第38話船長
料理長に教えてもらった絶景に二人は息を飲んだ。
シーセイルの旧市街は海と共に赤く染まり輝いていた。
この光景は、ふたりにとって永遠に忘れられない一瞬だった。その絶景は、記憶に刻まれて生涯忘れることがないだろうと二人は確信していた。
この旅行の一瞬一瞬がふたりにとってはかけがえのないもので、一生の宝物になりつつある。
つまり、ふたりは幸せだったのだ。
幸せには付加価値が必要だ。素晴らしい景色を見るという体験は、誰と一緒にそれを見るかで特別なものに変わる。
ふたりが同時にこの一瞬を記憶に切り取ったということは、お互いに相手のことをどう思っているかがよくわかる。
ふたりは、その絶景に目を奪われて、同じ気持ちを持ってしまう。
そして、相手が自分と同じ気持ちになっていればいいなと願う。
それがどれだけ幸せで甘い時間なのか、当人たちだけが理解していない。
「(ラファエル様と一緒に見ることができてよかった)」
マリアは心の中でそう歓喜していた。だが、ラファエルが同じ気持ちであればいいとしか思っていない。彼女にとっては、ある意味で初恋なのだ、ラファエルとの関係は……。自分のことを考えるだけで精いっぱいで、相手の気持ちを理解するまでは踏み込めない。
いや、彼女の優秀な頭脳であれば、彼が同じ気持ちだと理解するのは容易なのかもしれない。だが、彼女は優秀過ぎた。これが自分の初恋だとよく理解していた。
だから、もしかしたらラファエルが自分と同じ気持ちかもしれないと思っても、それは自分の願望によってゆがめられた結論ではないかと怖くなってしまう。
恋愛において、マリアは臆病だ。それは、婚約破棄の影響によるものだが……
それにこの旅行には同行者がいない。ふたりだけだ。だからこそ、客観的に関係を相談できる人間がいない。
この特殊な環境が、マリアに足踏みをさせていた。
「(もし、彼に嫌われたらどうしよう)」
その怖さが彼女の心の重石になっていた。一度、婚約までしたのに浮気されてそれが破棄されてしまったのがトラウマになっている。
でも、このままでは変わることができない。
だからこそ、彼女は少しだけ勇気をもって踏み出した。
彼が自分と同じ気持ちだと信じて……
テーブルの彼の左手の上に自分の右手を重ねた。ラファエルは少しだけ驚いたが、優しく彼女の気持ちにこたえた。
手を裏返しにして、優しく手を包み返した。
ふたりの体温は少しずつ交換されていく。
この時間が本当の意味で忘れられない時間になっていく……
※
夕食パーティーは終わり、ふたりは船長室に向かった。ノックをして中に入る。アンティーク調の赤いソファーと机があって、船長は少し離れた執務椅子に座って目を閉じていた。さきほどの優しい雰囲気をまとわせながらも、どこか厳しそうな顔をしている。
「わざわざご足労をおかけして申し訳ございません。外に漏らすわけにはいかない話でしたので……」
「構いません。さきほどまでは、ただの旅行者でしたが、この部屋に入れば私は公爵家の当主です」
マリアは、久しぶりに公の場での仮面をつけていた。その口から発せられる覇気に、隣にいたラファエルですらとても驚いている。おそらく、船長はもっと驚いているだろう。
広大な領地を治める公爵家の当主として、彼女は両親が亡くなってからは執務を完璧にこなしていた。この旅行中は信頼がおける公爵領の行政官たちによる審議制で執務を代理してもらっているが、彼女が一人で執務をしていた時は経験豊富な行政官ですら舌を巻くほどの仕事をしていた。
さらに、王太子の婚約者時代は、宮廷外交の場にも何度も同席している。クセの強い大国の大使や高級官僚とも何度も接してきているのだ。
すでに、熟成した政治家としての風格すら漂っていった。さらに、横にはラファエルがいる。この布陣で失敗することはそうそうないだろう。
大佐として何度も修羅場をくぐり抜けたはずの船長ですら、圧倒するほどのオーラをまとう。
「これが本物か」と船長は内心で動揺していた。
「それで船長さん、相談したいこととは?」
マリアはそう切り出した。
「はい、王太子殿下の件ですが、どこまで知っていらっしゃいますか?」
「残念ながら何も知りません。婚約破棄……されてから、私はあえて中央からは遠ざかるように情報を遮断して旅行しているのです。だから、王都でどんなことが起きているかは、ほとんど知りません」
「で、では……今回の遊覧航海に申し込まれたのは全くの偶然なのですか!?」
「偶然? 船長、あなたが何を指して偶然と言っているのか、本当にわからないのです。最初から説明してくださいませんか?」
「わ……わかりました。その様子から本当に知らないようですね。王太子殿下があなたと婚約破棄をしたことで、国王陛下が激怒なさったのです」
それは当たり前だ。ただでさえ、国王派と王太子派は対立を抱えていた。まさか、策すら講じずにあの決断をしたというのか。ふたりは、王太子の無策に驚いていた。
「そのあと、何かあったのですね?」
「はい。国王陛下は、王太子派の切り崩しをはじめて次々と有力者が粛清されました。王太子殿下は、少しずつ追い詰められて……少数の側近たちと共に、行方をくらませました。つい、数日前のことです」
「「なっ……」」
ふたりは絶句する。まさか、王都を離れてそこまで時間も経っていないのに、ここまで状況が悪化しているなんて思わなかったのだ。
さらに、国家の次期指導者の地位にある王太子が行方不明になった。状況から考えれば、誘拐ではなく自分から姿を消している。おそらく、国外逃亡するつもりだろう。海外亡命、それも王太子ほどの人間が国外逃亡などしてしまえば、間違いなく相手国に利用される。
「王太子殿下が自ら祖国を売ろうとしているのか?」
先に怒りの声をあげたのは、ラファエルだった。
王太子の側近中の側近だったからこそ、彼の選択を許せないのだろう。無責任すぎる。ならば、なぜあの時諫めたのに婚約破棄を強行したんだ。
「そして、シーセイル海軍の司令官は王太子殿下派なのです。彼は、殿下たちをこの街に匿って海外逃亡を手助けしようとしているらしい」
船長は、頭を抱えながらしゃべった。聞くと、どうやら企てを知った現役時代の部下から相談を受けたようだ。
「退役した私ではどうしようもないことです。ですが、あなた方なら……どうか、協力していただけませんか?」
ふたりは即座に頷いた。




