語り得ぬもの:甲斐⑤―3
『私』とは何なのか。この世に存在するのは私だけで、全ては幻なんじゃないか。何故なら、世界は私の意識の内に立ち上るものだが、他の誰からも『私』のような意識主体は感じられない。だからこの世に私以外の人間は存在しない。私が眠っている間、もしかすると世界は存在していないのかも知れない。大体、私が死んだ後の世界のことなんて、考えるだけ無駄ではないか。人はしばしばそんなことを考える。こういうのを独我論という。
意外かも知れないが、哲学者のウィトゲンシュタインは独我論を信じていたらしい。だがもちろん、彼の言う独我論はこのような物ではない。
「私自身にとっての最初の経験は、自分の周囲を見ることであって、自分自身を見ることではなかった。生まれたばかりの赤ん坊には、まだ『私』という主体は存在しない。何故なら、『私』という概念を認識するための言語すらまだ持っていないから。
生まれたばかりの私には世界はどう見えていたのかしら……多分、のっぺりとした色の洪水でしょうね。生まれたばかりの私にとっては、母親も看護師も、産湯も時計も、ベッドの白いシーツも医師の白衣も区別がつかない。すべてが初めて見る世界だから、すべての物が等しく見える。すると、すべての色が混ざりあって見えたでしょう。
そののっぺりとした色の中で、何か特別に蠢く色がある。それを母親だと認識するのには、まだ時間が掛かるでしょう。長い時間を掛けて、何か自分にとって良いことをしてくれる色がある。そうしてそれが特別な色だと認識することによって、始めてその色と世界が分離される。でもまだ赤ん坊は、それを『母親』だとは認識していない。それをようやく認識できるようになるのは、言葉を覚えてからに違いないでしょう」
アップロードとは、デジタルな世界に『私』をコピーすることだ。高井はダウンロードが何故成功しないのかを考え、この『私』という意識主体を正確に捉えられていないからだと考えた。だから彼女は考え始めたのだろう。この頭の中でうるさい『私』を、どうやったらコンピューターにコピー出来るのだろうか。それは技術的な話ではなく、ひどく迂遠な、哲学的な話らしかった。
「さて、赤ん坊がどうやって言語を習得していくのかはまだ置いておいて、一先ずは既に言語を習得している私たちが『世界を見る』という行為について考えてみましょうか。
私たちが世界を見る時、私たちは見たものを頭の中で分節化している。分節化っていうのは、例えば今目の前で黒猫が歩いてるとしたら、私たちはその光景を見て、『黒い』という概念と、『猫』という対象と、『歩く』という動作に分類している。こうやって、事物の構成要素を取り出すことを分節化と言うのだけど、私たちは何かを見た時、パッと頭の中でそういう作業をしているわよね。
例えば、赤い車が走っているのを見たなら、『赤い』という概念と『車』という対象と『走る』という動作に。誰かが頭を抱えながら嘆いているなら、『誰か』と、『頭』という対象と、『抱える』と、『嘆く』という行為に。風が強く吹いているなら、『風』と、『強い』と、『吹く』に、分けて考えている。こういうことを頭の中で瞬時に行っている。
そして、こうして分節化することによって、私たちは世界を正しく見ることが出来るだけではなく、あり得ない想像の世界を考えることも出来るようになった。例えば、豚が空を飛んでいるとか、猫がご飯をくれと鳴いているとか、宇宙人がUFOに乗ってやってくるとかね。これは言葉が分節化されていなければ、考えるどころか思いつくことも出来ないはずよ。
このように、分節化されたあらゆる対象や概念が詰め込まれた空間のことを、ウィトゲンシュタインは論理空間と呼称したの」
「その、なんちゃらシュタインってのは?」
「前世紀の、ドイツの偉い哲学者のことよ。彼の考えを学ぶことによって、私たちは世界の見方が大分変わるの。それによって私は『私』について、そこそこ考えられるようになった。論理空間というアイディアもその一つね」
「ふーん……」
「論理空間には私たちの知らない対象や概念ももちろん含まれている。
例えば、縄文時代の人にパソコンと言っても分からないように、今の私たちにもまだ知らない技術が存在するはずよね。他にも例えば、英語話者の言ってるOKと、日本人の感じているOKはニュアンスが違う。そのような未知の技術や感覚も、論理空間には含まれている。つまり、私たちの世界は、この論理空間の全部ではなく、一部であると考えられるわけ。
さて、生まれたばかりの赤ん坊は言語を持っていないから、まだこの論理空間が存在していないはず……なら、彼らにはどんな風に世界が見えているのか、ちょっと考えてみましょう。
今、私の目の前には机がある。机の上にはパソコンのモニターとキーボードとマウスが置いてある。私がそのように感じるのは、私が『机』と『パソコンモニター』と『キーボード』と『マウス』という対象と、『置く』という概念を知っているからよ。でも、赤ん坊はそれを知らない。
私たちは『机』と聞くと、四本脚で天板が乗っている姿を想像するけど、赤ん坊はまだそれを知らないから、彼には目の前にあるそれがそういう形であることが分かってない。更には、彼には『置く』という概念もないから、机の上に乗っている物が実は分離できるということもわからない。
だから、彼はきっと机の上に乗ってるモニターやキーボードとマウスも含めて『何かがある』と感じるはずよね。なんだか四本の細い棒が地面に……彼には地面という概念も無いけど、それは置いといて……地面に伸びてて、上の方の平べったいところにはおかしな突起がいくつかあると、そう感じているはず。
彼には、実はその四本脚が地面とは繋がってなくて、上の突起が着脱可能だとは想像もつかない。そこへ私がやって来て、上に乗っているモニターを持ち上げて見せたら、彼は『あっ!』と思うでしょうね。『あっ! 何かが変わった』って。
でもそれだけ。彼は暫くしたらその何かが変わったことすら忘れて、そこにある机とモニターを『何かそのようなもの』として感じるようになる。そしてまた私が机の上にモニターを下ろしたら、彼は最初に見ていたように、四本脚の上に変な突起がついてる物体として再認識するようになるでしょう。
彼には『置く』とか『持ち上げる』という概念がないから、その時起きた変化について考えることも出来ない。可能性とはこのように、言語が表現するものとしてのみ成り立ち得る。言語が無ければ、可能性も存在しないのよ。
まとめると、論理空間を開くには、世界を対象と概念に分節化されていなければならない。私たちは言語によって世界を正しく認識することが出来るようになり、そして私たちは言語を手に入れることによって可能性を広げられるようになった……
でもね、こうして私たちは言語によってあらゆることを表現したり、考えたりすることが出来るようになったのだけど、どうしても言語化出来ないってものがやっぱり存在するのよ。しかも、私たちはその言語化出来ないものによって世界を認識している。実は私たちの意識主体である『私』も、『世界』も、その語り得ぬものによって成り立っているようなのよ」
甲斐はうんざりするように肩を竦めて言った。
「つまり、どういうことだってばよ」
高井は淡々と続ける。
「簡単に言うと、私たちが世界を認識するための基本的な能力については、実は言葉では説明できない。語り得ぬものだってことに、ウィトゲンシュタインは気づいたのよ。
そもそも、その語り得ぬものとはどういうものなのか、ざっと考えてみましょうか。例えば『〇〇は語り得ぬものである』という命題があるとする。この『〇〇』にあてはまる物や概念は、現実に存在しそうではある。でも、これだ! と思って、この『〇〇』が何であるのかを説明しようとすると、途端に腰が砕けてしまうことがわかるかしら?
もし『〇〇』が何であるかを説明できるならば、あとに続く『語り得ぬものである』と矛盾してしまう。だから『〇〇』とは説明不能な何かのことである。
ウィトゲンシュタインは、この『〇〇』にあてはまるものには『私』や『世界』が含まれている、と考えた。そして古今東西の哲学者たちが言葉を尽くして説明を試みようとしてきたあらゆる概念が、この『〇〇』であったと切って捨てたわけ。無駄なことだからやめてしまえと。
彼は著作『論理哲学論考』の中で、その語り得ぬものについて苦心しながら語っている。そしてその最後に、それまでの説明を全部投げ捨て、『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』と締めくくっているのよ」
「なんだそりゃ。結局、何も分からなかったってことか?」
甲斐は疑うように眉を顰める。しかし、高井は首を振って、
「いいえ、違うわよ。分からないんじゃなくて、言葉には出来ないってこと。私たちにもその経験はあるはずなのよ。例えば、私たちはいつ、どうやって言語というものを習得したのかしら。その時の様子を想像してみましょうか。
子供は成長してくると、最初は親や兄弟などの家族が使ってる言葉を真似するようになり、次第にその使い方を理解してくる。すると色んなものに興味を持つようになって、あれは何? これは何? と家族に尋ねるようになってくる。いわゆる、なぜなぜ期と呼ばれるものが始まるわけね。
子供はこの時に多くの言葉や概念を習得するわけだけど、中には大人でも答えられないようなことがしばしばあって、私たちは上手く説明できなかったり、癇癪を起こして突き放してしまうことがある。でも、そうやって不完全な説明しか受けてないはずなのに、何故か子供は納得してくれたり、暫くすると自己解決してたりする。そういうことが積み重なって、いつの間にか子供は言語を自在に操れるようになっていく。私たちはみんな、そうやって言葉を覚えてきた。
でも、よくよく考えてみればおかしな話よね。何故、正しく教わらなかったことを、私たちはいつの間にか正しく理解していたのか……? ウィトゲンシュタインに言わせると、実は理解していない。語りえぬものがここにあるというの。語れないから、彼はそれを『像は写像形式を写像することは出来ず、ただそれを示すだけである』という難しい言葉で表現しているわ。
このままじゃ分かりにくいでしょうから、ざっくり説明すると……像と写像はわかるわよね? 例えば、あなたは今、美術室で石膏像をスケッチしているとする。この石膏像が『像』で、スケッチに描いた絵が『写像』ね。『写像関係』というのは、対象を結びつけるもの。この像を写像に写し取る時に、頭の中にあるイメージと考えてみて。
私たちは石膏像をスケッチする時、じーっとただそれだけを見ながら描いてるわけじゃないじゃない。まずスケッチブックを何度も見るだろうし、自分が描いた線も熱心に見ている。その時、像は視界から離れて、頭の中に浮かんでいる何かモヤッとしたものを参考に、私はスケッチを描いている。
この、何かモヤッとしたものを、ウィトゲンシュタインは『写像関係』と呼んでるわけ。そして彼は、この『写像関係』は写像することが出来ない。この場合の写像は絵で描くことじゃなくて、言葉を使って説明すること。つまり『写像関係』は言葉で説明することは出来ないと彼は言うわけ。
そんなことないんじゃないか? と思うかも知れないから、試してみましょう。
例えばここに猫の写真がある。あなたに絵心があるなら、これを絵に描くことが出来るでしょう。そして絵に描けるなら、言葉で説明することも出来そうじゃない? でも、実際やってみようとすると、これが難しいのよ。
もう一度言うけど、写像関係とは、対象を結びつける何かのこと。この猫と猫の写像を結びつける言葉……と考えれば、色々出てくるんじゃないかしら。例えば、猫とかわいいは結びつくけど、猫と硬いは結びつかないとか。
他にも、猫とにゃーと鳴くは結びつく、猫と髭が生えてるは結びつく、猫とツリ目、猫と肉球、猫とふわふわ、猫としっぽ、猫とぴょこぴょこ動く耳……こうやってどんどん言葉を集めていったら、次第に一つの像が浮かんでくるじゃない? そうしていつか完璧な像が浮かび上がったら、それを写像関係と呼べるんじゃないかしら? つまり写像関係は言葉で説明できるのではないか……
ところが、じゃあ、ここにもう一枚別の猫の写真がある。さっきとは柄も体型も顔も違う猫だ。これを見た瞬間、たった今、あなたが作り上げようとしていた写像関係は変化してしまったんじゃないかしら。あれ? 猫ってこんなんだったっけ? と混乱し始めているかも知れない。さっきまで『猫』という確固たるイメージがあるような気がしていたけど、それがあやふやになってしまった。
あなたはこう考える。よろしい! 確かに、さっきまで考えていた写像関係は間違っていたかも知れない。でも、またこの二枚の写真を使って考えたら、今度こそ一般的な猫の像のようなものが浮かび上がってくるんじゃないか。すなわち、猫の写像関係だ。そう思って、あなたはこの二匹の猫に共通する、あらゆる猫一般に通用しそうな言葉だけをピックアップし始めた。やり始めてみたら、様々な言葉が思い浮かんでくる。なんだやっぱり簡単じゃないか……と思ってるかも知れない。
では、最後にこの猫のイラストを見て、あなたはどう思ったかしら。きっと今まで積み上げてきた言葉がガラガラと音を立てて崩れ落ちたんじゃない? たった今まで、猫というものについて、様々なイメージを持っていたけれど、今は猫とは何なのか、よくわからなくなってきた。これもやっぱり猫だけど、さっきの二枚とは何から何まで違うじゃないか。猫とは何か。上手く説明できない。言葉にならない。
ところが、あなたはこの三枚の画像を見て、そこに映っているものを『猫』であると立ちどころに答えられるでしょう。
写像関係が写像できないというのは、つまりこういうこと。私たちは猫が何であるかを知っている。でも、『これが猫であるならば〇〇である』という言葉で語ることは出来ない。なのに何故かそれが猫であると認識している。他のどんな対象や概念であってもそう。例えば、犬も猿もキジも、走るも笑うも痛いも、どんなものにも、いざ説明しようとすると、どうしても言葉が詰まる地点がある。語り得ぬものが、そこにあるのよ」
言語の内に映し出されるものを、言語が描き出すことが出来ない。意味を尋ねる私たちの問いが突き当たり、何も答えられなくなる地点が必ずある。言語学者も心理学者も脳科学者も、みんな何かしら理由をつけようとするが、最も大事なのは、そこに答えがないことを知ることなのだと、ウィトゲンシュタインは語る。
「私たちは言葉によって世界を認識している。論理空間の中にある言葉を用いて、世界を写像することによって。ところが、私たちが使う『言語』には、誰かに教えられて習得したものじゃない『何か』が含まれている。これがあって始めて人は論理空間を、世界を認識できるにも関わらず。
言うなれば、この感覚を獲得した時、人は世界を正しく認知できるようになったと考えられる。つまり『私』が誕生したのはこの瞬間のはずよね。
何しろ語れないものだから、この『何か』はその人固有のものでしょう。すると『私』が見ている世界と、『あなた』が見ている世界は違うことになる……私たち人間は、それぞれ別々の世界を見ている。
私たちはお互いに猫という動物のことを知っている。でも猫とは何かということを、言葉で説明することができない。猫って何? と問われた時、あなたと私は『猫である何か』をイメージする。そこに何か共通点がありそうな気がするけれど、多分、そんなものは存在しない。例えば、猫が好きな私と、猫が嫌いなあなたなら、想像するものはまったく別物になるでしょう。
私たち人間は、みんな別々の世界を生きている。なら『私』とは、この世の事物に意味付与を行う『主体』のことではなく、世界そのものであると考えられるのではないか。今頭の中でべらべら喋ってるこの声じゃなくて、今見えている世界の方が『私』なのだ。我思う故に我ありではなく、我思う故に世界がある。これがウィトゲンシュタインの言う独我論の正体なのよ」
甲斐にはモヤモヤしたものが頭の中で蠢いているような、そんな感覚がしていた。話の内容は理解できているのだが、それが消化しきれていないような、そんな感じだ。彼は唸るように言った。
「言ってることは何となく頭に入ってくるが、納得は出来ないな。あんたが言うように、世界が俺なんだとしたら、世界がべらべら喋るってのか? 大体、目の前にいるあんたは何なんだ。実は存在しない幻だっていうのか?」
「違う。あなたが見ている私は幻だけど、ちゃんと存在はしている。ただ、私たちは見ている世界が違うというだけのことよ」
「だからどういうことだよ」
「あなたは既に、それを見てきたのではないかしら。世界の外側で……透明な檻の中で」
甲斐の脳裏に、世界の外側で見た風景が浮かび上がる。世界の外側に出た彼は、実は世界は自分の可視範囲しか描画されていなかったことに気がついた。そこへ連れて行ったら、妹やTAKAたちは消えてしまった。それは彼らもまた甲斐の目に映る見た目だけの存在だったからだ。それは分かるのだが……
「しかし、それはここが現実ではなく、ゲームの中だってだけの話じゃないか。それともなにか? まさか、あんたは現実の方も、実はゲームの中だったなんて言い出すつもりじゃないだろうな?」
「そのまさかよ」
甲斐の疑いの言葉に、高井は躊躇なく頷いた。
「『世界』とは『私』のことである。私はそれを今までちゃんと理解できていなかった。独我論なんてものは、ただの幼稚な空想だと、端から信じる気にもなれなかったし、想像もつかなかった。でも、もしもこの世がゲームの中なのだとしたら……それは容易に想像できるわよね?
今回の一連の事件を調べていて、ふと思ったのよ。私たちは見ている世界が違う。この世界はゲームの中だ。その仮定に立ってみて、改めて事件を見直してみたら……その全てに説明がつくんじゃないかって」
高井の想像の飛躍は留まることを知らず、それは事件の核心にまで及んでいるようだった。果たして彼女は何にたどり着いたのか。甲斐はそれを胡散臭いと思いながらも、黙って聞いているしかなかった。




