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アップロード者はいつ死ぬのか:マイア⑤―1

 やけにしんと静まり返った部屋の中で、母が首から血を流して倒れていた。傍らに立っていた甲斐は、自分じゃないと叫んでから、まるで逃げるかのようにどこかへ消えてしまった。彼が消失した空間に風が吹き付け、床に落ちていたナイフに光が反射し、埃がキラキラと舞っている。


 一体、何が起きているのか、意味がわからないマイアは入り口に立ち尽くしたまま動けなかった。兄を呼び止めようと踏み込んだ真一郎の足が、その場に縫い付けられたかのように固まっていた。誰もがそれを確認することを恐れているかのように沈黙していると、一番、人の死に慣れている榊が、


「退きなさい」


 と二人を押しのけ、強引に部屋の中に入り、母の下へと駆け寄っていった。彼女は首筋で脈を取ることを断念すると、胸に耳を当てて、手首の脈を探し、手にしたペンライトで母の瞳孔を照らしてから、最後に長い溜め息を吐いた。


 それからゆっくりマイアの方へ振り返ると、彼女は申し訳無さそうな表情で首を振った。


 その瞬間、まるで堰き止められていたダムが決壊するかのように、マイアの瞳からポタポタと涙が溢れ出てきた。全身の力が抜けて、膝から下の感覚が無くなり、自由落下するかのように体が地面に吸い寄せられていく。


 そんなマイアの体を、真一郎がギリギリで抱きとめる。彼女は彼の腕の中で、ハアハアと呼吸困難の患者みたいに荒い息を吐きながら、焦点の合わない目で空中を見上げていた。


 母が死んだ……? どうして……?


 マイアはその事実を受け入れることが出来ず、頭の中はぼんやりと霞がかっているようだった。父が死に、婚約者が死んで、そして今度は母まで……自分の周りで次々に起こる、まるで呪われているかのような不幸の連続に、彼女の精神がついに追いついてこれなくなった。


 心臓がバクバクと爆音を立て、一拍ごとに全身を貫くような痛みが走った。今すぐ悲鳴を上げたいくらい、心が痛いというのに、体はピクリとも動かなかった。


 マイアの様子が明らかにおかしいのを見て取った真一郎は、慰めの言葉を探したが、うまい言葉は一つも浮かんでこなかった。榊と三田も、お互いに気まずそうな表情で頷き合っている。彼女らもまた、鷹司イオナの死を受け入れることが困難なのだろう。その娘を気遣うことも出来ず、ただ力なく立ち尽くしているだけだった。


 しかし、そんな時だった。


「ちょっと待って、まだ殺さないで? あ、でも、やっぱり死んでるんだけどね?」


 誰もがショックで言葉を失っていると、突然、どこからともなく、気が抜けてのほほんとした声が聞こえてきた。誰ともなくどよめきが起こり、動揺する人々の間で、マイアは二重の意味でショックを受けていた。一つはその内容に、もう一つはその声の主が誰であるかということに……彼女は驚きの声を上げた。


「お、お母さん……どこにいるの!?」

「どこって言われると、ここ? ここにいるのだけど……えーと、榊さん、そこにいるならモニターの電源を入れてくれないかしら? こっちからはどうしようもなくて」


 母の声に反応した榊が、その母の死体が座っている机のキーボードを乱暴に叩くと、壁にかけられていたモニターがパッと点いて、そこに母の姿が映しだされた。全員がその元気そうな姿を見て唖然としていると、母はキョロキョロと周囲を見渡すように視線を動かしてから、パタパタとマイアに向かって手を振って、


「イ、イエーイ……マイアちゃん、見えてるかしら? 驚かしちゃってごめんなさいね。お母さん、甲斐君に殺されたわけじゃないのよ?」


 母ののんきな声を聞いて安心したのか、マイアの体には活力が戻ってきた。代わりに他のみんなは脱力した。パソコンの前にいる榊が、母の死体とモニターの中の彼女とを交互に見ながら、


「し、主任、な、何なんですか、これ? いまいち事態が飲み込めないのですが、一体何がどうなっているんですか?」


 すると母は平然と、いつもの口調で、


「あら、やだ。榊さんなら、何が起こったかなんてすぐわかるでしょう?」

「はあ? い、いえ、わかりませんが……」


 からかわれていると思ったのか、榊がムッとした表情で返すと、母は愉快そうに、


「ほら、よく見てください。私はアップロードしたんですよ」

「え? アップロード……はあ!? アップロード!? なんですってっ!?」


 これにはその場にいる全員が驚きの声を上げてしまった。確かに、アップロードの研究者である榊ならそれに気づいても良さそうなものだが、寧ろ分かるからこそこれ以上なく驚いている彼女に向かって、母はあっけらかんと続けた。


「実はね、もしも私がKAIと接触すれば、万が一のことも有りうるのではないかと思って、あらかじめ準備をしていたんですよ。そしたら、悪い予感が当たってしまって、これこの通り……」

「ちょ、ちょっと待ってください! 主任。そもそも、あなたが何をしようとしていたのかすら、私は一切知らされていないのですが……というか、あなたは本当にアップロードされてしまったのですか? つまり、死んでしまったのですか?」

「ええ、見ての通りです。そこに私の死体も転がってるでしょう?」


 母は寧ろ胸を張って言い放った。確かに、そう言われてしまえば返す言葉もないが……榊は渋い表情で、


「……ま、万が一って言ってましたが、じゃあ、主任は本当に殺されたというのですか? 一体誰に?」

「甲斐君でないことは確かですよ。それより……その彼が全部破壊してくれたみたいですけど、ここに来るまでに壊れたお掃除ロボットや警備ロボットを見ませんでしたか?」

「え……? ええ、はい。ありましたね。まさか、そのロボットに殺されたなんて言いませんよね?」

「いいえ、そのまさかです」


 母は平然と言い放つ。榊は冗談じゃないと叫んだ。


「そんな! AIが人間を殺すなんて、ありえませんよ!? 少なくとも、ここの警備ロボは人を攻撃してはならないとプログラムされてるはずです!」


 すると母は肩を竦めて、


「確かにAIは自律的に人を襲うようには作られてません。ですが、命令があれば話は別ですよね。じゃなきゃ、警備ロボなんて作る意味がないでしょう?」

「それはそうかも知れませんが、だからって人殺しなんて……本当にAIが? そんな……ありえないですよ」


 命令されれば、そんなことも出来るのだろうかと榊は首を傾げている。母はそんな彼女の疑問を無視するかのように、


「ところで、多分ですけど、このフロアに限らず、今コフィン内にいる警備ロボが厳戒態勢に移行しているんじゃないですか?」

「そうです! 私はそれで主任のことを探していたんですよ」


 榊が思い出したように肯定すると、母はやはりと言った感じに頷いてから、


「そして外では、人面瘡の罹患者が爆発的な勢いで増え続けている……違いますか?」

「ええ、ここに来る途中、ニュースでそんな話を見ましたね」


 こっちは代わりに三田が返事する。マイアもここへ来るまでのパトカーの中で、そのニュースを見ていたが……まさか、この2つに関連性があるだなんて思いもしないので、その場にいる全員が首を傾げていると、母は徐ろに告げた。


「警備ロボの暴走と人面瘡のまん延。これらは一見、関連性がなさそうに思えるでしょうが、ある共通点があるんですよ。それがなにかといえば……実はどちらもアップロード者に関係があったんです」

「アップロード者……? どういうことですか? 主任が殺されたこととも関係があるんでしょうか」

「ええ……非常にややこしい話ですから、まずは黙って私の話を聞いてもらえませんか? 手始めに、オール・ユー・キャン・暴徒の世界で人面瘡が発生したメカニズムについて話さなければならないのだけど……よろしいかしら?」


 ゲーム世界のバグについて、どうして今話さなければならないのだろうか? その場にいる全員が疑問に思っていたが、誰も何も言えずに黙りこくっていたら、母はそれを肯定の合図だと思ったのか、いつものように滔々と語りだした。


「まず、オール・ユー・キャン・暴徒の世界は、全てのユーザーが一個の3Dモデリングで作られたマップに同時に存在しているわけではなくて、ユーザー一人ひとりが自分だけの見た目世界を構築して、みんな別々の世界を見ている。そして他のプレイヤーとの会話や、アイテムの交換などは、サーバーを介してデータだけがやり取りされ、それらのデータはサーバーに保存されている。ここまではいいわね?


 ところで、これらの世界がどう描画されているのか、ちょっと考えてみましょう。世界には、例えばビルや木々などの静的なオブジェクトの他に、動的なプレイヤーや車やNPCが存在していて、サーバーはこれらの動きを演算してからクライアントにその情報を送り、クライアントプログラムはその情報を反映した見た目世界を構築し、プレイヤーの目にこれを映す。


 ここまでを1トランザクション=1フレームとして、プレイヤーは最低30FPSのフレームレートで描画される世界の中を動き回ってるわけだけど……実際問題、30FPSというのはVRゲームとしては粗すぎて、ほぼすべての人が違和感を受けるレベルなの。完全没入型VRだと、気分が悪くなる人も出てくる粗さだから、出来るだけそうならないように、サーバーは多くのトランザクションを一度に処理したいわけだけど、そのためにはサーバーのCPU数を増やし同時接続しているプレイヤーの人数を減らす、のが一番簡単な方法よね。


 オール・ユー・キャン・暴徒のフレームレートにはそんな感じで、CPU数に比例し、プレイヤー数に反比例するという比例関係がある。それから、見た目世界の中に現れるモブの数も重要になってくるわね。例えば、渋谷のスクランブル交差点を描画する時と、狭いエレベーターの中を描画するときでは、サーバーが演算しなくてはならないオブジェクト数は雲泥の差と言っていいでしょう。


 ところで、この描画される群衆(モブ)は、テクスチャの被りを避けるために、髪型や目の色、シャツやズボンのような各部位ごとに、数万種の画像が用意されてるの。その全てをビットマップのような生データで保存していては処理が重くなりすぎるから、これらの画像にはJPEGのような非可逆圧縮技術が使われている。十分な解像度が確保されていれば、それで問題ないのだけど……


 もしも何らかの事情でCPUがフル稼働して最低限のフレーム数が稼げなくなったら……つまり処理落ちが発生したら、まずこの見た目に影響が現れるようになってるのよ。


 何故なら、動作を疎かにすると、人や車なんかが瞬間移動して見えたり、現実ではあり得ない動きをしてしまうから、ゲームが成り立たなくなるでしょう? だからサーバーは見た目を犠牲にしてでもフレーム数を確保しようとする傾向がある。もしもトランザクションを処理しきれず30FPSを下回ったら、足りないフレームを前後のフレームから予測生成したフレームで埋めて、キャラクターの動きだけはなめらかに動いているように見せかける。


 ただし、そのぶんテクスチャの解像度は落ちて、NPC(モブ)の体にははっきりとそれと分かるザラついたノイズが浮かび上がってしまう……毎回、画像を解凍しなければならない非可逆圧縮技術の弊害ね。更に、こうして一度でもNPCの表面にノイズが浮かび上がってしまうと、サーバーは時系列順に起きた変化を何も疑うことなくそのまま保持してしまい、これがNPCに刻印のように刻まれてしまうと、もう取り除くことが出来なくなる。つまり癌化してしまうわけね。


 これが人面瘡の正体だったのよ」


 滔々と語る母の言葉に、この中で唯一ついていけてそうな榊が代表して質問する。


「人面瘡はサーバーの処理落ちの問題だったんですか? でも、そんなのすぐに分かりそうなものですよね。どうして原因究明に、こんなに手間取ったんですか?」


 母はそんな彼女に頷き返すと、


「それがそう簡単な話でも無かったのよ。原因を特定するには、同じ状況を再現するのがてっとり早いけれど、オール・ユー・キャン・暴徒のサーバーは強力すぎて、まずそんな状況が起きなかったの。例えばイベント時、サーバーには全世界から数十万の人間が同時アクセスしてきて、その数十万が同じ場所で遊ぶなんてこともあったわけだけど、それでも人面瘡は今まで一度も現れなかった。


 それが突然、現れるようになったのは、KAIという不確定なプレイヤーがゲームの世界に紛れ込んできたのが原因だったのよ」

「甲斐君がどうして? 彼は寧ろ、妹さんのことを助けようとしていたはずなのに」


 まるで甲斐が人面瘡をばら撒いているような言い方に、甲斐に同情的なマイアが不服そうに抗議すると、母は難しい表情をしながら、


「その妹さんが、最初は何が切っ掛けで人面瘡に罹ったのかは分からないわ。でも、NPCの間で人面瘡が流行し始めたのは、甲斐君が同じ時間を繰り返したせいだと思われるのよ。


 彼は妹さんを助けるために、10年以上の時間を繰り返してきたと言っていたけど、実際には覚えていないだけで、もっと莫大な試行が繰り返されていたはずなのよ。それは同時並行的に行われていて、彼は同一時間、同一空間のゲーム世界をいくつもいくつも作り出しては、それを体験していた形跡がある。それが、サーバーに残されたページファイルを解析した結果、浮かび上がってきた事実だった。


 彼はサーバーのCPUを専有して、パラレルワールドをいくつも作り出していたのよ」


 その言葉を聞いて、段々と頭がこんがらがってきたのか、榊が難しそうに顔を歪ませながら問いかける。


「主任。私たちは今、ゲームの話をしているんですよね……? 現実に起きている人面瘡のことではなくて……甲斐の存在は、現実の人面瘡とは何も関係ないんですよね?」

「それが必ずしもそうとは言いきれないのよ。まずは馬鹿馬鹿しいと思わないで、ちょっと私の話を聞いてくれないかしら」


 話は、また思わぬ方向に向かい始めようとしていた。


***********************************


「シュレーディンガーの猫の話はみんな聞いたことがあると思うけれど、私たちの目には見えないミクロの世界では、確率を収縮させるのは観測という行為である……というのは、割りとよく知られている事実よね。


 不思議な話だけど、少なくとも原子より小さな世界では、意識を持つ観測者が物理現象の結果を左右しているらしい……この量子論のコペンハーゲン解釈と呼ばれる不穏な考え方は、1930年代に著名な数学者ジョン・フォン・ノイマンが提唱して以来、論議の的になってきた。この考えに納得がいかなかった人はもちろん多くて、その急先鋒がアインシュタインであったこともまた有名な事実ね。


 彼は終生、量子論陣営とは相容れなくて、そのリーダーであるニールス・ボーアと喧々諤々の議論を交えた。まだ若い物理学者でしかなかったボーアにとって、すでに世界的天才科学者として知られていたアインシュタインとの戦いは、きっと生きた心地がしなかったでしょうね。それでも彼は自分の主張を曲げずに戦い続け、アインシュタインはついに量子論を否定することが出来ずにこの世を去った。


 彼の死後、量子論とコペンハーゲン解釈は物理界に広く受け入れられるようになっていった。何しろ世紀の大科学者でも否定できなかったのだから、これはもう本物で間違いないだろうと、誰も深く追求しようとはしなくなった。ボーアもノイマンも……内心ではどう思っていたかは知らないけれど、それについて特に言及しなかった。彼らはもう、議論に疲れ果てていたのでしょう。


 けれども、コペンハーゲン解釈は最初に指摘した通り、とても不穏な考え方よ。もしも人間の意識がこの世界に影響を与えているのだとしたら、あらゆる物理現象は人間の都合によって捻じ曲げられていたことになる。それが本当なら、この世界は何者かが、人間のために作り出したと考えてもおかしくなくなる。


 もちろん、そんなことは受け入れられないし、きっとまだ何か見落としがあるはずだと考える人が出てくるのもまた時間の問題だった。


 ヒュー・エヴェレット3世は正にその一人だった。彼は、コペンハーゲン解釈は間違ってはいないけれど、ただ少し視野狭窄に陥ってるんじゃないかと考え、当時の人にとってはとても奇妙な物を持ち出してきたの。それが何かといえば、パラレルワールドのことね。


 彼は確率が収縮しているように見えるのは観測の結果ではなくて、元々世界は観測するよりも前にあらゆる結果の世界(パラレルワールド)に枝分かれしていて、観測者はたまたまその内の一つにいるだけに過ぎないのだと考えた。


 分かりにくいから例え話にするけど、ある人が登山をしてる途中で分かれ道に差し掛かった。その人が右の道に行くのも、左の道に行くのも50%の確率だけど、どちらに進むかは結果を見なければ分からない。


 もし彼が右に進んだのなら、それは観測者が観測したから彼は右に進んだのだ。観測しなければ彼はまだ右にも左にも半々の確率で存在するのだ、というのがコペンハーゲン解釈。


 いや、彼が分かれ道に差し掛かった瞬間、世界は彼が右に行った場合と、左に行った場合の2つの世界に分岐したのだ。彼が右に行ったように見えたなら、それはたまたま観測者がその世界にいたからなのだ、と考えるのがエヴェレットの多世界解釈なの。


 どっちかと言えば、エヴェレットの方が無茶なことを言ってるように思えるけど、彼はこうすることによって、ともすると決定論的に見えるコペンハーゲン解釈を打開したわけ。こうすれば、人の『意識』が介在する余地は無くなるから。


 この考え方は結構重要で、その後量子論がどんどん発展していくと、コペンハーゲン解釈を採用したままだとあらゆるところに神の見えざる手が出てきてしまうのだけど、多世界解釈を採用すればそれを無視できる。だから現在の科学界では、多世界解釈のほうが主流となっているのだけど……


 当時の人には、こんな考えは到底受け入れられなかったのね。エヴェレットの指導教官であるジョン・ホイーラーは、量子論の父であるボーアとも面識があったから、早速この考えを披露したの。ところが、ボーアはこの考えを馬鹿げていると一蹴して、彼の学生にこの考えを捨てるよう強固に迫った。その結果、エヴェレットはボーアにバレないように、こっそりと自分の論文を書き換えなければならない羽目になってしまったのよ。


 まったく無名の学生を相手に、物理界の大物が主張を撤回するように迫る。歴史は繰り返すと言うけれど、自分がアインシュタインにやられたのと同じことを、皮肉にもボーアはエヴェレットを相手にしてしまったのね」

 

 時は20世紀から5世紀まで遡る。

 

「話は変わるのだけど、私たちは常に現在にいるのに、どうして過去について明確に知り得るのか。今ここには、過去も未来もない。ではどこにあるのか。それは私たちの中にある。というのが古代のキリスト教神学者アウグスティヌスの結論なのだけど……


 実際問題、私たちは現在にいると考えられるけど、そう考えた時点で現在はもう過去の出来事よね。過ぎ去りし過去にはもう及ばないし、まだ見ぬ未来は知りようもない。なのに私たちがそれを感知できるのは、私たちの脳には過去の記憶を集めて、それを使って未来を予想しようとする、そういう仕組みが備わっているからと考えられる。寧ろ私たちは、過去を想起し、未来を想像することによって、その中間にある現在を感じてるというわけ。


 それを踏まえて、記憶というものについてちょっと考えてみましょう。私たちの過去は、脳の中に全部そのままの形で『しまってある』わけではなくて、毎回その特定の時点を脳を使って映像として思い出している。だから記憶違いなんかが起こるわけだけど……そして、そうやって思い出した映像を使って、あの時ああすれば良かった、こうすれば良かったと仮定の世界をいくつも妄想しては、それを未来に役立てているわけよね。


 つまり、この時に妄想した無数の世界の一つが現在に繋がっているわけだけど、そう考えると、未来に向かう過程で、今現在も我々はこうして無数の妄想世界を生み出し続けていると考えられるわよね。


 ところで、何でもいいのだけど、AIについて考えてみて。例えば、コンピュータ将棋がどのようにして、次の一手を考えているのか。AIは次の一手を見つけるために、実際には一手だけじゃなくて、数手先までの手を盤面に全て並べて思考している。可能であれば、数億、数兆通り、ゲームが終了するまでのあらゆる手を実際に並べて、その数億、数兆ある盤面の中から、一つの最善手を見つけているわけよね。


 無数にある失敗を繰り返して、たった一つの正解にたどり着く。それは全ての未来を予想して、一つの世界を観測する……パラレルワールドを移動しているのと、結果的には同じことじゃない?


 こんな具合に、実はAIにとってはパラレルワールドを移動するのは当たり前のことなのよ。将棋プログラムに限らず、自動運転でも、警備ロボでも、お掃除ロボでも、AIはこれから起こりうる未来を全て試してから、次の行動を選択している。それをイベントごとに、もしくは一定時間間隔ごとに繰り返して、間違いが起こらないよう行動している。


 さて、これでようやく元の話に戻れるのだけど……ゲーム中の甲斐太郎は現実世界に体を持っていない。従って、彼の思考は全てCPUに依存している。AIと同じようにね。


 そんな彼が、妹さんを助けるために、あらゆる未来を想像して、つまりパラレルワールドを作り出して、実際に行動した結果が、今回の人面瘡事件の真相だったのよ。


 彼は人間が頭の中で考えるように、ワッと無数のパラレルワールドを作り出して、その一つを選択しながら仮想世界を渡り歩いてきた。それは彼にとっては時系列順に起こったように感じられたでしょうが、元々並列処理をするのが当たり前のサーバーでは、それが同時に起きていた。それがサーバーに残されていた、膨大なページファイルを生み出した正体だったわけね」


 お前のほうがよほど不穏なことを考えている……そうとでも言いたげに、榊の顔は強張っていた。


「えーと、主任……ゲーム世界ではそうやって人面瘡が発生したというのはわかりました。ですが、それは現実とは別の話なのでは?」


 すると母は首を振って。


「いいえ、たった今、話したばかりじゃない。現実世界もまたエヴェレットの多世界解釈の方を採用しているんだって。


 今の科学会では、多次元宇宙の中に私たちのとそっくりな並行世界が存在するのは、当たり前のように信じられていることよ。私たちには感知できないだけで、余剰次元の壁で阻まれた今この場所に、無数の私が存在しているのよ。そう考えれば、ゲームの世界で起きたことが、現実では起こらないという理由はないじゃない。


 現実と区別がつかない仮想現実を作り出した時点で、私たちは気づくべきだったのよ。私たちの現実もまたシミュレーション世界の中にある。


 私たちの世界を演算しているこのシミュレーターは、きっと私たちには想像もつかないテクノロジーが使われているはずよ。でも、その技術を持ってしても限界があった。そして処理落ちが起きたことで、現実世界に現れたのが、人面瘡だったのよ」


 つまりそれは、マイアの心臓が人面瘡に冒されたのも、この世界がコンピューターの中にあるからと言うのだろうか。


「ちょっと待ってよ、お母さん。それじゃ、お母さんはこの世界も、オール・ユー・キャン・暴徒と同じような仮想現実だったって言うの? いくらなんでも、そんなこと信じられないよ」


 いつもの母なら、娘にそんなことを言われようものなら、すぐに挙動不審に陥っていただろうが、しかし、今の母はまったく動じることなく、


「でもマイアちゃん。あなたは甲斐君を見てどう思った? どうして彼は、ゲームのスキルをこっちの世界で使えるの? それは現実もまた、ゲームと同じだからじゃない?」


 そう言われてしまうとぐうの音も出なかった。マイアが言葉に詰まっていると、榊が焦れったそうに、


「いいでしょう。主任の言う通り、仮にこの世界がゲームと同じなのだとしたら、どうして私たちの世界にまで人面瘡がまん延しているんですか? 何故、私たちの住む世界は、急に処理落ちが発生し始めたんでしょうか?」

「最初に人面瘡が発生したのがいつかは分からない……けれど、漠然といつから流行し始めたか、その時期は分かりますよね? それはだいたい、アップロード技術が確立した時期と重なるのではないか……つまり、アップロード者が世界に影響を与えている可能性がある」


 アップロード者が人面瘡の原因だというのは、今にして思えば、最初から母が主張していたことだった。彼女は、この話をする前に、はっきりそう口にしていたはずだ。ようやく、そこへたどり着いたのだ。


「もう一度、パラレルワールドが発生するメカニズムを思い出して? 人間が何かを選択するとき……過去を想起し、そこから未来を予想して行動しようとするたびに、パラレルワールドは生み出される。


 それはその人が生きている限り続くけれども、その人の死という形で、必ず終わりが訪れる。この世界がシミュレーション世界なら、その時、CPUは演算を終えるわけだけど……


 アップロード者はいつ死ぬのかしら?」


 それが、この世界に人面瘡が蔓延っている理由だ。彼女はそう主張しようとしていた。


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