろうが毛が生えていようが何も問題はない」


 微妙な慰めにサラは顔を曇らせたが、何かを思い付いたように表情を戻し、突然自分の上着の裾を捲り始めた。

「――何をしている?」

 なだらかな曲線を描く腰を見て珍しく焦っているセイアッドは慌ててサラの腕を掴んだ。

「今、傷を見てもらおうと思って」

「いきなり服を脱ぐな」

「すみません」

 顔を顰めて却下されたサラは落ち込んだ。

「それを見たら今度は止められないからな」

 堂々と宣言したセイアッドに、サラは真っ赤になると慌てて服から手を離した。


 静かになった部屋に微妙な沈黙が流れる。

 サラが声を掛けようとした矢先、静寂はあっさり破られた。


「ダメ、ダメ。そういうのは実際に見てみなきゃ。口だけなら何とでも言えるよ」


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