インターセクション:マイア④―7
ビルの壁面にピタリと張り付いていたバイクは、思いっきりエンジンを吹かしたかと思うと、キュッと弾けるような加速を見せて、屋上の縁を使って思いっきりジャンプしてきた。放物線を描くように空を駆けるバイクが、まっすぐ吸い込まれるように、こっちの窓へと突っ込んでくる……
そんなあり得ない光景を呆然と見ていたヤクザ達は、今まさにバイクが自分たちに向かって来ているにも関わらず、その場から一歩も動けずに突っ込んできたバイクの下敷きになった。
ガラスの破片が弾け飛び、サッシごと窓を破壊して侵入してきたバイクに轢かれて、哀れなヤクザが吹っ飛んでいく。甲斐はそんな男には見向きもせずに空中でバイクを乗り捨てると、ゴロゴロと転がりながら勢いを殺して、体全身のバネを使って飛び跳ねるように着地した。
排ガスに煙る部屋のど真ん中で仁王立ちになる甲斐に気圧されて、ヤクザたちは未動き一つ出来ずに棒立ちしていた。そんな中で甲斐は一人、キョロキョロと辺りを見回したかと思えば、そこにボロボロになった弟を見つけて、
「うおおおおおおぉぉぉぉーーーーーーっっ!!!」
と、獣のような雄叫びを上げた。
弟を傷つけられて怒り狂った甲斐の鋭い眼光に射抜かれ、殆どの男たちは居竦まってしまっていたが、逆にボスである稲庭は一人我に返ると、
「おい、馬鹿野郎! さっさとそいつをヤッちまえ!」
親分の怒声にパブロフの犬のように反応した男が、腰に無造作に差していたドスを引き抜き、問答無用で甲斐に飛びかかっていく……しかし、甲斐はそんな男の突進を真正面から受け止めると、どこをどうやっているのか、わけの分からない動きで男の勢いを殺して、そのまま天井に向かって投げ飛ばしてしまった。
まるで重力の存在を忘れてしまったかのように天井に叩きつけられた男は、今度は逆にその重力を思い出したかのように落下し、そのまま気を失った。甲斐はそんな男の手からこぼれ落ちたドスを拾い上げると、これまた躊躇せずに失神している男の首を掻き切った。
ブシューっと音が聞こえてきそうなくらい、噴水のように血が噴き上がる。まるで家畜でも屠殺しているかのような手慣れた動作に、その場にいる全員が凍りついた。
「親父! 何事ですか!?」
その時、下の階にいた他の連中が騒ぎを聞きつけ、バタバタと階段を駆け上がってきた。彼らは室内の惨状を見て一瞬怯んだが、自分たちの人数の方が多いせいか、すぐに気を大きくすると、
「なんじゃあ! わりゃぁーーっっ!」
と、叫び声を上げ気合を入れて室内に飛び込んできた。
しかし、甲斐がそんな連中に向かって手のひらを向けて何かブツブツ唱えると、いきなりその手のひらから光の弾が飛び出して、ヤクザ共に次々と命中した。
ボンッ! ボンッ! っと、光が弾け飛んでゴオオオっと炎が噴き上がるや、突然火だるまになったヤクザたちはパニックになって来た道を戻り始める。
ぎゃあぎゃあと騒がしい男たちが、階下へと必死に逃げていく。甲斐がそんな連中の消えたドアに向かって更にいくつもの光の弾を放つと、それは男たちを追いかけるように廊下を曲がって階段を下りていき、やがて階下で爆音と共に巨大な炎を噴き上げた。
開け放されたドアからバックドラフトみたいに炎が室内まで侵入してくる。その炎の熱気に当てられた甲斐がほんのすこし目を細めた時、パンッ! ……と乾いた銃声が鳴り響いて、彼の体に銃弾が突き刺さった。
パンッ! パンッ! パンッ! っと、リボルバーから放たれた銃弾が連続で甲斐の体に当たり、血が噴き上がる。しかし、甲斐はどれだけ銃弾を浴びても、まるでゴム弾でも当たったかのような痛痒しか見せずに、すぐに左右にステップして交わし始めると、弾切れでパニックになっている男に向けてドスを投げつけた。
それはCGみたいに完璧な軌道を描いて、男の額に吸い込まれていく。
一瞬で絶命した男の横で、もう一人の仲間が泣きそうになりながら銃撃を続けていたが、甲斐はそんな男の銃撃を獣のように身を低くして躱すと、猪のように突進してタックルをお見舞いした。
すると男の体は、まるでダンプカーにでも轢かれたかのように吹き飛び、窓枠にドンと叩きつけられた後、勢い余ってそのままビルの外へと落ちていった。
ドスンと鈍い音が聞こえて、階下から悲鳴のようなどよめきが起きる。どうやら騒ぎを聞きつけて、近所の人たちが様子を見に来ているようだった。
「なんなんだ、この……一体どうなってやがんだあああーーっっ!!」
一人残された稲庭は、流石ヤクザの親玉を張っているだけあってか、この絶対絶命の中でも我を失わずに、最後の足掻きとばかりにドスを片手に飛びかかってきた。しかし、今の甲斐に敵うわけもなく、子供のように軽くあしらわれると、彼は後ろ手に肩を捻り上げられ、そのまま床へとうつ伏せに組み伏せられてしまった。
「ぐわあああーーっ!!!」
組み伏せられた拍子に肩が外れたのだろうか、全身を貫くような鋭い痛みに稲庭の情けない声が響き渡る。甲斐はそんなヤクザの親分をグイと地面に押さえ付けたまま、冷酷な瞳で脅すように言った。
「おい、親父はどこだ? 甲斐頑強はどこにいる?」
「なに……!?」
「親父だよ、あの野郎……ぶち殺してやるから命が惜しいならさっさと出せ!」
甲斐の言葉に稲庭は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに何かに気づいたようにハッと顔を上げると、
「はあ!? おまえ……甲斐の息子か!? なんでだ!? どうして死人が生きてやがるんだ!?」
「いいから、さっさと居場所を吐けって言ってんだよおおぉぉーーーっ!!」
まさか自分が殺したはずの男の登場にパニックになった稲庭が素っ頓狂な声を上げると、甲斐はその声に苛立たしそうに叫び返して、彼の体を目茶苦茶に揺さぶり始めた。
ガンガンと何度も床に打ち付けられた稲庭の顔のあちこちから血が噴き出る。このままじゃ殺されると恐怖に怯えた彼は、叫ぶように言った。
「死んだ! 死んだぞ!!」
「はあ!?」
「死んだ! おまえの親父はもう死んでるんだ!!」
その言葉を聞いた瞬間、稲庭を乱暴に揺さぶっていた甲斐の体がピタリと止まった。
まるで予想もしていなかったのだろうか、彼はぽかんとした表情で、時が止まったかのように呆然と稲庭の後頭部を見つめていた。稲庭にはそんな甲斐の顔が見えなかったから、彼は全身をブルブル震わせ、ハアハアと荒い呼吸を吐きながら、命乞いをするかのように続けた。
「う、嘘じゃねえ! そこにいるお前の弟に聞いてみろ!」
ぼんやりとした表情のまま、ゆっくりと弟の方を向くと、真一郎はボコボコにされた顔で頷き、
「ああ、本当みたいだ。その辺に写真が落ちてないか?」
「写真?」
言われた甲斐が血に染まった写真を取り上げると、そこには女に刺殺されている父親の姿が映っていた。その女の顔に見覚えがあると思った彼が、なんとなく顔を上げると、すると目の前にそれそのものが腰を抜かしてへたり込んでいた。
マイアは、いきなり現れた甲斐が、まるでゲームみたいに人を殺しまくる姿に恐れをなして震えていたが、そんな彼が今度は自分と写真を交互に見ている姿を見せられ、慌てて、
「私じゃない! そこに映ってるのは私だけど、私じゃないんです!!」
彼女が必死に言い訳を叫んだ、その時だった。そんな彼女の声に呼応するかのように、突然、脳天気な声が部屋の中に響いた。
「甲斐君。それはマイアちゃんじゃないよ。彼女はずっとボクと一緒だったからね。本当さ」
もはや生きている者は居ないはずの室内に突然響き渡った声に、びっくりして振り返ると、甲斐が乗ってきたバイクの辺りにテディベアのぬいぐるみが落ちている。
「ノエル!? どうして、ノエルがここに……」
困惑して慌てふためくマイアとは対象的に、甲斐はその言葉を聞いて落ち着きを取り戻したかのように、
「そうか……」
と一言だけ漏らすと、手にした写真をポロリと落とし、床に押し付けていた稲庭を解放したかと思うと、縋るような目つきで甲斐のことを見上げていた稲庭を思いっきり蹴飛ばした。
元力士と言わんばかりの巨体が、まるで紙切れみたいに吹き飛んで壁に激突する。
甲斐はそれを見届けた後、信じられない物を見るような目つきでその姿を追っていた真一郎の下へと駆けつけると、
「真一郎、平気か?」
甲斐が弟の体に触れると、突然、真一郎の体全体が緑の蛍光色に輝き出し、たった今までズキズキと全身を襲っていた痛みが急激に引いていった。何事か? と真一郎が自分の体を見てみれば、体中あちこちにあった傷口が見る見るうちに塞がっていく……骨を砕かれて動かなかった腕も、何事も無かったかのように元通りになっていた。
真一郎は自分の身に起きている、そんなあり得ない出来事に、ゴクリと生唾を飲み込むと、
「あ、兄貴……この力はなんなんだ? 一体どうなってんだ、これ?」
すると甲斐は肩を竦めて、
「さあ? 俺にも良く分からん」
彼はそう言ってから、不意にマイアの方へ振り返ったかと思うと、
「詳しいことは彼女のお母さんが知ってるだろう」
「お母さんが……? どうして、甲斐君がお母さんのことを?」
さっきから次々と起きている不可解な出来事の数々に、いよいよ混乱の極みに達した彼女が問いかける。
その時だった。建物のすぐ外でパトカーのサイレンが鳴り響いて、拡声器が周辺住民に避難するよう叫んでいた。複数の足音がビルに侵入し、バタバタと階下を探るような音が響いている。どうやら警察が到着し、ここへ突入しようとしているようだった。
甲斐はそれを確認すると、乗ってきたバイクを起こし、落ちていたノエルを拾い上げてポンとマイアに向かって放り投げると、
「悪い、俺はそろそろ行かなきゃならねえみたいだ」
「待ってくれ! 兄貴! 何が起きてるのか教えてくれ!」
「すまん、真一郎……そんな時間はなさそうだ」
彼はそう言い捨てるように言い残すと、ブルンとバイクのエンジンを吹かして、ギュンとロケットみたいに窓から外へと飛び出していってしまった。
普通に考えたら、この高さから落ちたらタダじゃ済まないはずだが……
次の瞬間、真一郎たちは、隣のビルの壁面を垂直に走る甲斐の姿を見た。そんな彼に向かって警官隊が容赦なく発砲を続けている。
それはまるで、夢の中で見たあのゲームのような光景だった。
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その後、突入してきた警察にマイアと真一郎は保護された。窓際で失神していた稲庭は逮捕され、まるで一瞬にして数十歳も歳をとったような呆けた顔をして、パトカーに乗せられ連れて行かれた。自分が育て上げた組織がものの数分の間に破壊され、大陸系のマフィアからは恨みを買われて、彼はもはや再起不能だろう。多分、刑務所の中に居たほうが、残りの人生を少しはマシに過ごせるのではないだろうか。
現場検証を行っていた警察は、ビル内に転がっていた死体の数々と、異常な高温で焼け焦げた階段などを見て、何が起きたのかとマイア達に尋ねてきた。正直、見たままのことを言っても信じて貰えるとは思えなかったが、ところが警察は彼らの証言を殆ど無条件に信じてくれた。
どうやら、甲斐のあの異常な能力は、既にあちこちで目撃されていたらしい。マイア達がヤクザに拉致されていた間、街はその話題で持ちきりだったようである。警察も、甲斐を追いかけながら、その能力の片鱗を既に確認済みだったらしく、彼らは甲斐が癒やしの力まで使ったと聞くと、まるでおとぎ話の神様みたいじゃないかと言って動揺していた。仕事とは言え、そんなのを追いかけなければいけないと思えば、それも無理ないだろう。
そんな風に事情聴取を受けていると、警察に連れられて三田が駆けつけてきた。彼女は保護者代わりだというのに情けないと、涙ながらに謝りだしたので、マイアは全部自分が悪かったのだと宥めるのに苦労した。
そんな三田の心配が伝わったのか、事情聴取が終わると、警察がマイアたちをパトカーで送ってくれることになった。稲庭の組織が何故マイアを狙ったのかや、彼女の心臓の出どころがはっきりした今、彼女は一連の事件の重要参考人でもある。だから警察としても、人数を割いて警護する必要があるとの判断のようだった。
というか、ただでさえ大金持ちで狙われやすいというのに、これ以上危険な場所には近づかないようにと小言を言われながらパトカーに乗り込んでいると、真一郎がやってきて、
「おーい! マイア! 俺も連れてってくれないか?」
パトカーをタクシー代わりに使おうというつもりだろうか? 運転席の警官が面倒くさそうに、お前の家とは逆方向だと追い返そうとする。すると彼は首を振って、
「いや、そうじゃねえ。マイアのお袋さんに会いたいんだよ。ほら、兄貴が詳しいことはあんたのお袋が知ってるって言ってたろう?」
「そう言えば……でも、真一郎くん、怪我は平気なの? 今は病院に行ったほうが……」
「必要ないって。あんたも見てただろう。ほら」
真一郎が自分の口に指を突っ込んでイーッと歯を見せると、それはヤクザに折られたはずの奥歯まで綺麗に生え揃っていた。
「治っちゃったんだ……」
傷口を塞ぐどころか、骨折も治し、歯まで生やしてしまうなんて……確かに、甲斐のあの能力は気になった。マイアがお願いすると、警察も渋々彼の同乗を認めてくれて、そして三人はパトカーの後部座席に並んでその場を後にした。
パトカーは最初、都内へ向かう幹線道路を順調に進んでいたが、すぐに酷い渋滞に巻き込まれてしまった。元々、混雑する道路ではあったが、ここまで進めないのは珍しいと運転手がボヤいていると、警察無線から連絡が入った。それによると現在、都内を中心に異常な数の救急搬送の依頼が発生しているらしい。救急車はほぼ全てが出払っていて、にも関わらず119番通報が止まないらしいのだ。
言われてみれば、さっきからやたらとあちこちからサイレンの音が響いてくる。どう考えてもこの量は異常である。
どこかで大きな事故でも発生したのだろうかと、警官が無線で情報を得ようとしていた時、真一郎が窓の外を指差して言った。
「おい、あれを見ろよ」
見れば、そこには街頭モニターがあって、夕方のニュース番組を流していた。画面には『スパイダーマン』なるテロップが踊っていて、アナウンサーの背後のスクリーンには、ビルの壁面を疾走するバイクが映し出されていた。どうやら、甲斐を目撃した誰かが撮った映像のようだ。
街頭モニターからは、これは映画や特撮じゃないという、撮影者のものらしき声が聞こえてきた……かと思ったら、今度は映像がブレて、画面が一回転して空を映し出した。どうやら、撮影者が転んだらしく、周りの人々が慌てて駆け寄ってくるシーンで映像は途切れた。
何が起きたんだろう? と思っていると、今度は画面のテロップが『人面瘡』なる文字に書き換えられ、アナウンサーが深刻な表情で、撮影者が突発的に人面瘡に罹って倒れたことを告げていた。撮影していた人の体に、突然、ブツブツとあちこちに気持ち悪い顔みたいな瘤が現れたというのだ。
これが一人だけならまだしも、現在、あちこちで似たような症状を起こす人が続出しているらしい。番組によると、その直前には必ず例のバイクを目撃していたとのことで、もしかするとあのバイクが人面瘡をばら撒いているのではないか? とアナウンサーは結んでいた。
つまり、この渋滞の原因もまた甲斐の引き起こしたことなのだろうか? 死人が現れたと思ったら奇跡を使い、今度は災いを振りまいている……嫌な予感しかしないが、今のマイア達には、ただ渋滞の解消を待つしか、他にすることが無かった。
脇道を使い大回りしながら、どうにかこうにか都内を抜けて神奈川に入ったところで、渋滞は解消されて車はスムーズに流れ始めた。その頃には日は大分傾きかけていて、ドライバーの顔には疲労の色が滲んでいた。
アクアラインからエアフロートに入り、賑わう商業区を通り抜けてコフィンまで来ると、急激に人気が無くなってしまった。パトカーを下りて警官にお礼を言って、ビルの中に入ると、受付はもぬけの殻だった。
終業時刻はとっくに過ぎているかも知れないが、いくらなんでも人の気配がなさすぎる……おかしいと思っていると、奥のエレベーターホールからポーンとドアが開く音が聞こえてきて、続いてパタパタと足音を立てて、母の同僚の榊が駆け寄ってきた。
「ああ、マイアさん、やっと帰ってきてくれましたか! ……そちらの方は?」
「この人は出先で知り合った……えーと、友人の弟さんです。ところで榊さん、どうしたんですか? 何だか、このビル、人の気配がしないですけど……」
榊は真一郎にペコリとお辞儀してから、すぐにその通りだと頷き、
「実際に殆どの職員が帰宅して居ないんですよ。実は、昼間侵入者騒ぎがありまして……」
「侵入者?」
「ニュースは見ましたか? スパイダーマン騒ぎの。あれがここに出たんですよ」
マイアたちは顔を見合わせた。甲斐が母親のことを知っていたから、そういうこともあるだろうと思ったが、
「どこからどうやって入ってきたのか分からないのですが、突然ビルの中に現れたかと思ったら、警備ロボットと大乱闘を繰り広げて逃げていったんです。普通、人間があれとまともにやりあえるなんてこと、あり得ませんよ? なのにいともたやすく振り切ってしまって……その影響なのでしょうか、警備ロボがいつまでたっても警戒を解かず、職員まで追い立て始めたので、仕方ないから今日は帰ってもらったんですよ。
その間に被害状況を確認しようとしたのですが、ところが肝心の主任が今朝から出勤していなくて、連絡も取れず、誰が陣頭指揮を取っていいか分からず困っていたところです」
「お母さん、出勤してないんですか? 朝は普通に居たと思いますけど」
「ええ、いつも通り朝食を取られていますよ」
その準備をした三田が追認する。榊はそれを聞いて腕組みしながら、
「すると、家から一歩も出ていないということですね。外出記録も無いから。しかし自宅なら何度もインターホンを鳴らしているのですが……すみませんがマイアさん、今すぐ家の中を確認していただけませんか。私では入れないので」
母の家はエレベーターを降りればすぐリビングに繋がっているのだが、IDカードが無ければそもそもエレベーターが止まらないようになっている。だから榊も中の様子が確認出来なかったのだろう。マイアは頷くと、嫌な予感を抱えながらエレベーターホールへと急いだ。
操作盤にIDカードを差し込むと、エレベーターは音もなく動き出した。みんな数字ばかりを見上げて、誰も何もしゃべろうとしないのは、同じようにみんな嫌な予感がしているからだろうか。
ポーンと到着音がして、ふっと体が軽くなり、ドアが開く。マイアが何もなければ良いけれど、と淡い期待をしながらエレベーターを降りると、しかしそんな期待はあっという間に裏切られた。
家に入ってすぐのリビングには応接セット兼の食卓があったが、その重厚な机はなぎ倒されており、室内には明らかに荒らされた形跡があった。いつも忙しなく動き回っているお掃除ロボと警備ロボが破壊されて転がっており、辺りは静まり返っていた。
明らかに何かがあったと思われるその光景に戸惑っていると、
「マイアちゃん、奥の部屋に誰かの気配がするよ」
と、いつもの脳天気な声でノエルが言った。きっと彼は逃げろという警告のつもりで言っているのだろうが、この状況ではそういうわけにもいかないだろう。
榊が乗ってきたエレベーターのドアを手で押さえながら目配せをする。マイアが戸惑っていると、その脇を真一郎がすり抜けていき、彼は奥に続く廊下を慎重に覗き込んでから、大丈夫と目配せして忍び足で奥へ消えていった。
マイアが同じように忍び足であとに続くと、彼は一番奥の部屋の扉の前で立ち止まってこっちを振り返り、確認するようにマイアたちに頷いて見せてから、音を立てないようドアノブをゆっくりと回して……体当りするように一気にドアを押し開けた。
「誰だ!」
真一郎が怒鳴りながら飛び込んでいった部屋の中央には母の執務机があって、そこに目的の人物が座っていた。しかし母は、この騒ぎにも何の反応も見せずに、椅子に座って、うつろな瞳を机の上に向けたまま、微動だにしなかった。
それもそのはず、その首元は真っ赤な線が引かれたようにぽっかりと口を開けており、そこから大量の血液が流れて執務机を汚していた。何時間そのままだったか分からないが、それはとっくに乾ききっていて、どす黒い色となってこびり付いていた。
「お母さん!!」
突然、目に飛び込んできたあり得ない光景に、マイアが大声を上げて駆け寄ろうとする。するとガサっと何かが動く音が聞こえて、よく見れば、母の眠る執務机のすぐ脇には甲斐がいて、彼はべったりと血のついたナイフを手にして、呆然と佇んでいた。
「違う……俺じゃない……俺じゃないんだ!」
執務室に、そんな虚しい叫びが木霊する。その場にいる者はもはや誰一人として動くことが出来ずに、成り行きを見守っているしか無かった。




