58
「サラを――妹を助けてくれ!」
レイは動きを止め俺を見ている。
静寂が辺りを包む。だからその微かな声がはっきりと聞こえてきた。
「――レイ」
俺もレイも同時にその声の方へ顔を向けた。
人形のように動かなかった、長いまつげに縁取られた瞼がゆっくりと上がる。
「サラッ!」
俺の声に焦げ茶色の瞳がこちらを向いた。目が合うと安心させるように僅かに頬を緩ませる。血の気の失せた青白い顔とは反対に瞳は強い光を宿し、視線はしっかりしていた。
意識を取り戻したことへの安堵と喜びで、違和感を強引に掻き消した。
サラは自分を抱えているレイへ視線を向けた。一瞬嬉しそうに輝いた瞳が悲しそうに辛そうに揺れる。
誰一人動けない中、サラの左腕がゆっくりと上がっていく。自身の血で赤く染まる掌が、呪いに浸食されたレイの頬をそっと包む。
レイはその手を振り払わず、大人しくサラを見つめていた。
掌の触れたところから黒い文字が消えていく。まるで赤い掌が黒い呪いを浄化していくようだった。以前からある右頬や首の古代文字は消えなかったが、全身を覆っていた黒は綺麗になくなり、変色した強膜も元に戻っていた。
「サラ!」
レイは頬に触れる小さな手を自身の大きな掌で包みながら、右掌を赤く染まる背中に優しく宛がった。もはや誰の血かわからないほど赤く濡れたレイの掌から柔らかい光が溢れた。
治癒術の温かい魔力の波動が深い傷を塞いでいく。
傷に触れられているはずなのに痛がるそぶりを全く見せないサラに、掻き消したはずの違和感が膨れあがる。
「もう、苦しくない?」
心配そうに見上げるサラに、レイは驚いたように目を瞠りそして顔を歪めた。まるで泣きだす寸前の子供のようだった。
「――大丈夫だ」
声を振り絞って答えたレイに、サラは良かった、と小さく呟き微笑む。
瞳に宿す光が急速に弱くなっていく。
治癒術で傷を塞ぐことはできるが失われた血液や体力は戻せない。傷は塞がったが今のサラはまだ危険な状態にある。
「薬だ!」
傷が塞がれば体力を回復する薬が有効になる。
「救護班! エリクシールを早く!」
ジークが俺の足りない言葉を補うように後ろを振り返って具体的に叫ぶ。それまで固唾を呑んでいた騎士団員たちがその声に弾かれたように一斉に動き出した。
「ごめん――ね――呪い、解けなくて――」
サラはレイの右頬を見つめ、僅かに眉尻を下げた。目には涙が浮かんでいる。
「後でお前に解いてもらう。だから今はしゃべらないでくれ」
レイの必死の懇願にもサラは真っ直ぐ見つめ、口を動かし続けた。
「会いた、かった――の」
途切れ途切れながらも、まるで今話さなければいけない、といった雰囲気を漂わせて。
その瞬間に俺の中の違和感は確信に変わった。
どういう力が働いたのかわからない。けれどサラはレイに会いに、助けるためだけに戻ってきたんだ。
大人しそうに見えるが意外に芯が強く、一度決めたら最期までやり通す性格だった、と今更ながらに思い出した。
だから帰ってきたんだな。本当にすごいよ、お前は――。
苦笑と共に涙が零れた。
「あなたのことが――」
サラはそこで何かに気付いたように口を噤んだ。僅かに顔を歪めたが、すぐに表情を戻していた。
「会えて――良かった」
おそらく本当に言いたかった言葉を飲み込んでサラは微笑んだ。
瞼が、終幕を告げる緞帳のようにゆっくりと静かに下りる。
走り寄ってくる足音に顔を上げた。同僚が薬を持ってこちらへ向かってきている。けれどそれを受け取るにはまだ距離があった。
心臓の鼓動が消えた後ではどんなに高価で貴重な薬を飲ませても意味がない。残された時間がないことは明らかだった。
一か八か、手を伸ばして叫んだ。
「投げろ!」
「もうこれしかないぞ!」
意図を汲んだ同僚が薬の入った最期の小瓶を下から投げた。全ての意識をその行方に集中させる。
宙で弧を描く透明な小瓶の中で青い液体がたゆたう。
冷たく固い感触が己の掌に収まったことを確認してからようやく息を吸った。
「サラッ!」
レイの悲痛な叫びに振り返った。
自分の名前を呼ぶ声に答えることなくサラの瞼は再び閉ざされ、涙が頬を伝い落ちる。頬に触れていた手も、包んでいた大きな掌からするりと滑り落ちた。




