懺悔でもしようってのか?:甲斐⑤―2
ダウンロードに興味はないか……? 突然、降って湧いたような言葉に、甲斐は一も二もなく興味があると返事した。
妹を救うためにループを繰り返し10年近い月日が経過して、すっかり当初の目的を忘れてしまっていたが、元々、甲斐は現実世界に助けを求めるのが目的だったのだ。自分が現実世界に戻れるのであれば、ゲーム世界の妹を助けることも容易いだろう。何しろ、現実にはこの世界を実際に稼働している、サーバーがあるのだ。
しかし、今までいくらやっても戻れなかった現世に、果たしてそう簡単に戻れるのだろうか。ましてや、甲斐は正規の手段でアップロードされたわけでもなく、自分がどういう状態なのかもよく分かっていないのだ。
それに、高井という人物のこともよくわからなかった。何故、ヤクザの組長が甲斐のことを知っていたのか、状況からして、彼がプレイヤーであることも知っていそうだが……
「知らねえよ。俺は単に、おまえにダウンロードがどうのこうの言えって、そう命じられて電話したまでだ。末端の俺がこの街を牛耳ってるオーナーのことなんて、知るわけねえだろ? あとのことは自分で確かめたらどうだ」
石川に尋ねてみたら、そんな返事がかえってきた。突き放した物言いではあるが、彼の言い分ももっともだろう。それにヒントもあった。考えてもみれば、高井組が街を牛耳ってるということは、運営に携わっているということとも読み取れるではないか。
実際、オーナーと会うために指定された場所は思いがけない場所だった。コフィンである。この世界では、金持ちのタワーマンションという設定だから、金持ちの高井が住んでいてもおかしくはないが、何とも示唆的な待ち合わせ場所だった。
いつものように盗難車両に乗ってやって来た羽田空港で車を降りると、一般客に混じって回転扉を押し開けて空港に入った。待ち合わせロビーでキョロキョロしていると、いかにもと言った感じの黒服が近づいてきて、案内するからついてこいと職員用の通路を歩かされた。
地上階へ降りるとシャトルバスが待っていて、貸切状態のそれに乗ったら前置きもなくバスは発進し、滑走路を横切ってエアフロートへと向かっていった。いつもなら警察車両で溢れかえっている島の道路は無人で、警備ロボットだけが辺りをうろちょろしていた。その静けさは、夜の墓場を思い起こさせるというか、まるで世界の終わりに迷い込んだみたいだった。
バスは無言のまま島内を走り抜け、やがてコフィンの玄関前で停まった。無人の広場は殺風景で、いよいよこの世には自分ひとりしか存在しないんじゃないか? と思っていると、ビルの中から案内役のロボットが現れ、ついてこいと促された。
やたら流線型のデザインのロボットの後に続いてエレベータに乗ると、触手みたいな手がニョキニョキ伸びて、操作盤にカードキーが差し込まれる。と、同時にスーッとドアが閉まって、ヒュンというモーター音と共に押し付けられうような重力が発生した。
やがてエレベーターが減速し始め、体は無重力のように軽くなった。階数を表す文字盤からして、相当上層階に連れてこられたみたいだった。相手はかなりの金持ちなのだろうか……?
そんなことを考えながらエレバーターを降りれば、いきなり誰かの家のリビングルームに繋がっていた。金持ちのタワマンという設定だからだろうか、1フロアまるごと高井の所有物なのだろう。カウンターのあるダイニングキッチンとテーブル、柔らかそうなソファに大きなテレビ、壁にはよくわからない絵が掛けてある。スロープのような緩やかな階段が壁に沿ってぐるりと中二階まで続いており、どうやら、そこにもまだ部屋がありそうだった。
背後でエレベータのドアが閉まる音を聞きながら、取り残された甲斐がキョロキョロしていると、また別のロボットがやって来て、奥の部屋へと促してきた。一応、警戒しながら扉をくぐると、奥に続く通路の左右にいくつかの扉が見え、正面一番奥の扉が開いているのが見えた。
恐らく、そこが目的地だろう。気を引き締めて部屋に入ると、そこには何らかの医療設備みたいな機械が置いてあり、壁にはいくつもの巨大なモニターが掛けられていた。スイッチは入っておらず、画面は真っ暗であったが、他の機械は稼働しているのか、小さな機械音が耳鳴りみたいに響いていた。
ここは何の施設だろうか? と、そんなことを考えつつ様子を窺っていると、中央にある大きな執務机らしきところに、一人の白衣の女性が腰掛けていた。ピンと背筋を伸ばして、置物みたいに、フラットな表情でこちらを見ている。あまりにも風景に溶け込んでいて気づかなかったが、どうやらこれが高井であるらしい。甲斐はごくりと唾を飲み込むと、微動だにせず彼のことを見つめている女性に話しかけた。
「あんたが、高井オーナーか?」
彼女は緩慢な動作で頷いた。
「意外だな……ヤクザの組長って言うから、てっきり男だと思い込んでいたんだが……」
「それはただの設定よ。本来、高井というキャラクターはこのゲームには存在しない。フレーバーテキストみたいなものね」
「じゃあ、あんたは一体、何者なんだ? どうして、俺をこんなところに呼び出した」
「呼び出した理由ならもう伝えてあるでしょう。私は、現実世界でアップロード理論を研究している研究者なのよ」
「それって……」
国内でアップロード理論の第一人者といえば、鷹司イオナ博士しか考えられなかった。実際に彼女の職場であるコフィンにわざわざ呼び出したことからしても、その可能性は非常に高そうである。
そんなノーベル賞級の科学者が、どうして甲斐なんかを名指しで呼び出したのかは不思議だったが、ダウンロードなどという未知の技術の研究のためと言われればわからなくもなかった。甲斐は、どう考えてもこのゲーム世界で異常な状況に置かれている。それを調べるために、彼女はわざわざ名前を伏せてまで会いに来たのだろう。そう考えれば辻褄が合った。
「そうか……つまり、あんたはNPCではなく、現実世界のプレイヤーってことで間違いないんだな?」
「ええ、より正確に言えば、運営側の人間よ。GMと考えて貰って差し支えないわ」
GMという単語を聞くや否や、甲斐の緊張は一気に解れた。彼女には悪いが、甲斐の目的はダウンロードにはない。まず第一に妹を助けることにあった。甲斐は勢い込んで懇願した。
「あんたが運営の人間なら話は早い。実は、このゲームに閉じ込められてから、ずっと一緒だったNPCが人面瘡に罹って治らないんだ。ただの感傷だってことはわかってるんだが、彼女が死ぬのは忍びない。もしあんたに、サーバーに触れる権利があるなら、なんとか妹のデータを修復してくれないか?」
すると高井は相変わらずフラットな表情で首を振り、
「それは出来ないわ」
「どうして……!」
「意地悪で言ってるわけじゃないのよ。おそらく、今ここであなたとこうして会っていることを、私はログアウトをしたら忘れてしまうでしょうから」
「忘れる? おい、冗談でも言ってるつもりか……?」
「いいえ、冗談でもなんでもないわ。あなたには、そのような経験があったんじゃないかしら?」
甲斐が睨みつけても高井は表情一つ変えなかった。肝が据わっているというよりは、当たり前のこととでも言いたげな真っ直ぐな瞳に眉を顰めていると、甲斐はふと、TAKAたちのことを思い出した。
そう言えば、以前、プレイヤーとしか思えない人々に出会ったのに、彼らに事情を話して世界の外側に連れて行ったら、甲斐のことを忘れてしまうという出来事があった。そんなこと現実にはあり得ないから、きっと彼らはNPCだったのだと考えて忘れることにしたのだが……
その後も、プレイヤーとしか思えない人には幾人も出会ってきたが、その悉くが記憶を失ってしまった。これらの人々は、やはり現実の人間だったのだろうか……?
「ええ、そうよ。彼らの記憶からはあなたのことが消去されているけれど、あなたと出会ったという痕跡だけは残っていたの。それで、私はあなたの存在を確信したのだけど」
「現実の人間から記憶が消去される……? そんなことが有り得るのか?」
「消去される、と言うよりも、彼らがあなたが存在しない並行世界へ移動したと考えるべきかしら」
「平行世界だと……? 本気でそんなこと言ってるのか?」
「でも、あなたはそれを見てきたはずよ。世界の外側で」
「世界の外側……だと?」
それはやはり、あの用水路のテクスチャの切れ目から落ちた先の、奈落のような空間のことを言っているのだろうか? そこには無数の見た目世界が浮かんでいて、透明な檻の中で暮らしている人々の様子が覗えた。
オール・ユー・キャン・暴徒ではない、別ゲーの見た目世界も見ることが出来て、甲斐はそこでチートスキルを手に入れたのだ。そしてそのことをTAKAに教えた途端、彼は消えてしまった……いや、より正確に言えば、彼の記憶から甲斐のことが消えてしまったと見るべきか。
「あなたはきっと、あの場所に行った時に、こう考えたはずよ。この世界のプレイヤーはみんな同じ場所にいるように見えて、実際にはそれぞれ別々の世界を見ているんだって。別々の世界に居るのに他のプレイヤーのことが見えるのは、単にアバターが表示されているだけで、会話はサーバーを通じて行われているだけだって。だから世界の外側に出てしまえば、サーバーの通信が途切れて、他プレイヤーのアバターも消えてしまったんだって……
現実に、それと同じことが起きていたのよ。
あなたと出会ったことは、ちゃんとプレイヤーたちの記憶には残っていたの。でも、あなたは現実には存在しないはずだから、サーバーのログ、つまり現実の記録には残らなかった。だから運営もプレイヤーも、あなたのことを探そうとしても絶対に見つからなかった。
その事実があなたを孤立させたのよ。あなたが、あなたを正しく認識しているプレイヤーを探そうとしても、相手があなたのことを見つけられないのだから、あなたも彼らのことを見つけられない。その結果、あなたの世界では過去改変が行われて、あなたは該当プレイヤーと出会っていない世界へ平行移動した……
あなたと、他プレイヤーの世界は、こうして隔たれてしまったわけ」
甲斐は慌てて高井を止めた。
「ちょっと待て! それはゲームの話だろう? 現実の人間の記憶から、俺の記憶が消えるなんて、あり得ないんじゃないか!?」
すると高井は相変わらずフラットな表情でゆっくりと首を振って、
「いいえ、消えるのよ。ゲームの世界で、あなたと他プレイヤーが別々の世界を見ていたように、現実世界の私たち人間も、それぞれ別々の世界を見ているの。そう考えれば、現実世界のプレイヤーたちから、あなたの記憶が消去されたことが、頷けるんじゃないかしら?」
「そんな馬鹿な!!」
「でも現実に、そんな馬鹿げたことが起きてきたんじゃない……
私たちの世界には、実際にあらゆる可能性を秘めた平行世界が存在すると考えられている。あなたが他プレイヤーに出会った世界を世界Aと称すると、世界Aが生じた瞬間、出会わなかった世界Bが同時並行的に生じるのよ。
その世界Bは、あなたと他プレイヤーが一緒にいる間は、次元の外側に隠されているんだけど、あなたと他プレイヤーが別れた後は、世界Bの方が世界Aより起こりうる可能性が高いから、あなたは世界Bに移動してしまったわけ。
こんな風に、多世界解釈によると、あらゆる事象のすべての結果は起きていると考えられているのよ。私たちはその内の一つの世界に存在しているわけだけど、でも、すべての結果が起こるなら、どうして起こる可能性が高い結果と、低い結果があるといえるのかしら。
一般に、日常的な場面で私たちが確率を持ち出すのは、知識が不完全だからよね。コインを投げた時、もしもそのコインのことを十分に知っていたなら……例えば、コインの正確な重さ、大きさ、材質、偏りがあるのかないのか、コインを投げる時どの方向に、どのくらいの力で投げたのか、ありとあらゆることを予め知っていたなら……結果を予測できるでしょう?
並行世界が生じるのは、こういう私たちの知識が不完全な時なのよ。並行世界の住人たちは、それぞれ自分自身の一つの世界にしか入れないから、他の世界で何が起きているのかがわからない。そんな風に視野が限られているから、確率が忍び込んでくるのだとエヴェレットは論じているわ。
要するに、とある事象が一つの結果に絞り込めない時に並行世界は生まれ、私たちは最も有り得そうな結果を信じようとする。だから、現実には存在しないあなたのことを、私たちが探そうとした結果、こんなことが起きたってわけね」
正直なところ、高井の言うことは半分も理解できなかった。しかし、目の前にいる女性が、高名な科学者であるという事実が、彼の反論の気持ちをへし折った。彼女が世界が変わると言うのだから、世界は変わるのだろうか……? いや、しかし、納得がいかないと甲斐は首を振った。
「ちょっと待て。それじゃ俺は知らない内に世界を変えていたってのか? 神様じゃあるまいし、そんな大それたことが出来るわけがないだろう。それとも、まさか俺が神とでも言うつもりかよ?」
すると高井は珍しく表情を崩して失笑気味に、
「もちろん、そんなわけないでしょう。あなたが変えたのは、あなたの世界だけよ。さっきも言ったじゃない。私たち人間は、それぞれ別々の世界を見てるんだって」
「別々の世界……」
「ゲームの世界と同じように考えて。あなたの世界には、あなたしか存在しない。目の前に見えてる私はただのアバターだ。人間はみんなそういう世界に生きている。
では、こういう世界を想定した時、最も簡単にあなたという存在を消す方法は何かしら。それは、あなたと、あなたが出会った人々の記憶を消去することじゃない。これなら、たった二人の記憶を改ざんするだけで済む。世界を全部塗り替えるなんて面倒なことはしなくていいわ。一番エネルギーに無駄がない。効率的よ。
そして、これが多世界解釈の肝なのよ。平行世界なんて言われると、みんな何かどでかい宇宙をドカンと持って来て考えちゃうけど、そんな必要は元から無かったの。冷静に考えてみれば当たり前よね。殆どの人にとって、赤の他人が何をしようと、恐らく一生何の影響も受けないはずなのに、誰かが並行世界を移動したからって、世界全体を変える必要なんてないわ」
確かに……甲斐はなんだか言いくるめられてるような気がしていたが、反論することも出来ずに黙って話を聞いていた。しかし、これまた冷静に考えても見れば、どうして自分たちはこんな話をしているのか、彼女の雰囲気に飲まれて忘れていたが、ここにはダウンロードについて話を聞くためにやってきたはずだ。
「……いいだろう。あんたの言いたいことは分かった。よく分からないけど分かった。とにかく、あんたには俺の妹を助けることが出来ないんだな? 記憶が失われてしまうから」
「そうね」
「だったら、俺が現実に戻るしかないじゃないか。さっさとダウンロードについて教えてくれ。俺はそのために呼び出されたんだよな?」
「ええ、そうね。そうだったわ……」
甲斐に促された高井はそれで自分も何のためにここに来たのかを思い出したかのように一つ咳払いすると、人差し指を顔の横に立てて、しばしの間、口を半開きにしたまま固まっていたが、
「まず結論から言えば、現在、私のダウンロード研究はうまく行ってないの。だからあなたを確実に現実に戻せるとは限らないのだけど」
「おい、ふざけんなっ!!!!」
甲斐がドスを効かせて怒鳴り声を上げると、さしもの天才科学者も少々ビックリしたように身を固くし、
「落ち着いて、まずは話を聞きなさい。うまく行ってないも何も、ダウンロードは現在、世界中で成功例が一例もない技術なのよ? そんなものを簡単に出来ますだなんて言えないわ」
「……だったら何故、俺を呼んだんだ?」
「それは、もしもダウンロードが可能であるなら、その条件に最も近い場所にいたのがあなただったからよ」
「俺が……?」
「ええ、あなたは自分がかなり特殊な状況にあることを、自覚しているはずよね?」
確かに、甲斐は自分が生きてるんだか死んでるんだか、よく分からない状態にあることを認識していた。挙げ句の果てに、現実の人間たちの記憶からも消去されていたなんて言われて、これで普通だと思えるわけがないだろう。
彼が頷くと、高井は続けて、
「ダウンロードという技術は、アップロードとは逆。つまり、コンピュータ上に写し取った精神を、今度はまた肉体に戻そうって技術のことよね。この、精神を肉体に定着させるということが、実は私が考えていたよりも厄介な問題を孕んでいた可能性があるのよ。何と言うか、ダウンロードはもっと主体的な物でなくてはならないのかも知れない……」
「主体的?」
「現在、確立されてるアップロード技術というのは、死にかけの人間の全身をスキャンし、その全てをコンピュータ上に再現することによって、精神を電脳空間に写し取るという技術。つまり肉体から機械へ、有機から無機への転換であって、その際、アップロード者は自ら何かをする必要はない。全部、機械によって行われる、受動的な技術と言っていいでしょう。
ところがダウンロードというのは、無機から有機、機械から肉体への精神の移動を行うわけだから、その仕上げの段階でどうしても主体的にならざるを得ない工程があるのよ。何と言うか、生きている人間なら誰しもが持ちうる、私がこの肉体の持ち主であるという感覚……本人がこれを惹起しなければならない瞬間が必ず訪れる。そこでうまく精神を移し替えられなければ、ダウンロードは絶対に成功しないでしょう。
でも、そんな感覚、誰にもわからないわけよ。もちろん、私にも。私たちは、意識してこの身体で生まれてきたわけじゃないんだから。でも、あなたになら、その感覚が分かるかも知れない」
「なんで、俺が……? いや、続けてくれ」
そんな当然の疑問が沸いたが、あまり掘り下げていても話が進まないだろう。どうせ、話の途中で理由に触れないわけにもいくまい……甲斐はそう思い、先を促した。高井も頷き、
「そうね、話を続けましょう……でも、その前に、まずは私は罪の告白をしなければならない……」
「……罪? 懺悔でもしようってのか?」
甲斐の言葉に高井の顔が曇る。茶化すつもりはなかったのだが、何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。甲斐は訂正しようとしたが、今度はそれを制するように高井が続けた。
「今話した通り、ダウンロードというのはコンピュータ上の精神を肉体に定着する技術……つまり、そのために私はこれまでに、何体もの人体を再生していたのよ。
それは、アップロード者の生前のDNAから作り上げたクローン体……精神がないから動くことは無いけれど、逆に言えば、それさえあれば動くことが出来る、完全な人間の身体……つまり、脳死状態の人体だった。
私はそんな完全な人間の身体を何体も作り上げ、ダウンロードに失敗しては廃棄してきた……だから、きっとタガが外れていたのね……そんな時に、私の娘が人面瘡を患い、心臓移植手術を受けなければ生きていられない状態に陥ったのよ」
「心臓移植……だと?」
甲斐が眉を顰める。高井は無表情に頷く。
「だから私は倫理に反すると知りながら、娘のクローン体を作り、心臓を手に入れようと考えた。そして実際に娘の身体を作ってしまった……ところがそんな矢先、困ったことに私に先んじて、彼女の婚約者がどこからか移植用の心臓を手に入れてきてしまったのよ。つまり、それが、あなたの心臓だった……」
「そうか……そうだったのか……」
甲斐は放心するかのようにため息を吐いた。高井の罪とは、このことだったのか。
いや、彼女の罪は人体を身勝手に培養したことであって、甲斐のことには関係ないだろう。寧ろ、甲斐は自分の心臓の行き先が知れて、彼女に感謝しているくらいだった。少なくともこれで、自分は無駄死にでは無かったと分かったのだ。高井の娘が助かって良かったと彼は思った。
高井は続けた。
「心臓移植の手術を受けて以降、何故か娘はあなたのことを夢で見るようになったらしいわ。それが今回、あなたを発見する糸口になったのだけど……それはともかく、こうして私は娘を助けるつもりでクローン体を作ってしまったのだけど、それが必要なくなってしまって今度はその処理に困ってしまった。
生命維持装置から外せば、クローン体はすぐに死ぬわ。いつもなら、そうしていたんでしょうけど、でもその時はそうするのが忍びなくなっていた。そこにあるのは、娘と同じ見た目をした完全なクローン体だったから。今更、身勝手にも程があるけど、私はそれを処理しきれず、ズルズルと引き伸ばしてしまっていたのよ。
ところが、そんな時に事件が起こった。私が目を離した隙に、そのクローンが突然居なくなってしまったのよ」
「居なくなった?」
「ええ……後に映像が見つかるんだけど、どうやらこの時、クローン体は自分の意志で勝手に動き回っていたみたいなの。でも、そんなことは絶対にあり得ないのよ。
クローン体には精神がない、脳死状態と同じだから絶対に動けるわけがない。誕生から暫く放置されていたから人格が芽生えたという可能性も、まず考えられない。そんなので芽生える精神なんて、たかだか赤ちゃん程度のものでしかないでしょう? まだ言語を持たない赤ん坊は、考えることは出来ないし、当然、身体を動かすことだって出来ないわ。
なのに、映像のクローン体は当たり前のように歩き回っていた。しかも、どうやら会話をしていた形跡もあるらしい……そんな絶対にありえないことが起きていたのよ。これをどう見るべきか。
私にはクローン体の中に誰かが入っていたとしか思えないのよ。つまり、私の娘のクローン体に、誰かがダウンロードしていたんじゃないかって……もしそうなら、この現象は恐らく人類初のダウンロードの成功事例と言えるでしょうね」
「……その可能性は高いのか?」
高井は無言でうなずいた。
「他に可能性もないから、そう考えるのが筋でしょうね。恐らく、何者かが私の娘のクローン体を使って、ダウンロードを行った。つまり、ダウンロードは不可能な技術じゃないのよ。でも、私にはそれが出来なかった。きっと、今まで何か根本的な見落としがあったんでしょうね。それで、まあ、ちょっと考えたのよ」
「考えたって……何を?」
高井はすぐには答えず、しばしの間目をつぶってじっと黙考してから、おもむろに話し始めた。
「抽象的なことなのよ。アップロードってのは、具体的に言えば、頭の中にある『私』をデジタルに変換することよね。『私』ってのは主体というか、主観というか、頭の中でべらべら喋ってる何者かのことよ。言ってる意味はわかるかしら?」
「ああ、まあ」
「私は、その『私』のコピーを、全身スキャンすることで成し遂げてきた。ベイジングスーツは、その着用者の全細胞と、身体の中を流れる電気信号を全部スキャンして、デジタル空間にそっくりそのまま再現することでアップロードを実現していたのよ。
でも、それで本当に『私』がデジタル化されたのか……実は、このことは誰にも確認出来ていないのよね。アップロードされた本人が出来たと言っているだけで、実はこの『私』が本物かどうかは誰にも確かめることが出来ない。語り得ぬものなのよ。
当たり前よね? あなただって、あなたが『あなた』だって、どうやって証明すればいいのかしら。我思う故に我ありと言うけれど、それが分かるのは『私』しか存在しないのよ。
だから、私がデジタルにアップロードした『私』は偽物だと批判もされている。誰も本物か偽物かわからないから。言うなれば、私たちは都合がいいからそれを本物と言い張り、私たちの敵対者は都合がいいからそれを偽物だと言っている。お互いに、都合の悪いことから目を背けているだけ。それが今の世界なのよ。
でも、未だにダウンロードが成し遂げられていない今、私はそろそろ目を背けてきたこの事実に向き合わなければならない。この頭の中でうるさい『私』とは何なのか……それが分かれば、ダウンロードは実現できるはずだから」
この『私』は明らかに私の中にある。具体的には脳の中にありそうだ。だが、今までどんな脳科学者が頭の中を調べても、そんなものは見つからなかった。果たしてこの『私』は何なのか。それは幻なのだろうか?




