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unspell  作者: 久保田千景
その後
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約束の日 中編

 セイアッドに行き先を告げると「駄目だ」と即答された。自分だけで行くと言って譲らない。けれど、仕事でもなく単なるわがままで動いている以上、人任せにすることにサラは抵抗を感じてしまう。

 なぜセイアッドが反対するのか、サラは必死に考えた。

「二十二歳なのでお酒は飲めますよ」

「知っている」

「お、男の人を引っかけようとか、そんなこと思っていませんから!」

「わかっている」

「――酒場って、入るだけでお金を取られるのですか?」

「――そういうことじゃない」

 少しどころか、かなりずれているサラにセイアッドは頭を抱えて項垂れた。場所もそうだが、これから会いに行く人物が気にいらない。

 街中で「駄目だ」と「行きます」の応酬がしばらく続き、結局折れたセイアッドが「フードを被ること」と「傍から離れない」という二つの条件を出し、サラは満面の笑みで頷いた。



 細く狭い路地には酒場が肩を寄せ合うように軒を連ねている。転がっている空の酒瓶や濁った水たまりや地面に突っ伏して寝ている人を踏まないよう注意しつつ、サラは入り口に掲げられている看板を一つずつ確認しながら足を進めた。

 日の光が地平線の彼方に消えた黄昏時、店の明かりがつき始める。探していた『宵の明星亭』もその中の一つだった。

 店内は外と変わらぬ薄暗さだった。フードを目深に被っているせいもありサラがいつも以上にきょろきょろと辺りを見合わしていると、ポンと頭に何かが乗せられた。

「あれだ」

 見上げるとそれはセイアッドの手で、夜目の利く彼の視線は店の奥の壁際で蠢く影の方を向いていた。

 サラは目的の人物が見つかった嬉しさよりも、頭に乗せられた掌の温もりにフードの下で密かに頬を緩めていた。



 煙草と酒と香水の匂いでむせかえる店内の奥の壁際で男女の影が蠢く。

 男は壁と自分の身体の間に挟んでいる女の耳元で囁いた。彼女の真っ赤な口元が緩やかな弧を描いたことで誘いに乗ったことを知る。

 しなだれかかってきた女の媚びた視線が男の肩越しに店内へ移る。潤んだ瞳が驚いたように見開かれ何かに釘付けになった。

 男は自分の背後に立つ気配に気付いた。強く大きな魔力を無理やり抑えこんでいる奇妙な感覚に覚えがある。

 男――コルヴォは溜息を吐きガックリと項垂れた。


 何でこんなところに、こいつが?


 女は今まで口説いていたコルヴォの存在を記憶から消し去ったようにその男に熱い視線を送っている。獲物を横取りされた腹立たしさと敗北感を抑えきれず、コルヴォは項垂れたまま精一杯の皮肉を口にした。

「あんたもこんなところに来るんだな」

「用がなければ来ない」

 思った通りの声が返ってくる。

「男に会いに来て貰っても嬉しくないんだけど」

「お前を喜ばせるために来た訳じゃない」

 あっさりと受け流されコルヴォはもう一度大きな溜息を吐き、振り返った。

 場末の酒場には相応しくない、見覚えある美丈夫が立っていた。普段は互いの存在を気にしない客や、荒くれ共と対等にやり合う酒場の主人ですら、長身の魔族の存在感に捕らわれている。

 周囲の視線や異様な雰囲気を気にすることもなく、美丈夫の魔族は先ほどから自分に見惚れている女に表情を変えず淡々と声をかけた。

「少し外してくれないか」

 口調は柔らかいが声音には何の感情もこもっていない。暗い店内でも分かる金色の瞳には畏怖すら感じる。

 何も分かっていない女は、艶やかな色香を纏いながらもまるで無垢な乙女のように頬を赤らめ、名残惜しそうな表情を浮かべながらも素直に離れていった。

 取り残されたコルヴォは『知り合いという程ではない』男の名前を呼ぼうとして、何と呼べば良いかわからず口ごもった。

 顔にあった呪術がなくなっているということは元に戻っているのだろう。そもそも前の名前もうろ覚えだ。男の名前を聞く時ほど虚しいものはない。


 コルヴォが顔を顰めたと同時に、魔王の背後から外套のフードを深く被った小柄な影が恐る恐る顔を覗かせた。薄暗さもあり顔は判別できない。けれどその人物はコルヴォの顔を見た途端、緊張で固く結んでいた桜色の唇を僅かに綻ばせた。

「お久し振りです」

 雑多な喧噪の中でも通る凜とした声の主は丁寧に頭を下げる。柔らかい栗毛色の毛先がフードからこぼれ落ち、爽やかな石鹸の香りが僅かに漂った。

 突然の出来事にコルヴォが動けないでいると、しばらくして彼女はフードを少しだけずらし、おずおずと自分の顔を見せた。

「以前にお世話になった解術師のアシュリーです」


 言われなくてもわかっている。他の女と戯れようと忘れられる訳がなかった。

 子供のような素直さと相変わらずの生真面目さからくる場違いな自己紹介にコルヴォは緩んだ口元を掌で隠した。

 サラは店内に背を向けているため気付いていないが、声で若い女性だと気付かれたらしく店内の視線が彼女に注がれる。

 不躾で好奇の視線を牽制するように、魔王がサラの頭上から顔を向けた。鋭利な刃に似た黄金の瞳から逃れるように視線はあっという間に四散する。

 邪魔者をあっさりと蹴散らした魔王はサラが被っているフードを被せ直した。また顔の半分が隠れてしまった彼女は小さく首を傾げて見上げる。

 魔王は困ったように端整な顔を曇らせたが、しばらくして彼女の頭に乗せた掌でぽんぽんと宥めるように撫でた。

 自分のつがいを盛り場に連れてくることは、独占欲の強い古代種にとっては苦痛以外の何物でもないはずだ。口にはしないが何気ない仕草に、誰にも見せたくないとか、触れていたいなどの様々な感情が溢れているのがわかる。

 頭を撫でられているサラも照れたように顔を綻ばせ、それを隠すように俯いている。

 慎ましくも微笑ましい場違いなやりとりに、少しの羨ましさと大いなる腹立たしさを込めてコルヴォは盛大な溜息を吐いた。



******



 名前しかわからない人物を捜し出す、という無謀な頼みを聞き入れてくれる人を捜そうと決めたサラの頭に浮かんだのは、顔見知りになった国一番の情報屋だった。

 新しく建て替えられた『緋色の跳ね馬亭』の主人からコルヴォは滅多に帰ってこないと聞き、近辺をしばらく捜したが見つからずどうしようかと悩んでいたところ、買い物帰りのヨランダと会い「今頃は『宵の明星亭』で女でも引っかけているだろうよ」と教えてもらったのだ。


 サラが首の傷の手当の礼を述べると、ヨランダは顔を顰めた。

「細かいことを気にするんじゃないよ。そんなんじゃ男も苦労するよ」

 そう言ってサラよりも小柄なヨランダはセイアッドを見上げた。

「あんたは――」

 言い掛けて口の端をにっとつり上げる。

「すっかりまともになったようだね」

「世話をかけた」

 セイアッドは何の言い訳もせず謝辞を述べると白髪の老女は満足そうに頷く。

「良い男だねぇ。久しぶりに惚れてしまいそうだ」

 その言葉に反応したのはセイアッドではなくサラだった。

 ヨランダは一人で動揺するサラの背中を「ちゃんと捕まえておきなよ」と、勢いよく叩いた。その衝撃で押し出されたように「はいっ!」と良い返事を聞くと、気っ風のいい老婆はアパートの階段を颯爽と上がって行った。



******



 店の奥の小さな円卓を囲んで三人は座った。

「手間掛けさせて悪かったね。で、わざわざこんなところまで来た目的は?」

「ある人を捜して欲しいのですが――」

 サラは袋の中から出した金色の指輪を卓の上に置くと、自分の請け負った依頼人の情報だけは省き、あとは順を追って説明した。

 煉瓦造りの教会、アーシアという名前の女性、エリオという名前の男性、そしてこの金の指輪。

 コルヴォはこの人捜しが仕事ではなく個人的なものだと聞くと「お人好しだね」と苦笑したが、それでもサラの話を真面目に聞いてくれた。

 話し終えるとサラは不安になった。この話はサラだけが見た風景と女性の姿、そしてサラだけが聞いた二人の名前だけで、信じてもらえるだけの証拠はない。

 心配した通り、話を聞き終えたコルヴォは顎に指を当て、難しい顔で視線を落としている。

 店内の喧噪が嘘のように三人の座る円卓は沈黙している。

 この指輪をあの女性に返そうと決めた時、それがどれほど無謀なことかもわかっていた。詳細もわからない、妄想とも幻覚ともつかない話を依頼として請け負うほうがどうかしている。サラでさえ、時間が経つにつれ幻覚や幻聴だったのではないかと思ってしまいそうになる。

 サラは膨らむばかりの不安を掻き消したくて、卓の上に置かれた指輪に触れた。もう少し情報があれば――淡い期待を込めたものの、何も起こらなかった。

 がっくりと肩を落としたサラに、指輪を手に取り調べていたコルヴォが声をかけた。

「サラちゃん」

 サラには呆れているような驚いているような口調に聞こえたが、けれど続く言葉は意外なものだった。

「やっぱりあんたは女神様だ!」

 どさくさに紛れて抱きつこうとしてきたコルヴォの顔面はセイアッドの右手によってきっちり阻止された。


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