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「獲物がかかったよ」
「もう時間がない。今度も使えない屑なら別の方法に代えろ」
「せっかちだなぁ。そうやって短絡的に動くから、あんたらは目を付けられるんだよ」
「何だと――」
「まぁ、そこで見てなって。今日は当たりのような気がするんだ」
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「離せってば!」
怒鳴るアーサーの声が室内での話し合いの妨げにならないよう、レクスは部屋から離れた階段近くで立っていた。暴れる度に小さな手と足が遠慮なくぶつかるが全く痛くはない。
「姉上を守るって母上と約束したんだ!」
「――悪い魔女からか?」
初めて発せられた声にアーサーの動きがぴたりと止まる。見上げる緑色の瞳は黄金の瞳と目が合うとびくりと身体を竦ませた。
「あ、あのお姉ちゃんは良い魔女だけど――」
少年は気まずそうに俯いた。
「ならば誰から守る?」
「姉上を泣かす奴」
アーサーはそこで歯を食いしばると魔族をきっと睨み返した。
「僕が姉上を守るんだ!」
純粋で真っ直ぐな瞳がレクスに白銀色の獣人を思い起こさせた。
突然屋敷を包んだ大きな魔力に、レクスは我に返った。
直後に甲高い音が響き、少女の叫び声が後に続く。
「あ、姉上!」
レクスは抱えていた少年をその場に放り投げ部屋へと駆け出した。
柔らかい絨毯の上に落とされたアーサーは痛む膝で立ち上がると、すでに遠い魔族の背中を追いかけた。
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また窓からだ。
混乱したサラは兄を思い出す。けれど怯える少女の叫び声に我に返った。
この部屋は二階だった。たまに有翼族が誤って窓へ突っ込むことがあると聞くが、割れたガラスの上で片膝を付く背中に翼はなかった。
部屋への侵入者にマリカは息を呑んだ。
「ジ、ジュード――」
立ち上がった目つきの悪い男の後ろからもう一人飛び込んで来た。勢いが付きすぎたのか、ガラスの上に着地すると変な音をさせて床に転んだ。
「ダグ? あなた達、何を――」
ミハエルの護衛たちは操り人形のようにぎこちなく立ち上がる。斡旋所で会った時も顔色が悪く無表情だと思っていたが、今は己の意思や生気といったものすら感じられない。
生きていない、とサラは直感した。
最初に飛び込んで来たジュードは、体当たりでガラスを破ったせいで身体中に傷を負っていた。顔や掌の皮膚がぱっくりと裂けているが血は一滴も出ていない。腰や膝にはガラス片が突き刺さっているのに、痛がる素振りも見せず平然と立っている。
ダグの右足は足首から内側に曲がり、くるぶしが床に付いている。それでも表情一つ変えずにいる。
サラはマリカの腕を掴みベッドから引きずり出すと自分の背後に庇った。異様な侵入者達を正面に据えて、視線を離すことなくゆっくり後退していく。
「――です」
「え?」
マリカの掠れる呟きにサラは視線だけ寄越す。
「本――買ってきた魔術書を部屋に持ってきたのは、この二人です」
「い、一緒に――来い」
ジュードの半開きの口から、ごぼごぼと水の中にいるような不明瞭な声が漏れ出る。その後ろで猫背の男、ダグがほとんど動いていない口で呪文を唱え始める。微かに聞こえる呪文でサラはそれが転移術だと気付いた。
ダグの足元に魔法陣が現れる。転移術は高位魔術の一つで、修得することも行使することも難しい。けれどそれを難なく成功させたことにサラは驚いた。
転移術でマリカを連れ去ろうとしている。
サラは震える身体で必死に叫んだ。
「逃げて!」
恐怖で固まる少女を手で扉の方へ押しやると、自分も同じ方向へ駆け出した。
マリカが扉の取っ手に手を掛けた瞬間、蔓のように長く伸びた腕に身体ごとなぎ払われ、壁の本棚へ叩き付けられた。ぶつかった衝撃でマリカの身体に大量の本が雨のように降り注ぐ。
「マリカさん!」
目の前のマリカが吹き飛ばされてしまった驚きでサラの足は止まってしまった。その隙にマリカをなぎ払った腕はサラの首に巻き付き、掌で口を塞ぐ。反対の手はサラの腕を掴んでいた。
振り返るとすぐ後ろにジュードの顔があった。白く濁った虹彩は何かを探すようにぐるぐると動いている。あまりの異様さにサラは凍り付いた。
「か、解術師――」
声と共に瞳の動きが止まり、サラの顔に照準を合わせた。そして真っ青な唇をつり上げるとニタリと笑う。
「捕まえた!」
それは先ほどまでの不明瞭なものではなく、まるで少年のような声だった。
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レクスが扉の取っ手に触れた瞬間、強い力で弾かれた。掌は火傷のように爛れ、消えていた呪術が肘の辺りまで浮き上がっている。
『呪術の影響で回復力が遅くなっています。魔族でも傷はすぐに治らないので無理しないでくださいね。それと魔術に対する抵抗力も弱くなっていますから注意してください』
真剣な表情で説明していたサラの言葉を思い出し、レクスは忌々しそうに舌打ちをした。
「姉上!」
アーサーが取っ手に触れようとしていた。
「触るな!」
伸ばした手は寸前で止まる。アーサーは邪魔をした魔族をきっと睨んだが、目の前にある掌を見て青ざめた。
扉一枚隔てた、目の前の部屋から何かが激しくぶつかる音が聞こえてきた。
マリカさん!
サラが悲痛な叫び声が上げた。
「姉上! 姉上っ!」
少年が必死に呼びかけるが、部屋の中は不気味な程静かになった。
アーサーは震える身体と涙を堪えてレクスの足にしがみついた。
「あ、姉上を――助けて」
レクスは自分を見上げる赤毛の小さな頭に手を置いた。
無表情なその顔に、不安を取り除くための微笑みが僅かに浮かんでいることに気付いたのは少年だけだった。
「下がっていろ」
少し落ち着きを取り戻したアーサーが距離を取ったことを確認すると、レクスは険しい表情で扉に掌を向けた。




