愚か者の末路:マイア④―6
真っ暗闇の中で、パチパチと光が爆ぜていた。それは火打ち石のように火花を散らして、心を酷く急き立てているようだった。その不規則な音の連続がいよいよ不快になってきた時、マイアは自分の意識が覚醒していくのを自覚していた。
体中から発せられる猛烈な痛みと倦怠感、それから逃れようとして、体は眠りを継続させようとしているのに、別の何かがそれに抗おうとしている。心臓がバクバクと早鐘を打ち、起きろと急かしているような……何がそんなに気になるんだろう? 朦朧とする意識の中で、どうにかこうにか目を開いたら、その瞬間、嫌な光景が目に飛び込んできた。
ドカッ! バキッ! っと、鈍い音が響き渡る。薄暗いビルの一室で、パイプ椅子に後ろ手に縛り付けられた真一郎のことを、血眼になった包帯男が狂ったように殴りつけていた。ボコボコの顔面は腫れ上がり、上半身は彼の流した血で真っ赤に染まっている。男が雄叫びのような奇声を発し、渾身の力で殴りつける度に、真一郎は口から血液の混じった液体を吐き出していた。
カランと地面に何かが当たる音がして、液体の中に白いものが混じっているのが見えた。それは彼の奥歯だった。マイアは自分が無意識的に悲鳴を上げているのを、他人事みたいに聞いていた。
「きゃああああぁぁぁーーーーっっ!!」
突然上がった甲高い悲鳴に、不意打ちを打たれた男たちがビクッと肩を震わせ、一斉にマイアのことを見る。血走った眼をあちこちから浴びせられた彼女は、その瞬間、悲鳴を飲み込んで引き付けを起こしたみたいに固まった。
強面の男が、わざとらしく息がかかるくらい顔を近づけてくる。それから逃れようとして顔を背けるが、体はガッチリと固定されたように動かなかった。どうやら椅子に縛り付けられているようである。
何でこんなことになっているんだろう? と泣きそうになりながら原因を探ると、すぐにバイクが事故を起こした場面を思い出した。確かあの時、道にワイヤーが張られていたのが一瞬だけ見えた気がする。つまり、自分たちは罠に嵌められたのだ。
「マイア……無事か……」
ボロボロになった真一郎が、息も絶え絶え話しかけてくる。自分なんてせいぜい擦りむいた膝が痛むくらいで、そっちとは比べ物にならないだろう。そんなことより自分の方を心配してくれと思っていると、彼を痛めつけてる男が苛立たしそうに同じことを口走っていた。
「てめえはっ!! てめえの心配してろってんだ、クソガキァっ!」
ゴンッと金属を叩くような音が鳴って、真一郎の苦痛に満ちた声が部屋に響き渡った。男が打ち据えた警棒が、彼の骨を砕いたようだった。マイアはその音を聞いただけで失神しそうになったが、痛めつけられている真一郎の目はまだギラギラしていた。
「うるせえ、雑魚が! 無抵抗の相手に粋がってんじゃねえ! てめえにナデナデされても気持ちいだけじゃ、ボケェ!」
「この……舐めんな、ガキがっ! ガキがっ! ガキがっ! ガキァアアーーッッ!!!」
真一郎の挑発に、包帯男はいよいよ怒り心頭と言った感じで目茶苦茶に警棒を振り回している。それが振り下ろされる度に、鈍い音が部屋に響き渡って、着実に真一郎の傷は増えていった。
「もう、やめてください……お願いします!」
マイアが耐えきれなくなって懇願の叫び声を上げると、そんな彼女の背後から一段トーンを落とした冷静な声が聞こえてきた。
「そう言うわけにもいかねえんだよ。こっちも一応プロだからな」
至近距離から聞こえてくる冷たい声に、ゾッとして振り返ると、そこには稲庭とかいう名前のヤクザの親分が立っていた。彼はマイアの横でタバコに火をつけると、
「ミイラみたいだろ。あいつは真一郎の舎弟にやられたんだ。暴力団のくせに情けねえよなあ? 情けねえ……情けねえよ! 情けねえから指でも詰めるしかねえが、その前に落とし前はきっちりつけなきゃいけねえよな?」
言われて思い出したが、そう言えば暴走族に滅多打ちにされたヤクザがいたはずだ。どうやらあの包帯男はあの時やられた男らしい。つまりあれは報復なわけだが、
「そんな……許してください。あのままじゃ彼、死んじゃいますよ!?」
「まったくだ。普通ならとっくに死んでるはずだが、恐ろしく頑丈な奴だな」
「おい! 稲庭、てめえ! マイアに近寄るんじゃねえ! 殺すぞ!」
そんなマイアの心配をよそに、真一郎は目茶苦茶に殴打されながらも、こちらの心配ばかりしている。これではあべこべではないかと困惑している間も、包帯男はまるでフルマラソンでもしてきたかのように、フラフラになりながら真一郎のことを殴りつけていた。
やがて、そんな男が振り下ろした渾身の一撃によって、ついに真一郎は椅子ごと床に崩れ落ちた。一際鈍い音が部屋中に響き渡り、彼の流した血液の海がパシャっと音を立てた。包帯男はもはや朦朧としながら尚も飛びかかろうとしていたが、それは周囲で見ていた男たちによって阻まれた。ゼエゼエと男の荒い呼吸が木霊する中、稲庭は今夜の献立でも聞くような気安さで、
「生きてるか?」
「……息はしてます」
「そうか。水でもぶっかけておけ」
稲庭の命令で、男たちがバタバタと慌ただしく走り回る。さっきまで狂ったように暴れていた包帯男が放心したように引きずられていく。彼はこの後どうなるのだろうか……しかし、そんなことを気にしている場合ではないと、マイアは慌てて隣に佇む稲庭に懇願した。
「もう、十分でしょう!? お願いします! 今すぐ救急車を呼んでください! 本当に死んじゃいますよ?」
しかし、稲庭はそんなマイアの言葉がまったく聞こえていないかのように、冷徹な瞳で彼女のことを見下ろしていた。じっと見つめられているマイアがその迫力に気圧されて黙りこくっていると、突然、彼は何を思ったのか、彼女の胸ぐらをグイと掴むと、乱暴に引っ張ってブラウスのボタンを全部弾き飛ばしてしまった。
彼女の白い胸元が露わになる。
マイアは突然の凶行にショックを覚えると同時に、レイプされる! と体を硬直させたが……稲庭の目的はそんなことではなく、彼女の胸元にある傷口の方にあった。彼は、はだけたマイアの胸に刻まれた手術痕を指でなぞりながら、
「……やっぱり、お前。クライアントの女だな?」
マイアは傷口をなぞられる不快な感触に怯えながら、
「ク……クライアント? 誰のことですか?」
すると稲庭は一瞬だけ躊躇するように言葉を濁したが、すぐに思い直したようにフンッと鼻息を鳴らすと、
「どうせもう死んじまったから言うが……近衛のことだ」
「近衛……さん?」
稲庭は肯定するように頷いて、
「おまえのその胸の傷跡は、心臓移植を受けたものだろう? それを手に入れてやったのは、俺たちだ。感謝しろよ」
「そ、そんな……それじゃあ、あなた達が甲斐君を殺した……?」
「そんなことまで知っているのか? あの野郎……絶対に他言無用だと、俺たちには言ってたくせによ……」
稲庭は、ちっと舌打ちをすると忌々しそうに続けた。
「どこで聞きつけたのか知らねえが、近衛は俺たちが大陸系の臓器密売組織とコネがあるのを知っていた。それで、どうしても必要な心臓があるから調達しろと言ってきやがった。そんな奴が手に入れろと指定してきたのが、甲斐の息子だったんだよ」
つまり、近衛は最初から甲斐の心臓がマイアと適合することを知っていた……? 何故、そんなことを彼が知っていたのだろうか。困惑しているマイアに構わず、稲庭は続けた。
「楽な仕事のはずだったんだがな……甲斐は末端の舎弟が面倒みていたゴロツキだった。だから俺が直々に声を掛けたら、喜んで息子の命を差し出したよ。必要な機材は黒社会の連中が用意してくれて、あとは金を受け取るだけ……そのはずだった。それが、こんなことになっちまうとはな……」
「こんなことって……?」
マイアがそれを聞こうとした瞬間、ゴホゴホと咳き込む声が聞こえて、床に這いつくばっていた真一郎が目を覚ました。水をぶっかけられて無理やり覚醒させられた彼は、暫くの間ぜえぜえと荒い呼吸で放心していたが、やがて焦点が合ってくると、目の前にいるマイアの胸がはだけていることに気づき、
「……おおおおいい! てめえっ!! 稲庭ぁぁああーーっっ!! 何してやがんだ、この糞レイパーがああーーっ!!」
彼は今までとは比べ物にならないくらい大きな声で、真っ赤な顔をして怒り狂っている。彼はいくら殴られても自分を見失ったりはしないが、他人が傷つく姿を見るのは苦手なタイプなのだろう。その気質は好感が持てたが……しかし、稲庭にしてみればあらぬ誤解で侮辱されているようなものだった。
それまで比較的冷静さを保っていた稲庭もこれには腹を立てたのだろうか、突然、般若のような顔で立ち上がると、ズカズカと床に転がっている真一郎の方へと歩いていき、そのまま物凄い形相で目茶苦茶に彼のことを蹴り飛ばしはじめた。
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねえよっ! 誰がこんな小娘ごときに欲情するか馬鹿野郎っ!!」
稲庭は無抵抗の真一郎をまるでサッカーのシュート練習でもしてるかのごとく、助走をつけて何度も何度も蹴り飛ばし続けた。流石にそれは死んでしまうと、彼の舎弟共が親分を止めようとしていたが、あまりの怒りっぷりに誰も手出しが出来なかった。
やがて気が済んだ稲庭は、ぜえぜえと荒い呼吸を吐きながら、足蹴にしていた真一郎に最後の一撃を加えて背を向けたが、するとそれを待っていたかのように、一瞬の隙をついて真一郎はイモムシみたいに体をくねらせて稲庭に飛びかかり、そのふくらはぎに思い切り噛みついた。
「いてえっ! この野郎っ!!」
ガブリとふくらはぎの肉を持っていかれた稲庭は、苦痛に呻きながら真一郎を一蹴すると、怒り心頭のままもう一度痛めつけてやろうと足を振り上げたが、すぐに思い直したようにそれを下ろして、
「まったく……どうしたらあんな親父から、こんな凶暴なガキが生まれるんだ?」
「その頑強はどこだ……? 俺はぜってえ諦めねえぞ……」
真一郎は今の一撃で折れた歯をペッと吐き出し、もはや原型を留めないくらい酷く腫れた顔で稲庭を睨みつけている。ここまでやっても心が折れない彼に、流石の稲庭も感嘆の息を漏らしながら、
「あんなクソ親父よりも、お前のほうが俺の舎弟だったら良かったんだがな」
「寝言は寝てほざけ! いいから頑強を出しやがれってんだよ!」
「頑強、頑強って、親離れ出来ねえ小僧だなあ。赤ちゃんかよ……分かった、分かった、もういいわ」
稲庭は呆れたようにそう呟いた後、何もかもが面倒くさくなったかのように、不意に表情を和らげると、
「死んだよ」
「……はあ?」
「おまえの親父は死んだ。殺されたんだよ。だからおまえがいくら会いたいって言っても、もう会うことは出来ねえんだ」
「てめえ……吹かしてんじゃねえよ!?」
「嘘だったら良かったんだがなあ」
稲庭は耳くそをほじりながら、アホくさそうに呟いている。真一郎は、そんな彼の言葉をまだいまいち飲み込めていなかったが、やがて半信半疑に、
「死んだ……だと? 嘘だろ? おまえが殺したのか?」
「なんで俺がそんな得にもならんことを」
「じゃあ、誰が殺したってんだよ!?」
「はぁ~……そいつだよ」
すると稲庭はもうどうにでもしてくれと言わんばかりの投げやりな態度で、面倒くさそうにマイアのことを指さした。真一郎は理解が追いつかないのかポカンとしている。いきなり、自分が犯人だと名指しされたマイアも、最初は何が起きたか一瞬分からず、暫くの間呆けていたが、
「……え!? 私? なんで、私? 嘘、絶対嘘!」
人殺しなんて冗談じゃないと、思い切り首を振った。しかし、稲庭はそんな彼女の言葉を無視して断言するように、
「嘘じゃねえ。これが証拠だ」
稲庭は胸ポケットから写真の束を取り出すと、それを床にばらまいた。数枚の写真が真一郎の目の前で止まり、そこに映っていたものを見て彼は目を疑った。
監視カメラの映像をプリントしたものだろうか? その写真には、二人の男を襲うマイアの姿がはっきりと映っていた。場所はここと似たようなビルの中……もしかしたら、ここなのかも知れない。鍔がない、いわゆる長ドスと呼ばれるものを振り回して、彼女は血まみれの男たちを追いかけ回している。別の写真には、見知らぬ男を斬り伏せている姿と、そして甲斐兄弟の父を背後から突き刺している決定的な姿も捉えられていた。その眼光は悪魔のように鋭く輝き、とても目の前にいるマイアと同一人物とは思えなかった。
実際、マイアははっきりとそれを否定した。
「う、嘘です! ここに映ってるのは私じゃありません! そうだ! きっと、これは近衛さんを殺したのと同じ犯人ですよ! お願い、警察に聞いてください!」
マイアは警視庁で見せられた映像を思い出し叫んだ。しかし、そんなマスコミにも発表されていない事実をヤクザたちが知るはずもなく、稲庭は彼女の話を聞こうともしなかった。彼は淡々と証拠を突きつけるように、
「……甲斐の息子をバラした後、俺たちは金を手に入れて少し警戒心が薄れていたんだな。そんな最中、何故かゲーム会社のCEOであるおまえの親父が、頑強のことを調べ始めていたんだよ。奴は甲斐の息子を殺した証拠を突きつけて、自首するように頑強に迫ってきた。たった一人でな。馬鹿なやつだ。
頑強はそれで改心するどころか逆上して、そのままCEOを伸しちまった。おまけに自分がドジを踏んだと思ったらしく、情報を引き出そうとして拷問している最中に殺しちまったんだ。頭の悪いやつは、本当に何をするか分かったもんじゃねえ。
こんな馬鹿でも俺たちの仲間だから警察に突き出すわけにもいかねえ。殺して東京湾に沈めることも考えたが、割に合わねえから、俺たちはあのバカを国外逃亡させるために、ここで匿うことにした。臓器売買のために呼んだ黒社会の客人と一緒に、絶対に、誰にも見つからないよう、厳重に見張りをつけてな。
ところが、どうやって見張りの目を掻い潜ったのか、すぐこの女が内部に侵入してきて、頑強と客人を殺しやがったんだ。更には、後でバラして埋めるつもりだったCEOの死体まで持ち去りやがって、俺たちはパニックになった。おまけに、誰がやったんだ? と監視カメラを再生したら、こんな年端もいかねえ小娘が映ってるじゃねえか。俺は目を疑ったよ。
CEOの死体は、その後すぐ近くの河川敷で見つかり、そのまま全国ニュースに流れちまった。その娘が心臓移植を受けたことも知られて、間もなく警察が嗅ぎ回り始めやがった。黒社会の連中は、俺たちの不手際で仲間が殺されたと怒り狂ってて、落とし前をつけろと要求している。八方塞がりだ」
稲庭はそこまで流れるように話し続けると、クックックッと自嘲気味に乾いた笑い声を上げてから、マイアに向かって笑顔を見せながら、
「こうなっちまったらもう、犯人の首でも差し出すしかねえじゃねえか。そんな矢先に、何故か嬢ちゃんの方からわざわざ俺たちの島にやってきて、辺りを嗅ぎ回ってたんだ。わけがわからなかったが、こんなチャンス二度もねえ。だから、こうしてご足労願ったってわけだが……」
稲庭はマイアの顔に息が吹き掛かるくらい顔を近づけると、今度は冷徹な目で彼女の目を覗き込むように、
「悪いが嬢ちゃん、今日死んでくれるか?」
嫌だと言いたくても、声が出なかった。マイアはブルブルと首を振った。しかしもちろん、そんな彼女の意向など稲庭が聞いてくれるわけもなく、
「安心しろ。俺はお前の死体にしか興味がない。まずは薬で眠らせて、痛くないように殺してやる。首を切り落とすのはその後だ」
マイアはゾッとして体が硬直している。そんな彼女の代わりに真一郎がバタバタと暴れながら叫ぶ。
「おい、てめえ、ふざけんな! やめろよ!」
「なんで庇う? こいつはお前の親父を殺した犯人だぞ?」
稲庭が意外そうに尋ねるも、真一郎はまったく躊躇すること無く。
「仮にそうだとしても、それは頑強の自業自得だ! それに、証拠があっても、俺にはどうしてもそいつが犯人だとは思えねえ。何かの間違いじゃないのか?」
すると稲庭も同意するように頷いて、
「……そうだな。実は俺もこいつが二人も男を殺した上に、何十キロもあるCEOの死体を担いで逃げた犯人だなんて思えねえ。だが、黒社会の連中に言い訳が立てば、そんなことはもうどうでもいいからな。これ以上ない証拠が揃っている以上、お嬢ちゃんには死んでもらうしかねえんだよ」
親分のその言葉を待っていたかのように、ヤクザの一人がジュラルミンケースを持ってきて差し出した。稲庭は受け取ったケースから何か薬品の瓶を取り出すと、一緒に入っていた注射器でその中身を吸い出してから、ピューと軽く吹き出してみせた。
その透明な液体が何だかはわからない。だが、間違いなく人を殺すには十分な何かであることは容易に想像がついた。稲庭は怯えているマイアの腕を掴むと、刺しやすいように腕まくりをし、注射針の先を彼女に向けた。
マイアは抵抗したくても体が震えて思い通りには動かず、頭の中は恐怖でいっぱいで、言いたいことも言えなかった。このままでは死んでしまう……! 分かっているのに、どうすることも出来ない。
「……何の音だ?」
と、その時だった。いよいよ注射針が彼女に触れようとした時、不意に稲庭がその手を止めて、苛立たしそうに窓の外へと目をやった。
気づけば遠くの方からパトカーのサイレンが近づいてきており、それは一台二台という規模ではなく、数十台が列を作っているかのような、盛大な音の洪水となって聞こえてきた。
どこか近くで大きな捕り物でもあったのだろうか? ここへ向かってきているとは限らないが、少し警戒した方がいいと稲庭が耳を澄ましていると、そのサイレンを先導するかのように、甲高いバイクのエンジン音が混じっていることに彼は気づいた。
その音に暴走族を連想した彼は、背後に控えていた舎弟をギロリと睨むと、
「おい……おまえらまさか、こいつらを攫ってくるとき、暴走族どもに後を尾けられたんじゃねえだろうな?」
「え? そんなはずは……」
もしもそうなら、警察が踏み込んでくるかも知れない状況で人殺しなんて出来やしない。寧ろ今のうちにここから離れたほうがいいかも知れない。
稲庭がそんなことを考えている間も、バイクの音はどんどん近づいてきていて、やがて彼らのいるビルのすぐ目の前まで来てピタリと止まった。これで尾行が確定したと判断したのか、稲庭が殺意の混じった目で舎弟を睨みつけると、恐れをなした彼は縋り付くように窓を開けて、慌てて真下の路上を身を乗り出すようにして覗き込んだ。
稲庭もチッと舌打ちをすると、彼に続いて外を確認しようと窓の方へと近づいていったが……その足は窓に辿り着く前に、中間あたりで止まってしまった。
信じられないものでも見ているかのように、動揺する彼の大きな体がブルブルと震えている。それもそのはず……バイクは確かにビルの目の前で停まっていたが、それは路上ではなく、目の前のビルの壁の上だったのである。これは誇張でもなんでもなく、バイクは実際に、ビルの壁に、セミみたいに、ビタッと、停まっていたのだ。垂直に。
目の前のビルの壁に、金田バイクみたいな巨大なバイクが、ピタリと吸い付くように停まっている。そのあり得ない光景だけでも、見る者をみな唖然とさせるには十分だったが、マイアはそのバイクに跨っている人物を見て二度驚いた。
何故なら、そこにいたのは彼女もよく知る人物だったのである。
そう、ここ最近、何度も何度も、夢の中の鏡の中で、飽きるほど見てきた……もしくは、ステータス画面に表示されたアバターが、今、何故か、彼女の目の前のビルに垂直にくっついて、こっちのビルを見上げているのである。
マイアは叫びそうになった。だが、それを制するかのように、真一郎の方が先に叫んだ。
「兄貴っ!!!」
その声を聞いてビルの中に弟がいることを知った甲斐は、窓に取り付いて唖然と彼のことを見ているヤクザ連中を睨みつけたかと思うと、ブオンとバイクのエンジンを吹かして勢いよくビルの壁面を真上に走り抜け、屋上の縁をジャンプ台代わりにして、隣のビルからこっちへ真っ直ぐダイブしてきたのである。




