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怒号や悲鳴や金属音が岩壁に反響してあちこちから聞こえてくる。止まない断末魔にサラの肌は粟立った。
この場を逃げないと。
頭でわかっていても身体は動かず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「サラッ!」
呼ばれた名前で我に返る。顔を上げるとレイがこちらを見つめていた。
「大丈夫か」
レイは大きく肩で息をしている。右手は胸の辺りを押さえていた。
原因はわからないが呪術が進行しているようだ。そんな苦しい状況でもレイの手はサラを離さないでいてくれる。
「行くぞ」
サラは涙を堪え大きく頷くとレイと出口へ向かった。
辺りに倒れている人はいない。来た時と同じだ。でも冷たく静謐だった空気にかすかな血の臭いが混ざり始めていることに気が付いていた。勝手に震える足には感覚がなく、レイが引っ張ってくれているおかげで動けている。
知っている声が聞こえた気がして咄嗟に振り返った。
神殿の奥に兄の姿を見つけたが、こちらに背を向けて何かと戦っている。劣勢なのか少しずつ後退しているようだ。
「お兄ちゃん!」
「お前は早く逃げろ!」
カイはこちらに振り返ることなく叫ぶ。その近くに魔術を唱えているジークヴァルトの姿も見える。
突然洞窟が大きく縦に揺れた。揺れはすぐに収まったが、天井や石壁がミシミシと嫌な音を立て始めた。
カイがこちらを振り返る。白銀の毛は所々赤く染まっていたが、その顔は聞き分けのない妹を安心させるためだけに微笑んでいた。
「後で必ず行く!」
「約束だよ!」
カイはサラの手をしっかりと掴んでいるレイを見た。
「サラを頼むぞ」
紫色の瞳には一途な光が滲んでいる。
レイは真剣な表情で頷くと、再びサラを促し出口へ向かった。
もつれそうな足を必死に動かし神殿を走り抜ける。神殿を無事に抜け広間の出口が見えてきたところで、レイが何かに気付き後ろを振り返った。
レイはサラの手首を強く引き寄せ、出口の方へ放り投げた。サラはその勢いを殺せず、前のめりで掌と膝をつく。痛みよりも驚きで振り返ると、レイは剣を抜いて巨大な二体の石像と対峙していた。命を吹き込まれたかのように動き始めたそれは、神殿の入口にいた古代種の石像だった。
「レイッ!」
レイはサラを庇うように石像の前で立ち塞がっている。
「出口まで走れ!」
呪術が進行した状態で自分の倍以上に大きい石像を相手にするなんて、いくらレイでも無事で済むわけがない。
「でも――」
レイはサラを振り返るとにっと笑った。
「お前がいると本気が出せないからさ」
軽口を叩くレイに向かって石像が二体同時に動き出した。見た目と大きさから想像も出来ないほど滑らかで素早い。
レイは石像の重たい剣撃を受け止めず身を躱している。
「早く行け!」
自分がいても邪魔になるだけだ。サラは掌を固く握りしめた。
「待ってるから!」
涙声を気取られないように叫んで身を翻した。
何も出来ない自分に苛立ちながらも、広間から狭く暗い洞窟へ足を踏み入れた。来るときに一定の間隔で松明を設置していたため、何も持っていないサラでもかろうじて歩けるほどの明るさを保っている。一本道だったため迷うことはないだろう。震える足で地面を踏みしめサラは走った。
不意に鋭く肌を刺す視線を感じた。ぴたりと足を止め、息を呑む。洞窟の中は不気味なほど静かでサラ以外誰もいない。後ろを振り返っても、前を見ても人影はないが、視線と気配は消えてくれない。
これ以上進んだら駄目だ。
頭の奥で警鐘が打ち鳴らされる。サラは慎重に後ずさった。踵で蹴ってしまった石の転がる音が響く。
「勘は良いみたいだな」
暗闇から低い男の声が聞こえた。
「だ――誰」
絞り出した声は掠れていたが相手の耳は届いたようだ。
薄暗い洞窟の中、松明の仄かな明かりに照らされ足音と共に姿を現したのは長剣を手にした白髪の男だった。
レイと同じ褐色の肌に金色の瞳を持っているが、尖った耳の上に一対の角が生えている。
古代種の石像に似たような姿だが背中に翼はなく、妙な違和感を覚えた。
男は端整な顔に冷徹な表情を浮かべている。それが、三人の獣人と戦った時のレクスの表情と同じでサラは、ぞっとした。
「お前があいつの見つけた巫女か」
言葉の意味がわからず戸惑うサラに男は意外そうな表情を見せたが、すぐにそれは嘲りに変わった。
「『鎮めの巫女』と呼べばわかるのか? それとも『破魔の巫女』と呼んだほうがいいのか?」




