真冬日:甲斐④―4
何の前触れもなく、いきなり倒れてしまった妹を抱えて、人でごった返す表参道を走った。普段、病気なんてしないから病院の場所を知らず、どうしていいか分からなくて右往左往した挙げ句、アドレス帳で高井組の石川の名前を見つけた。
高井組は渋谷を拠点にしているヤクザだから、きっと顔が利くと思い電話してみると、貸し一つだぞと言って、石川はすぐに医者を手配してくれた。前回プレイだったらきっと門前払いだったろうが、今の甲斐には恩を売っておく価値があるとの判断だろう。
完全に脱力しきって返事も出来なくなった妹を抱え、半狂乱になりそうになっていたら、組の若い衆がやってきて、明治通り沿いの看板も出ていない雑居ビルに連れて行かれた。病院に連れてけと言っているのに、どういうつもりだ? とイライラしながら凄んでいたら、遅れて石川がやってきてその辺にしておけと窘められた。
どうやら彼が紹介してくれたのは、医者は医者でも闇医者らしい。とは言え、最新設備を揃えているから間違いないと、石川は太鼓判を押すと、まずは落ち着けと言って待合室の椅子にドッカと腰掛け、顎をしゃくって隣を勧めた。
彼のどっしりとした姿を見て、甲斐がようやく落ち着きを取り戻すと、不安そうに遠目で待っていた看護師が妹をストレッチャーに乗せて運んでいった。こうなると自分にやれることはもう何もない。言われた通り、大人しく隣に腰掛け、両手を合わせて、祈ったこともない神に祈った。
妹が診療室へ運ばれてから十数分。
思ったよりも早い医者からの呼び出しに、もしかしてもう回復したのかと淡い期待を抱きながら向かうと、彼女は回復どころか奥のベッドで管に繋がれ、痛々しい姿を晒していた。意識は無いが、胸が上下しているのを見て生きているのは分かったが、表情が恐ろしくフラットで、まるで死人みたいに見えて怖かった。
まあ座れという医者の指示に従って椅子に座って固唾を飲んで見守っていると、彼はカルテに何かを書き入れながら、ちらりと横目で一瞥した後、おもむろにレントゲン写真を取り出して見せた。
それは人の胸部のレントゲン写真で、おそらく妹の物で間違いないだろう。一見するとどこも悪いところは見当たらないが……中々話し始めない医者に焦れながらじっと見ていると、その中央、丁度心臓の辺りに何か変な影が見える。
3つの穴が開いていると、何でも人の顔に見えてしまうのをシミュラクラ現象というそうだが、なんだかそんな感じである。いや、そんな感じも何も、段々とそれにしか見えなくなってきた。
しかし、心臓に人の顔って? これはなんなんだ? と戸惑っていると、ようやくカルテを書き終わった医者が、姿勢を正して正面を向きながら答えてくれた。
「人面瘡……?」
「ここ数年、突然流行りだした謎の奇病のことだ。何故か人間の体のあちこちに、こういった人の顔にしか見えない腫瘍が発見されるようになった。原因は不明。対策もない。いつ誰が罹ってもおかしくない。ただ、それ自体は悪性でないから、切除してしまえば何の問題もないのだが……」
病名だけなら、甲斐も聞いたことがあった。その気持ち悪い見た目から、ワイドショーなんかでよくネタにされていて、罹患率も結構高かったから、たまに近所の主婦が井戸端会議で噂していた。甲斐も、その病気にかかったという人物を、実際に見たことがあったが……
しかし、それは現実世界での話である。ゲームの中の話ではない。何故、そんなもんに妹が罹ってしまったのだ? と困惑していると、
「君の妹さんの場合、これが心臓に出来てしまったせいで、正常な動きが妨げられてしまい、現在、彼女の体は十分な酸素を得られなくなってしまっているんだ」
「治るんですか?」
甲斐が呆然としながら、そんな当たり前の質問をすると、医者は苦虫を噛み潰したような表情をしながら、
「分からない。はっきり言って、腫瘍ができた場所が悪すぎる。大きさも問題で、これを切除するとなると、果たして彼女の心臓がもつかどうか、正直五分五分と考えて欲しい」
「五分五分……いや、でも……」
甲斐はなおも呆然としながら続けた。
「ここはゲームの世界なんですよ? 何でNPCが病気になんてなるんですか? 僕たちのアバターなんて、ただの見た目に過ぎないはずなのに、テクスチャの内側は空洞のはずなのに……なんで心臓のデータなんてものが必要なんですか。どうして、そんな現実世界の謎の奇病まで再現されているんですか。そんなのおかしすぎるじゃないですか」
甲斐が呆けた顔のまま、淡々とそんな言葉を口にすると、医者は一瞬驚愕するように目を丸くしてから、すぐに気の毒そうに目をつむり、掛けていたメガネを外して眉間をもみながら答えた。
「信じたくない気持ちは分かる。だが、君が現実から目を逸らしてしまっては、助かるものも助からなくなるぞ。妹さんのことを思うのなら、まずは君が気をしっかり持ってくれなければ」
「……僕は何をすればいいんですか?」
甲斐がなおも放心した状態で質問すると、医者は諦めるようにため息を吐いてから、淡々と機械的に、
「治療方針としては二通り考えられる。まずはこのまま手術に踏み切って、腫瘍を切除してしまう方法。この場合、手術が成功するかどうかは、はっきり言って賭けだ。そしてもう一つは、心臓移植をする方法だ」
「心臓移植……」
甲斐はその言葉を聞いて、現実の自分の末期を思い出していた。胸に手を当てると、信じられないくらい心臓が早鐘を打っていて、まるで別の生き物みたいだった。
だがこの心臓だって、本来ここにある必要はない。彼は実際に世界の外側を見に行ったから知っている。この世界は全て見せかけなのだ。なのになんで、心臓なんてものが存在するのか……
「君はこの町でも相当な実力者なんだろう? どんな方法を使ってもいい。心臓を持ってきてくれたら、私がなんとかしてみせよう」
「僕の心臓じゃ駄目なんですか?」
甲斐は自分の胸に手を当てながら、キョトンとした表情で言った。医者はそんな彼の顔をまた気の毒そうに見つめてから、
「君が心臓を渡してしまったら、君が死んじゃうだろう。そんなことは妹さんも望んじゃいないよ。それに、臓器移植には適合条件が必要だ。君と妹さんが適合するとは限らないし……まあ、まずはドナーを探してくれ」
医者はそう言ってから、彼の心当たりがあるいくつかの医療機関を紹介してくれた。合法なのも、非合法なのも、いくつもあったが、恐らく、探したってそんなものは見つからないだろうと、甲斐は漠然と考えながらその話を聞いていた。
何故なら、ここはゲームの中なのだ。その辺を歩いている通行人を殺してみれば分かる。消えるだけだ。実際、爆発に巻き込まれて死んだNPCを何人も見ている。そんな世界で、妹の心臓なんて都合のいいアイテムを探したって、見つかるわけがないだろう。
しかし、見つからなければ彼女はどうなってしまうのだ?
滔々と語る医者の肩越しに、意識を失ったままの妹が見える。彼女を目覚めさせるには王子様のキッスは要らない。毒りんごみたいな形をした心臓が必要なのだ。なんだそれは? 笑い話にもならなかった……
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ドナーなんて見つかるわけがない。そう思いながらも、他にやれることは何もないから、消極的に彼女の心臓を探して回った。
甲斐はまず、医者に紹介された医療機関を巡って事情を話し、ドナーを探していることを伝えて回った。これでもし適合者が見つかったらすぐ教えてくれる手筈なのだが、正直それは難しいだろうと、彼らも言っていた。理由は、必要とする臓器が心臓なことだ。
医者も言っていたことだが、心臓を渡せばその人は死んでしまうわけだから、仮に適合者が見つかったところで、譲ってくれる可能性は非常に低い。それでも、世界中を探して回れば、条件を満たす適合者が見つかるかも知れないから、藁にもすがる思いでドナー探しをするわけだが……
しかし、この東京しかないゲームの世界で、世界中とはどの範囲を指すのだろうか?
普通に考えれば地球全体と考えるのが筋だろうが、このゲームにはそもそもそんなデータは存在しない。なら存在しないデータの中から、妹に適合する心臓を見つけ出すというのは不可能だから、もし心臓があるとしたらこの東京に限られるだろう。そう考えると、見つかる可能性は限りなく低くなる。
そもそも、NPCの心臓を探すという行為自体が、おかしなことなのだ。実際に、世界の外側を見てきた甲斐だから言えることだが、この世界の全ての物体は見た目だけしか存在しない。その裏側に回ってしまえばテクスチャの張っていない透明な壁があるだけなのだ。
人間のアバターだって同じことで、実際に体の中に首を突っ込んで見てみれば、その中身は空洞になってるはずだ。ところが、このアバターにメスを入れて傷口を開けば、そこに内臓が現れる。そして傷口を縫い合わせて元に戻せば、また中身は空洞になるのだ。そういう風に出来ているはずなのだ。
そんなNPCの中から心臓を取り出して、別のNPCに入れ替えるという行為に、一体どんな意味があるだろうか? データだけのやりとりだったら、もっとスマートな方法があるんじゃないか。
だから、もし妹の心臓があるとしても、それは他のNPCの中から見つかるものではなく、もっとイベントアイテム的な方法で見つかるのではないか。甲斐はそう考えて、世界の中だけではなく、外側にも活路を見出そうとした。チートを使って、妹の心臓という、都合のいいアイテムを創り出せるんじゃないかと、そう考えたのだ。
そうして彼は世界の外側へと赴き、他世界をいくつもいくつも回って、必要なスキルを集め始めた。
しかし、そうやって現実ではありえない方法を使ってまで、彼女の心臓をクリエイトしようとしても上手く行かず……そうこうしているうちに、妹の病状はどんどん悪化していった。
「甲斐さんですか? 妹さんの容態が急変しました。すぐに病院に来てください」
もう何日も眠っていないぼーっとする頭で、血眼になって妹の心臓をクリエイトしようと躍起になっていたら、闇医者から電話が掛かってきた。彼女の心臓を探すことに夢中になって、もう何日も見舞いにすら行っていなかった。慌てて上着を羽織り、数日ぶりの病院へと向かう。
病院に着くと、入ってすぐの待合室に闇医者が待っていて、甲斐がやってきたのを見ると、期待に満ちた表情で立ち上がり、
「心臓は見つかったか!?」
と聞いてきたが、しかし甲斐の様子から、返事を聞くより先にその表情は曇っていって……彼は気を取り直したように表情を取り繕うと、
「妹さんが待っているから、治療室にどうぞ」
しかし、そう言って先導するように先を進む医者の後を、甲斐はすぐには追いかけることが出来なかった。なんだか妙に足が重くて、そっちの方へ行きたくなかった。でもそんなことも言ってられないから、太腿をひっぱたいて無理やり足を進めた。部屋に入ると、そこには前回見たときよりも更に多くの計器に繋がれた妹が、痛々しい姿を晒していた。
ピッピッと規則正しい電子音が響く中を、看護師たちが忙しそうに歩き回っている。彼女はその中央の寝台に寝かされていて、真っ白な顔をして目をつぶっていた。胸が辛うじて上下しているのに気づかなかったら、多分死んでいると勘違いしただろう。そんな彼女の喉には穴が開いていて、そこに突っ込まれた管からシューシューと風切り音が聞こえていた。
よしてくれ……と、甲斐は思った。彼女はNPCだぞ……よしてくれ……
そんな彼の動揺を察知でもしたのか、その時、じっと動かなかった妹の瞼がピクリと動いた。規則正しかった電子音がスタッカートみたいに跳ね上がり、ピッチがどんどん早くなる。彼女の覚醒が近いと気づいた看護婦が寄ってきて、耳元で彼女の名前を呼んだ。
「りあむさん? りあむさん? 聞こえますか? お兄さんが来てますよ。聞こえますか?」
彼女の赤い瞳が薄っすらと開き、呆然と見下ろしていた甲斐の目を捉えた。妹はほんの少しだけ口角を上げるような仕草を見せてから、すぐ諦めたように無表情になり、代わりに辛うじて動く右の指先をゆらゆらと揺らした。
それを見て自然とどうすればいいか分かった甲斐が手を取ると、彼女は酸欠の鯉みたいに口をパクパクさせている。なんだろう? と耳を傾けてみたら、
「……お兄ちゃん……ごめんね……」
そんな声が聞こえた途端、彼女に繋がれていた計器類が、けたたましい警告音を上げ始めた。
バタバタと看護師たちが走り回り、カラカラと音を立ててストレッチャーを運んでくる。妹の手を握って立ち尽くしていた甲斐の肩に、医者の手が乗っかる。
「こうなったら一か八か、腫瘍を切除してみよう……可能性は無くはないが……」
医者はその先は言わず、黙って二人の繋がれた手を解いた。
バタバタとストレッチャーに乗せられて妹が運ばれていくのを、甲斐は呆然と立ち尽くしたまま見送った。さっきまで人でいっぱいだった室内があっという間に閑散となり、やけに殺風景な空間がぽっかりと広がっていた。
静寂が訪れ、自分の息遣いすら聞こえてくる中、妹が寝ていたベッドに触れると、まだ彼女の温もりが残っていた。しっとりとした汗がシーツに染み込んで、空気に触れてひんやりとした。
何故、こんなにも温かいのだろうか。彼女はNPCなのだぞ? 人の振りをしているだけの、ただのAIに過ぎないはずだ。プラスチックみたいに、ずっとそのままでいてくれれば良いだろうに。
手術は数時間に渡って行われた。
他に出来ることもなく、待合室でうろついていたら、手術室から様々な人の声が聞こえてきた。どれもこれも怒ってるみたいに響いてくるが、不快な感じは一切しない、みんな真剣なことが分かるからだ。でもそれも最初の1時間くらいで、直ぐに待合室は静かになった。集中しているのか、それとも疲れてしまっているのか、中の様子は全く窺えない。いつの間にか握りしめていた手のひらは、血と汗が混ざっておかしな色をしていた。
固まってしまった指を一本一本、順繰りに引き伸ばしていると、ふいに手術室のドアが開いて医者が出てきた。緑色の手術衣を来て、肘まであるゴム手袋は血で汚れていて、彼は歩きながらそれを強引に引きちぎるように脱ぎ捨てると、甲斐の目の前で止まって申し訳無さそうにため息を吐いた。
「力になれなくてすまなかった……」
そんな言葉が待合室に空虚に響く。医者は甲斐の目を真っ直ぐ見つめると、暫くの間まるで非難を待ってるかのようにじっと立ち尽くしていたが、やがてその空気に耐えきれなくなったかのように、足早に横を通り過ぎていった。
医者が去っても、なお身動きが取れずに突っ立っていると、今度はストレッチャーに妹を乗せた看護師が出てきて、呆然と佇む甲斐の手を引っ張ってついてこいと促した。覚束ない足取りで、どうにかこうにかその後ろをついていくと、やがて何もない白い部屋へとたどり着き、その中に妹と二人置き去りにされた。
ストレッチャーに乗せられた妹の顔には布が掛けられていて、取り払ったら真っ白になった彼女の顔が出てきた。無表情で、脱力仕切ってて、本当に機械みたいだった。そんな顔を見下ろしていたら、看護師が戻ってきて床に落ちていた布を拾い上げ、持ってきた線香立てと一緒に棚の上に畳んで置いた。白檀の芳しい香りが部屋に充満し、煙が白く覆っていく。そんな中で甲斐は立ち尽くしたまま、また石像みたいに固まっていた。
それからどれくらい時間が過ぎただろうか。
甲斐がまだ妹の死を受け入れられずに、彼女のことを見つめていると、突然、そんな彼女の体が半透明になり、パッと消えてしまった。
何が起きたかすぐには理解出来ず、甲斐はしばしの間狼狽してしまったが、やがて何が起きたのかを察すると、彼は思わず腰が抜けそうになった。
これまで何度もその現象を見てきたはずだ。NPCは死んだら消えてリスポーンするのだ。冷たくなった死体はどこにも残らない。妹もNPCだから例外ではない。彼女の体は、この世界から消えてしまったのだ。
まだ葬式もあげてないのに、まだお別れも言ってないのに。こんな理不尽があっていいのか? そう思うと怒りがこみ上げてきたが……
逆にNPCならリスポーンしてる可能性があると思い至ると、彼は血相を変えて駆け出し、気の毒そうに声を掛けてきた看護師を突き飛ばして、病院から外へ飛び出した。
「りあむ! りあむ、居るか!?」
六本木のマンションに帰ってきた彼はセキュリティをイライラしながら解除すると、いつも二人が使っている寝室へと向かった。しかし、そこには期待していた姿はなく……今度は彼女が散らかし放題のリビングへと行ったが、やはりそこにも妹は見当たらず……それどころか逆に、いつも置きっぱなしだった彼女の私物が消えていることに気づいてしまった。
嫌な予感がして妹の私室へと向かったら、そこはもぬけの殻になっており……慌てて食器棚を確かめてみれば、彼女のお気に入りの食器は無くなっていて、クローゼットの中の彼女の服も、洗面所の彼女の歯ブラシも、何もかもが家の中から消え失せていた。何かの間違いを期待して、マンション内の全ての部屋も調べてみたが、どこにも妹は見つからなかった。
心臓がチクチクと痛み、額からは脂汗が垂れてくる。粘っこい唾液を嚥下している時、甲斐はハッと気がついた。ここは後から引っ越してきた場所で、元々の二人の住み家ではない。もし彼女がリスポーンするとしたら、あの安アパートの方だろう。
甲斐はそう考えると、自宅の地下駐車場へと向かった。
六本木交差点から追いかけてきたパトカーを従え、イライラしながら渋谷を通り過ぎる。粘着爆弾で追ってきたパトカーを吹き飛ばし、暫く道なりに進んでいくと、かつて二人が住んでいた街へとたどり着いた。
甲斐は乗ってきた車を歩道に乗り捨てると、いつもの路地裏を通って家の前のコンビニへと向かった。
ところが、いつもだったらバックヤードに続くドアが開いているのに、今日に限っては開いておらず、爆弾で吹き飛ばすわけにもいかないから、彼は交差点まで取って返すと、大回りして三叉路へと向かった。
その三叉路を通り過ぎれば、すぐ右手にあの安アパートが見えてくるはずだ……しかし、甲斐が懐かしの我が家に駆け寄ろうとすると、そこにはあのボロい建物はなく、ただの空き地が広がっているだけだった。振り返れば、あのコンビニも無くなっており、テナント募集の張り紙が風にパタパタ揺れている。
もしかして道を間違えたのか? と思って周辺を歩き回ってみたが、流石に数ヶ月も暮らしていた街の風景を見間違えるわけもなく、何故かアパートとコンビニだけが消えていることが判明した。
これでは、彼女がリスポーン出来ないじゃないか……呆然と立ち尽くしていると、いつもアパートの前で遊んでいた黒人の子供たちが通りがかった。呼び止めてアパートがいつ取り壊されたのかと尋ねると、子供たちは怪訝そうな顔をして、
「そんなの元々ここには無いよ」
彼らはそう言って、奇異なものでも見るかのように去っていった。
きっと子供たちの記憶違いだろうと、通りすがりの大人を引き止めて尋ねてもみたが、こちらの返事も芳しくなく……その後、何人に聞いても答えは変わらず、ここには数ヶ月前からアパートも無ければ、コンビニも存在しないという情報が蓄積していくばかりだった。
よろよろとよろめきながらあちこち歩いて、どこを通ってたどり着いたのかは判然としない。いつの間にか、甲斐はあの蒸気機関車が展示してある公園に立っていた。めっきり寒くなってしまった噴水広場には人影が無く、テキ屋もいなくて殺風景な景色だけが広がっている。
甲斐は保険屋と話したベンチにどっと腰掛けると、肩を落として前傾姿勢で頭を抱えた。
どうして、妹が生きていた痕跡がどこにも見当たらないのだ……? ポケットの中から携帯を取り出してアドレス帳を開くと、そこにあるはずの妹の名前も無くなっていた。
と、その時、ピリリリリっと素っ気ない着信音が鳴って、知り合いのTAKAが電話を掛けてきた。とても誰かと話す気分では無かったが、どうしても確かめておきたいことがあったので、電話に出る。
「もしもし……」
「あ、甲斐君? 今からみんなでマルチやろうって言ってるんだけど、あんたもどう? 最近ご無沙汰してるじゃない。そろそろクレジット稼がないとマズイんじゃないの?」
「いや、ちょっと今は立て込んでいて……それより、聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
「妹のりあむのことなんですけど、TAKAさん、どっかで彼女を見かけませんでしたか?」
「りあむ……? 妹って?」
嫌な予感がする……聞くんじゃなかったと、後悔している自分がいる……甲斐はどんどん荒くなっていく呼吸を何とか鎮めようとして、生唾をごくんと飲み込んだ。その瞬間、
「それって、誰のこと?」
甲斐はそれ以上話をする気力もなく、電話を切った。
何が起こっているのかはよく分からなかった。でも、自分の周りではこういうことがしょっちゅう起きていたから、多分これもその類なのだろう。わかっていることは唯一つ。妹が、この世から消えてしまったということだけだった。
甲斐はベンチの背もたれに体を預けると、空を仰ぎ見た。灰色が一面に広がっていて、今にも泣き出しそうだった。今の自分の心境と、どちらの方が重いだろうか。そんな比べるまでもない。人間の精神の問題と、自然現象は比較対象にならない。人間が、NPCのことなんかで、心をかき乱される理由なんかないのだ!
なのに、なんだ!? この苦しい胸の内は……ぽっかりと、胸に穴が開いてしまったかのような痛みは……彼女のことを思い出そうとすると、途端に瞼が熱くなってくる。さっきから鼻がむず痒くて、風邪でも引いてしまったかのように熱っぽかった。走ってもないのに息が上がって、今にも気が狂いそうだ。
しかし、甲斐にはこの心の病の治し方の当てがあった。失恋の痛みも時間が癒やしてくれるとか、そんなベタな話ではない。
ログアウトだ。
ログアウトをすれば、きっと甲斐はまたあの安アパートで目覚める、あの日に戻ることが出来るだろう。そこには妹がいて、また何事も無かったかのようにチュートリアルを始めるだろう。
しかし、ログアウトをすれば全てが巻き戻るのであれば、甲斐が今日これまでに築き上げてきた全てを失うことにもなる。この世界で得た地位も名声も、六本木のマンションも、高井組との太いパイプも……そして、TAKAや通り魔たちのような仲間も、何もかも全部だ。
それは、たった一人のNPCを復活させるためだけに、捨ててしまってもいいものなのだろうか……?
言うまでもない。
甲斐はステータス画面を開くと、迷うこと無くログアウトボタンを押した。
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ギュンと世界が捻じ曲がるような感覚がして、螺旋を描くみたいにぐるぐると視界が回り始めた。
風景が混ざりあって灰一色に溶けていく過程で、どこからか際限なく光が溢れてくるような気配がして、その先には走馬灯のような光景がいくつもいくつも流れていった。
以前、ログアウトした時にも見たあの現象だ。でも、今回はそこに甲斐のつまらない人生なんて混ざる余地もなかった。そこに溢れ出した景色は、どれもこれも妹のものばかりだった。
初めて、この世界で目覚めて、彼女にベッドから叩き落されたこと。彼女のナビに従って川を飛び越え、警察を巻いてやったこと。悪びれない彼女に不服を漏らしながら、海の上に佇むコフィンを見たこと。家に帰ってピザパーティーをしてる彼女にチョップして、一緒にテレビを見て笑いあったこと。生まれて初めて、女の子を抱いたこと。現実の辛さを紛らわそうとして、彼女が気を使ってくれたこと。雨の中、探しに来てくれたこと。看病したこと、されたこと。そして現実の甲斐に起きた出来事に、彼女が本気で怒ってくれたこと。
初心者狩りに殺されて、本気で激怒していたこと。自分にも、泣いてくれる家族がいるんだと思ったら、凄く嬉しかった。でもそんな彼女を世界の外側に連れて行ってしまって、彼女を失って、苦しくてログアウトをした。あの時の彼女はもう戻ってこないと思っていたから、新しい彼女とは上手く付き合えていけるか分からなかったけれど、彼女は彼女で、いつも屈託なく笑っていて、また彼女のことを好きになっていった。
こっちの世界の暮らしにも大分慣れてきて、チートスキルを駆使して、かなりの稼ぎを得られるようになって、生活はどんどん変わっていった。二人でやる遊びもリッチになっていって、人並みに恋人らしいこともやった。休日にはウィンドウショッピングをして、映画を見て、夜景のきれいなレストランで食事もして、夏にはプールへ行って、泳げないのに無理して溺れて、花火大会では恋人たちに混じって、浴衣で出店を冷やかして回った。
いい車に乗って新居を探しに行って、目を輝かせている彼女に乗り気じゃない素振りをしながら、こっそり契約して、プレゼントに鍵を渡した日には、もう体が溶けるんじゃないかというくらい彼女を抱いて、気絶するように眠って、深夜に目が覚めたら、彼女の方も起きていて、甲斐の体にいたずらしたり、頬ずりをしたり、髪の毛をグイグイ押し付けてきたり、何だか一人で幸せそうにしているから、声を掛けそびれてずっと眠っている振りをしていた。
ナビの仕事をやめて暇になったから、家のことを色々やりはじめたけど、何をやっても彼女は不器用で、家の中が酷いことになってしまった。二人で片付けをしながら、ヘルパーでも雇おうかと提案したら、それは絶対嫌だと言っていた。自分もそう思った。それからはいつも早めに家に帰るようにして、デパ地下に寄って食材を探している時、彼女のことを考えるのが、とても幸せな時間になっていった。次は何をしよう。どんなものを食べよう。一緒にやれることを探すのが日々の楽しみになった。
旅行が出来ないからいつも都内で、もう都内に行ってない場所は無いんじゃないかと言うくらい、二人で色んなところへいった。季節の行事も、花火大会に、月見に、ハロウィンに、そしてクリスマスと、楽しめるものは全部楽しんだ。
クリスマスのイルミネーションを見に行ったあの日、そして彼女は帰らぬ人となった。
そんな景色が、いくつもいくつも眼の前で流れては消えていく。
甲斐はいかないでくれと手を伸ばした。
過ぎ去った過去はもう帰ってこない。あの日に戻ったところで、思い出は元には戻らない。
しかしどんなに背伸びをしても、もうその景色には届かなかった。一生懸命、クロールみたいに手足をバタつかせても、ちっとも前には進まなかった。
甲斐は水洗便所に流されるみたいに、ぐるぐると回りながら灰色の中に溶けていった。最後の瞬間はいつも唐突に訪れるから、全くの無防備だった。彼は悲鳴をあげた。
この世界を返してくれ!
しかし、彼女のいない世界で生きていくことも出来ない。戻ったところで、また同じことを繰り返すだけだろう。自分はなんて弱い生き物なのか……
「お兄ちゃん! 起きてってば!!」
絶望の中、ふわ……っと、いきなり重力が無くなって、次の瞬間、見覚えのある天井が、横にぐるんとスライドしていった。ドスンと床に落ちた衝撃で、強かに鼻をぶつけてツンとしていた。チカチカと火花が散ってる視界には、やっぱり見覚えのあるパイプベッドの足が見えてて、埃と携帯充電器の束と、そして誰かの小さな足が見えた。
貧血みたいに脳みそがシュワシュワする。甲斐は床に手をついて、その人の姿を探そうと上体を起こした。すると涙で滲んだ視界に、妹の元気な姿が飛び込んできた。AIが描き出したような完璧な姿で、誰もが振り返るような美貌と赤い瞳でそこに立っているのを見た時、しかし彼は再会の喜びよりも、ずっと強い寂寥感のようなものを感じていた。
「わわっ! お兄ちゃん、大丈夫? 床に鼻ぶつけちゃったの?」
そう心配する彼女の向こう側にはでっかい姿見が置かれていて、その中にはゲームのデフォルトのアバターが、鼻血を出して、顔をクシャクシャにして、きたない泣き顔を晒していた。
甲斐はそれを見て、ようやく自分が戻れない場所に戻ってきたのだと……そして、ようやく彼女の死を実感しているのだと……他人事みたいに思っていた。




