ならば、もう一度やるだけだ:甲斐⑤―1
パシャパシャとバタ足が水しぶきを立てていた。燦然と輝く真夏の太陽が脳天をジリジリと焼いていた。8月。残り少なくなった夏休みを満喫しようと、子供たちがプールサイドを駆けて行く。どこにでもありそうな、穏やかで平凡な夏の一コマだった。
甲斐はその日妹を連れて、何の変哲もない区民プールに遊びに来ていた。最近はずっと仕事にかまけて、全然構ってあげられてなかったから、誘ったらびっくりするくらい喜んでいた。味もへったくれもない、こんな場所にしか連れてこられなくて申し訳ないと思っていたが、もう、彼女と遊んでいられる時間は残り少ないかも知れない。次またいつ連れてこれるか分からないから、そんなことも言っていられなかった。
……それにしても、更衣室の前で別れてから随分経つが、妹は一向に現れる気配が無かった。
男の着替えなんてあっという間だから、こっちのほうが先だとは思っていたが、もしかして行き違いがあったのかも知れない。そう思ってプールの中を探していたら、遠くの方から、
「わーいっ! お兄ちゃーん!!」
と、脳天気な声が聞こえてきて、振り返った甲斐は目を疑った。
やっぱり単純に着替えが遅かっただけで、妹は更衣室から出てきたところだったが、その格好がとんでもなかった。こんな一般庶民の集まる区営プールだと言うのに、彼女は何を考えているのか、胸元がヘソまでV字に開いたスリングショットを着ていたのだ。
そのナイスバディに、お父さんたちが見惚れ、夏休みの子供たちが釘付けになっている。このままじゃ、おかしな性癖をつけてしまうと思った甲斐はダッシュで妹のところまで走っていくと、
「アホかーーいっっ!!」
っと頭を引っ叩いた。そんな彼のことを、監視員が走らないでくださいと拡声器で注意していた。
「いったああーーいぃっ!! なんでぶつの?」
「こんな場所で、なんちゅう格好してるんだ! 痴女か! TPOをわきまえろよ!」
「えー? ちゃんと駄目なとこ隠れてるじゃん……それより、ねえ……どう?」
妹はイモムシみたいにクネクネしている。何をしてるんだ? と尋ねたら、
「セクシー? 悩殺された?」
「されるか! いや……妹の将来に不安を覚えるといった意味では非常に悩まされていることは確かだけど……とにかく、もう帰るぞ! 着替えてこいよ!」
「ええ!? なんで? いま来たばかりだよ?」
「こんな格好してたらご近所さんに通報されちゃうでしょ!? いいからもう、早く更衣室に戻れよ……俺は先行くからなっ!!」
甲斐は妹の返事を聞かずにズンズンと男子更衣室へと戻っていった。妹はそんな兄の後ろ姿を唖然と見送っていたが、暫くすると見る見るうちに顔が真っ赤に染まっていき、
「お兄ちゃんなんて……お兄ちゃんなんて……」
馬鹿とでもアホとでも、好きに呼ぶがいい……
「私で童貞捨てたくせにいぃぃーーっ!!」
更衣室の外から人聞きの悪い悪態が聞こえてくる。本当のことだからぐうの音も出ない。
たまたま遊びに来ていた子連れのお父さんたちが、ジロジロと遠慮なしに見てくるのを、甲斐は殺伐とした目つきで睨み返して黙らせた。その雰囲気だけで、彼がどういう人種であるか察したのだろう。みんなスゴスゴと更衣室から出ていった。
現実世界で、マイアが甲斐家へ向かうよりも、数日前の出来事だった……
ゲーム世界に囚われていた甲斐は、数ヶ月間の巻戻りを、幾度も幾度も繰り返していた。
クリスマスイブに妹が倒れて、闘病も虚しく人面瘡によって命を落とした後、ログアウトをして時間を戻した甲斐は、記憶を失った妹のことをそれでも愛していた。
現実世界に帰れなくなった今となっては、彼女は甲斐のたった一人の大切な家族だった。思い出は消えてしまったけれど、その気持ちは変わらなかった。だから彼女とこれからもずっと一緒に暮らしていきたいと願った。
そう考えると彼女との間に不誠実なことは出来ないと思うようになり、三度目の妹との生活の中で、甲斐は彼女のことを抱くことが出来なくなっていた。なんというか、好きな女の子を性欲の対象にするのを嫌う中学生みたいな感情だったが、実際のところは彼女に欲情しないわけじゃなく、ただ、何をやってもログアウト前の彼女を裏切っているような気がして、どうしようもなかったのだ。
彼女がただのNPCだということは分かっている。AIが作り出した擬似的な人格に過ぎないことも理解している。でももう、彼女をそんな風に機械的に見るのは不可能になっていた。彼女は自分の本当の妹で、守るべき存在で、絶対に傷つけていい相手じゃない。そんな彼女と面白おかしく暮らしていくのが、今の甲斐の生きる目的だった……
でも、それには問題が一つだけあった。
12月24日になったら、また、あの病気を発症するんじゃないか?
だから今度はそうならないよう、予めあらゆる手を打っておこうと甲斐は動き出した。ゲーム開始初日からすぐに複数のミッションをこなして、出来るだけ早くマルチミッションを発生させ、TAKAや通り魔など前回の仲間たちをまた集めて、人面瘡の情報を出来るだけ引き出して、ドナー登録なども行って、いざという時には妹の心臓の代わりになるものを見つけようと躍起になった。
しかし、やはりここはゲームの中なのだ。妹は人間ではなく、NPCのなのだ。いくら唸るような財力を手に入れて、あらゆる手段を使っても、NPCを治療するなんて方法は見つからず、時間だけが虚しく過ぎていった。
そしてタイムリミットの迫る12月初旬……24日を待たずして、また彼女は人面瘡を発症した。時間に追われていた甲斐はその時、心臓を求めて家には居らず、通報が遅れた彼女はあっけなくこの世を去ってしまった。
放心状態の甲斐は4度目のログアウトを決行し、前回に蓄積した情報を頼りに、今度こそ万全を期してその日を迎えようとした。しかし、4度目も打つ手がないまま時間だけが過ぎていき、そして今度は、12月を待たずして妹は命を落とした。
その後、5度目、6度目と立て続けに失敗した甲斐は、失敗する度にXデーが近づいていることに気がついた。ログアウトをする度に、甲斐はこの世界に迷い込んだ初日に戻るが、妹の死期はどんどん早まっていった。
時間的猶予が限られていることに気づいた甲斐は、もう悠長なことはやっていられないと、ゲームを飛び出して別の世界に解決策を求めることにした。かつて迷い込んだファンタジー世界で手に入れたファイヤーボールのスキルは、何度もログアウトを繰り返した今でも使えた。あの時と同じように、別の世界に行けば回復魔法も使えるようになるんじゃないかと、そう思ったのだ。
その考えは的中し、世界の外側をさまよい続けた甲斐は、ついに別ゲーの回復魔法を手に入れた。
どんな傷もたちどころに癒やしてしまうこのスキルを使えば、例え妹の心臓に人面瘡が発症したとしても治癒することが出来るだろう。そう思っていたのに……ところが、いざその時になったら回復魔法はなんの役にも立たなかった。
もしかしてこのスキルでは駄目なのか? と考えた甲斐は、次はもっと別のスキルを試そうと、状態異常回復魔法や蘇生魔法、発症自体を避けるための予防魔法など、ありとあらゆるチートスキルを使用して妹を助けようとしたが、ついに有効な手段は見つからなかった。
新たなスキルを手に入れる度に、甲斐のステータス画面は壊れていき、今となってはもう視認することすら不可能になってしまっていた。それでも、記憶を頼りにログアウトを繰り返し、妹を助けようとした彼は、同じ時間を幾度も幾度も繰り返して、時には、ゲーム内のNPCを殺すこともあった。TAKAたち仲間を裏切って、ゲーム中を追いかけ回されたこともあった。自分がやられて苦しんだことなのに、誰かの心臓を奪って彼女に与えようとさえした。それでも妹を助ける方法は見つからず、主観時間で10年を超えるような長い時間を、彼は一人で足掻き続けた結果……
妹の死期はついに8月まで早まってしまっていた。
8月の太陽がジリジリと肌を焦がす中で、もう打つ手がない彼が見たのは、一人家の中で兄の帰りを待つ妹の姿で……彼は10年にも及ぶ長い時を、結局のところ、彼女のためには一秒たりとも使ってこなかったという事実を受け入れなければいけなかった。
今までの周期から、彼女の寿命が尽きるのはあと数日間といったところだった。だからせめて今回は、最後の時まで一緒にいてやろうと思い、残りの数日を遊んで暮らすことにした。その旨を伝えた時、何ヶ月も放置されていた妹は嘘みたいに喜んで、子犬のようにはしゃいでいて、甲斐は今まで自分はなんともったいない時間の使い方をしてきたのかと悔やんだ。
もっとたくさん、話せば良かった。もっといっぱい、遊べば良かった。そんな気持ちだけで数日間を遊び回った彼らは、そして今日、この区民プールに来たのだが、隙あらばエロい展開に持ち込もうとする強引な妹にチョップをかまして、更衣室の外でまた彼女が着替えて出てくるのを待っていたとき……
その時は訪れた。
「お客様の中に、甲斐さん! 甲斐太郎さんはいらっしゃいますか?」
プールの監視員が水着のままで慌ただしく外に出てくる。何が起きたかは殆ど反射的に理解していた。妹を待つ間、呑気にアイスクリームを食べていた甲斐は、溶け落ちそうになっているそれを投げ捨てると、彼らの方へと走っていった。
救急車で病院に搬送された妹は、予想通り人面瘡に蝕まれていた。ここに至るまで、幾度も幾度も繰り返し見てきたレントゲン写真と同じように、その不気味な影は心臓全体を覆っていた。
今回のプレイでは主に世界の外側で新しいスキルを手に入れることに時間を費やしていたから、ゲーム内でのミッションを殆どやっておらず、お金を全然持ってなかった。だから高井組を頼ることも、それなりの医療機関に掛かることも出来ず、搬送された先はどこにでもありそうな市民病院だった。
もちろん、担当してくれた医師は不勉強というわけではないが力不足なのは否めず、彼自身もこれは手に負えないとはっきり言っていた。手術をすることも、適切な治療も望めず、病床で死を待つしかないと言われた甲斐は、しかしそんな医師を責める気にはなれなかった。仮に相手がブラックジャックだったとしても、妹の病気を治すことは不可能なのだ。今までにもう散々それを確かめてきたのだ。
毎度、彼女が人面瘡に罹る頃には、いつの間にか街中のNPCにも流行していて、病院は治療を求める患者で一杯だった。妹と同じように、致命的な場所に腫瘍を発症してしまい、今にも死にそうな患者もいたが、彼らも十分な治療を受けることが出来ずに、ナースセンターのすぐ横にある大部屋で人工呼吸器に繋がれ、やがて訪れる死を待ち続けていた。
ピッピッピッとバイタルメーターがハウリングを起こしそうな音の洪水の中、バタバタと忙しそうに駆けて行く看護師の足音を聞きながら、甲斐は病床の妹の手を握って、ただ天に祈るしかやれることはなかった。しかし、この世界の外側を見てきた彼は、そんな場所なんかないことはとっくに知っていた。そして、妹が死ぬことも。
だが人工呼吸器に繋がれた彼女は苦しみに耐えながらも笑顔で言った。ごめんねと。必ず良くなるから心配しないでくれと。その言葉に幾度も縋っては裏切られてきた甲斐に向かって、健気にも彼女は兄に心配かけまいとそんなことを言うのだ。そして甲斐も無駄だと知りながら、そんな言葉に縋ろうとするのだ。今度こそ、奇跡が起きるんじゃないかと思って、あらゆるチートスキルを使って彼女を助けようとして。
しかし、彼らがいくら奇跡に縋ろうとしても、時間は容赦なく彼女を死に追い立て続けていた。やがて甲斐の努力も虚しく、妹は意識を失うと、そのまま集中治療室へと運ばれていった。
タイムリミットだ。
彼女の今回の冒険は、ここで終わりを迎えたのだ。
面会謝絶の札の掛けられた扉の前で、甲斐は閉院後も呆然と立ち尽くしていた。深夜を過ぎたあたりで看護師が気づいて何をしているのかと問われ、妹のことを告げたら、彼女はとっくに死んでると言われた。この世界でNPCの死なんてこんなものなのだ。骨すら残らないし、いつ死んだのかすら分からないのだ。ただ、最愛の妹を亡くしておきながら、それを看取ることすら出来ずに、馬鹿みたいに立ち尽くしている兄がいるだけなのだ。
ステータス画面を開いたら、もう文字化けし過ぎて何も分からなくなっていた。ただ、手癖でログアウトの方法だけは覚えていたから、そうしようとした。そうすればまた最初に戻って、妹がいつものように仕事に行けとケツを叩いてくるだろう。そして甲斐はやれやれと言いながら仕事に向かって、またあの川をジャンプするのだろう。
でも、今度はいつまでもつ? 今回は8月までもった。その次は? そのまた次は? 次は? 次は? 次は? 彼女といられる時間はどんどん短くなっているから、いつかは限界がくるだろう。今はまだ数ヶ月もつから良いけれど、そのうち一ヶ月しかもたなくなり、一週間、一日、数秒までなったら、最後はどうなっちゃうんだろう? 彼女とあと何年一緒にいられるんだろう? それを過ぎたら? その後は?
病院を出てから街をどう歩いたか知らない。気がつけば夜が明けていて、空が真っ赤に染まっていて、でもそれにしては街に人が多いなと思っていたら、いつの間にか夕方になっていた。
全身汗だくで、シャツの裾からポタポタと汗が滴り落ちていて、ひどい悪臭を放っていた。人々が避けて通っていて、ずっと何も食べていないから、足元がふらついていて真っ直ぐ歩けなかった。
頭の中はグシャグシャで、ズキズキと痛む後頭部の方から爆撃機が下りて来てるかのように、キーンとずっと耳鳴りが聞こえていた。鼻が詰まって息ができない。ずっと口を開けてよだれを垂らしている。そんなに疲れてるなら立ち止まればいいのに、止まったら死んでしまう回遊魚みたいにぐるぐるぐるぐると街をさまよい続けていた。
ふと、どこかから歓声が上がった。朦朧とする意識の中でそっちの方を見れば、二人の男女が仲間たちに囲まれ祝福されていた。どことなく見覚えのある光景に記憶を辿ったら、あの日、あのクリスマスイブの表参道で見かけた男女だった。電光掲示板には、またあの時みたいにプロポーズの言葉が踊っている。
なんで、彼らがここにいるのだろうか? クリスマスまで、まだ時間は大分あるのに。今日はただの平日で、特別な日でもなんでもなかった。なのに、なんでこんなところでジェンカを踊るみたいに、みんな汗だくになって祝福なんてしてるのだろうか? 本当なら、もう二度と会わないはずだった。妹の寿命はどんどんどんどん縮まっていって、彼らが結婚するクリスマスイブなんて、遠い彼方の出来事のはずだ。だからもうあいつらの顔なんて見なくていいはずなのに……誰かの幸せそうな顔なんて見なくていいはずなのに、どうしてこんな光景をまた見せられているのだろうか? 妹の死期が早まって、もう二度と彼らは結婚出来なくなってしまうから、早めにプロポーズすることにしたのか? そうまでして人を苦しめたいのか? いや違う。ここがゲームの中だからだ。あいつらはただのNPCで、そもそも結婚なんてしないのだ。なんとなく幸せそうなモブを演出するためだけに彼らは存在して、別にクリスマスイブじゃなくても、いつでも彼らはプロポーズしてジェンカを踊るのだ。今日も、明日も、明後日も。毎日毎日、意味もなくプロポーズを繰り返すのだ。妹が、何度も何度も死ぬように。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
甲斐は獣みたいに叫んでいた。道行く人々が仰天して立ち止まる。祝福を続けるモブたちがビックリして声を失う。気味の悪いものでも見るみたいに、女の人たちが侮蔑の眼差しを向けて通り過ぎる。それでも彼は狂ったように叫び続けた。
すると突然、周囲のビルがガタガタと揺れだした。窓ガラスにヒビが入って、パラパラと道路に落ちていった。彼が怒りの雄叫びを上げて地面を蹴ると、めちゃくちゃに世界が揺れ始めた。どこからともなく隕石が落ちてきて、爆炎を上げてビルを吹き飛ばした。炎の海が幹線道路を津波のように走り抜け、車をなぎ倒していった。信号機が赤青黄パープルグリーンオレンジ見たことのないグラデーションを描いた。それが東京中全部に広がり、街はパニックになっていた。
きゃあきゃあと人々の上げる叫び声が、彼の慟哭をかき消した。それでも彼の嘆きは止まらず、世界は揺れ続けていた。もうそこに祝福する人々など存在せず、誰かのプロポーズは、甲斐の慟哭に変わっていた。
誰か助けてくれ。誰でもいい。ここから連れ出してくれ。彼女の世界はとっくに終わってしまっているのに、どうして自分の人生だけいつまでもダラダラと続くのか。本当なら自分はもうとっくに死んでいるはずなのに、どうしていつまでも生き続けているのか。どうして自分じゃなく、妹が死ななければならないのか。助けてくれ!
「俺の名前は甲斐太郎。クソみたいな両親に虐待されて育った。およそ人に誇れるような特技はなく、誰からも必要とされず、愛されることもなく、楽しかった思い出も何一つ無く死んだ。唯一人の役にたったとしたら、死んで心臓を抜かれたことだけだ。その俺が何故いつまでも生きているのか? ゲームの中にいつまで閉じ込められているのか? 知ってるなら誰か教えて欲しい。頼むよ。俺はどうなっちまったんだ? 現実のプレイヤーがいるんなら、俺をここから出してくれないか!? もう限界なんだ。
俺には妹が一人いる。本物じゃない。この世界で出会ったただのNPCだ。でも大事な妹なんだ。その妹が死んでしまう。何度やっても死んでしまう。彼女を救うためにあらゆる手を尽くしたが、考えうる限りあらゆる手を尽くしたが、俺にはもうやれることは何もない。どうしても彼女を救うことが出来ないんだ。そろそろタイムリミットが迫っている。このままいけば、彼女は永遠に助からないだろう。だから恥を忍んで頼むよ。俺の代わりに妹を救ってくれ! 俺はもう死んでいて、元の世界に戻れないから。誰か代わりに彼女を助けてくれないか? 頼むよ。
もし、現実のプレイヤーが見てるんなら。どうか彼女を助けて欲しい。外からなら助けられるだろう? 何が起きてるんだかわからないけど、俺はもうどうなったっていいから、お願いだから彼女だけは助けて欲しい。彼女はただのNPCなんだ。人間じゃない。ただのデータだ。なら助けられなきゃおかしいだろう! どうして誰も助けてくれないんだ。どうか、どうか彼女を助けて欲しい。俺の名前は甲斐太郎。生きていても何も良いことはないから死んだ。死んでも、良いことは何もないのか? どうして、ここまで苦しめられなければならない。誰か教えてくれ。知ってるんなら、教えてくれ」
電光掲示板にそんな文字が流れた。それは東京中のありとあらゆる電子機器に表示された。甲斐のスキルがこの世界に目茶苦茶に干渉し、あらゆる機械を狂わせたのだ。街はパニックになった。明らかにやりすぎだった。もしかしたら、この世界は本当に壊れてしまうかも知れなかった。だが、それでいいと彼は思った。自分の世界が消える代わりに、誰かにこの声が届いてくれたらそれでいいと。その誰かが、自分の意思を汲んで妹を助けてくれればそれでいいと思った。
だが、街は間もなく日常を取り戻していった。数時間が過ぎ、破壊されたビルは跡形もなく消え去り、火の海と化した道路には何事もなかったかのように渋滞が作られた。人々は呑気な会話を繰り広げながら街を練り歩き、信号は規則正しく点灯していた。
どんなにチートスキルを手に入れても、それで世界を破壊することは出来ない。まるでお釈迦様の手のひらの孫悟空みたいだ。自分に出来ることを過信して、彼女を助けようなんて息巻いて、無力であることを思い知らされる。為す術もなくベソをかいている、哀れな子供みたいだ。子供の頃から何一つ変わっていない。自分は無力なのだ。
「駄目か……」
甲斐は力尽きるようにその場にへたり込んだ。もしも外の世界とコンタクトが取れたらなんとかなるんじゃないかって、そう思ったが、やはり現実世界との連絡はつかなかった。
この世界はゲームだ。それはわかっている。なら、現実のプレイヤーがいなければおかしいはずなのに……どうして、存在しないのか? 実は、ゲームだと思っているこの世界は、全然違う世界なのだろうか? それとも、自分はやはり死んでいて、夢を見続けているだけなんだろうか?
わからない……わからないが……分かっているのは、今回も駄目だったと言うことだ。妹は助からなかった。ならば、もう一度やるだけだ……
甲斐は無駄とわかっていながらも、そう決意して、またゲームをやり直そうと、ログアウトをしようとした。
と、その時だった。ピリリリリリ……っと、素っ気ない電話の呼出音が聞こえてきた。ドキッとして、慌てて携帯を取り出した。今回はろくにミッションをしていなかったから、この電話に掛けてくる人は少なかった。だからもしかして、さっきのメッセージを見たプレイヤーが連絡をくれたんじゃないかと思ったのだが……
「石川……?」
確か、高井組の連絡員をしているヤクザなNPCのはずだ。高難度のマルチミッションを行う際に世話になるから顔は知っているが、今回はその高難度ミッションを受けてないので面識はなかったはずだ。その石川がなんでこんなギリギリになって電話を掛けてきたのだろうか?
どうせ、あとはログアウトするだけだ。別に急いでもいないし、話くらい聞いておこうと思い、甲斐は電話に出た。
「もしもし?」
「あ、おめえ、甲斐か? 甲斐太郎」
「ああ、そうだが……あー、石川さん。あんたと俺は面識あったっけ?」
「いや、ねえけど」
石川はあっさりと否定した。それじゃ、一体何の用だろうと首を捻っていると、
「悪いな、いきなり電話して。実は、おまえのことを知ってるって人に伝言を頼まれたんだよ」
「伝言? 俺を知ってる人って?」
「ああ、聞いて驚け。高井オーナーだよ」
それはつまり、高井組の組長のことだろうか。どうして、そんな人がわざわざ甲斐を指名してきたのだろうか。というか、高井組の組長というのも本当に存在していたのだろうか。実を言うと、今までプレイした中で、一度もそんなNPCに会ったことはなかったのだ。だからあの組には、実は石川しか存在しないんじゃないかとすら思っていたのだが、
「馬鹿、オーナーはちゃんと実在するぞ。ただ、表立って行動することは滅多にないってだけだ。それがおまえなんかに興味を抱くなんてなあ……おまえ、何やったんだ?」
「いや、俺が聞きたいんだけど……ん? っていうか、なんかこんなやり取り、前もやったような気がするんだが……」
「そうか?」
「気のせいかな……まあ、いいや。で? その高井オーナーが何だって?」
「オーナーがおまえに会いたがってるんだよ。なんでも、大事な話があるんだって」
「大事な話?」
「ああ、俺にはよくわからんが、『ダウンロードに興味はないか?』こう言っておけば通じるって言われたんだが……もしもし? ……もしもし? おい! 甲斐! 聞いてんのか!!」
もちろん聞いていた。単にビックリしすぎて声が出なかっただけだった。甲斐は、思わず持っていた携帯を落として放心していた。
ダウンロードとはアップロードの反対……つまり、アップロード者を現世へ復帰させる方法……それに興味がないか? ということは要するに、その相手は現実世界の人間に違いないと言うことだった。
甲斐はゴクリとつばを飲み込んだ。ここへ来て、ようやく現実世界との繋がりが見つかったかも知れなかった。暫くの間放心していた彼は、落とした携帯を拾い上げると、慌てて石川に返事を返した。




