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手に生温かい感触があった。それと同時に、腕に抱く彼女の背中が冷たく濡れていることに気付く。
掌を染めた血の温かさとは反対にサラの身体は冷たい。
背中に穿たれた小さな傷から命の雫がこぼれ落ちていく。名前を呼んでも青白い顔の彼女は動かない。眠っているようにも見える。でもいつも見ている寝顔とは何かが違う。
表情のない、人形のような彼女はまるで――。
「――死ぬ――」
聞き覚えのある声の、その言葉だけが耳に届いた。
それは守るべき大切な人が自分の前からいなくなったことを意味する。
それはつがいに出会った古代種が生きる意味を失ったことを意味する。
一瞬で目の前が真っ暗になった。
光の欠片もない闇の世界だ。
何も見えない。何も聞こえない。手足の感覚もない。意識が周囲の闇に溶け込むように呑みこまれていく。
何もかもわからなくなっていった。
その傷を治せるのが自分だけだということも。
******
目の前の魔族が『レクス』か『レイ』か、見ただけでは区別がつかない。何故かサラにはわかるようだが、感覚の鋭い獣人の俺でも見分けられない。けれどさっきまで『レイ』だった目の前の魔族は古代種で、様子がおかしいことだけはわかった。
背中を真っ赤に染めたサラを見て咄嗟に叫んでしまった。その不用意な言葉があいつをおかしくしてしまったらしいということは、フードから射す少年の鋭い視線で気が付いた。
俺を睨む金色の瞳は怒りと悲しみと絶望の暗闇に覆われ、何も映していない。
照らす光を失った月は翳っていた。
「彼女の怪我を治せるのはお前だけだ! しっかりしろ!」
すぐ傍で必死に叫ぶ少年の声もレイの耳には届いていないようだ。むしろその言葉に反応したのは俺だった。
サラは生まれ持った魔力のせいで治癒術の効果が弱く、怪我は魔術ではなく薬で治している。
出血量といい血の気の失せた顔といい、背中の傷はかなり深いはずだ。
昔、俺がこの爪でその背中を裂いてしまった時と同じくらいに。
あの時は大量の傷薬を使い、治癒術師であるエレナさんが術をかけ続け、一週間後にようやく塞がったが、四本の爪痕は今もサラの背中に残っている。
気にしていないと本人は言うが、それは彼女が無意識に吐いている嘘だ。
サラから『友人』を紹介されたことは何度かあったが、その男が別の呼び方に変わることはなかった。いつも友人止まりだ。それが背中の傷痕は関係ない、とは思えない。
その傷痕を思い出すたび、わき上がる自責の念の中に混じる微かな独占欲と優越感に、吐き気を覚える。
あいつなら背中の傷痕も、俺の中にあるこの浅ましい想いも、サラが心の奥に隠してしまった癒えない傷も、全部消してくれるだろうか。
レイの端整な顔に刻まれていた禍々しい文字が侵食していく。乾いた大地が水を吸うように広がり続け、あっという間に顔全体と首を黒く染める。それは腕や手の甲にも及んでいた。
身体全体が黒の塊と化す中、双眸に浮かぶ金とサラを抱える左腕の赤だけが色を持っている。そこだけ黒く染まっていない。
何故だ?
けれど些細な疑問は壮大な雄叫びに掻き消された。
「ウ――ォオオオ、オオォオオォ!」
レイは上空に向かって叫ぶ。
それは全身を蝕む苦しみから逃れるための呻きのようでもあり、手の届かない月に向かって吠える孤独な狼のようだ。
空気が声に共鳴するように、見えない振動がビリビリと肌を刺す。その迫力と威圧感に圧倒されて怯む俺たちを横目に、レイは少し身体を屈め背中の翼を大きく広げた。
「ダメだっ!」
少年がレイの腕にしがみつく。
「そんな状態でどこへ行く? お前の居場所はお前の腕の中にいるだろ? だからもういくな!」
最後は悲痛な叫びに変わった少年を一瞥し、レイは掴まれていた腕を容赦なく振り上げた。
小さな身体が重力を無視して宙に舞う。
翼のない少年が地面に叩き付けられる寸前でジークが全身で受け止めた。二人はもつれるようにして乾いた地面に倒れ込み、舞い上がった砂埃に呑まれた。
「ジーク!」
無事を確認するため駆け寄ろうとしたが、バサリと羽ばたく大きな音に視線が向く。
レイは再び漆黒の羽を広げ、飛び立とうとしていた。腕には動かないサラを抱いている。
「待て!」
連れて行かないでくれ!
その言葉は声に出せず、心の中で叫びながら必死に走った。けれどレイまではまだ遠く、間に合わない、とどこかで冷静に判断する自分がいた。
予想に反しレイは飛び立たなかった。それどころか前のめりに体勢を崩した。片膝を突いたままでも自身の身体を支えられず、右手を地面に着き倒れ込むのを何とか防いでいた。
レイの顔は苦しげに歪み、口の端からは血がしたたり落ちる。
「それ以上動けばお前も呪いで死ぬぞ!」
砂煙から姿を現した少年が必死に叫ぶ。いつしかそれは涙声に変わっていた。
何故サラがこいつの呪いを必死に解こうとしていたのか、ようやく理解した。
呪いに蝕まれているレイは肩で息をしながら上体を起こす。少年の叫びやサラの願いも虚しく、まるで何かから逃れるように三度、翼を広げた。
僅かにその身体が浮いた瞬間、手は届いた。
「いかせるか!」
レイの腕を両手で掴む。それがサラを抱えていた左腕だったことに無我夢中で気付けなかった。
今まで全く動かなかったサラの身体がぐらりと揺れる。腕からするりと抜けた無防備な身体が、硬い地面に引き寄せられていく。
レイは素早く俺の腕をつけたまま、サラの身体を両腕でしっかり抱きしめた。
再び自分の胸にたぐり寄せると、瞼を閉ざしたままのサラの顔におずおずと己の額を寄せた。
こんな状態でもまだサラを守ろうとしている姿に目頭が熱くなった。
「サラを守ってくれ!」
レイは顔を上げ俺を見た。額の文字が薄くなっていることには気付いたが、必死な頭の中ではそのことを認知できなかった。
「その傷を治せるのはお前だけだ。だから頼む」
レイは何かを思い出すように、探るように俺の瞳をじっと見ている。
邪で自分勝手な心の中を見透かすような視線に思わず目を逸らしてしまいそうになる。けれどここで視線を外したら全てを失う気がして、金色の瞳を見返した。
この気持ちに偽りはない。
「サラを――妹を助けてくれ!」




