アップロード:マイア③―2
マイアがうたた寝から目覚めると、父が入れられた棺桶を覗き込むようにして、母が立っていた。
「お母さん」
かつて自分が愛した男の死を見つめながら、彼女は何を考えいたのだろうか。線香から上がる紫煙がくるりと揺れて、乾燥した室内に充満している。数年ぶりの母の姿に驚いて出た声が掠れていた。母は怯える小動物のようにビクッとしながら、半身だけ振り返って、トークハットのベールの影から目だけをちらちら向けてきた。
昔の母は背筋をピンと伸ばして、いつも堂々としていて、自信に満ち溢れているように見えた。愛する夫と双子の間で、笑顔を絶やすことはなかった。でも、家を去る時に見せた彼女の背中は、正反対に丸まっていて、まるで怯えた子供みたいに不安そうに見えた……
今目の前にいる母は、まるであの時のまま、時が止まってしまったかのようだった。
「……ひさ……しぶり……」
蚊が鳴くようなか細い声をマイアの耳が捉えると、彼女は言いようの知れぬ感情が湧き上がってきた。それは郷愁というよりも、諦めや後悔に似た感情だった。本当は今すぐ母に駆け寄って抱きしめたかったのに、その母が見せる怯えるような視線が、彼女のことを拒んでいるように見えて怖かったのだ。
「うん……」
その瞬間、マイアは考えていることが全部どこかへ吹っ飛んでしまって、頭の中が真っ白になった。彼女が必要以上に大げさな素振りをしないのを見て安心したのか、母は強張っていた肩をほんの少し撫で下ろしてから、相変わらず挙動不審にボソボソ言った。
「おと、お父……さんのことは……その……残念だったけど……」
「うん……」
「久しぶりに会えて……良かった……わ」
「うん」
「そ、その……マイアちゃんは、元気? だった?」
「うん……」
「ううん。大変な病気だったものね。元気なわけないわね……お母さん何言ってるんだろうね」
「……うん」
もしも母に会えたら、積もるような話をいっぱいしようと思っていた。でも、いざ目の前にしたら何も出てこなかった。マイアは真っ白になった脳みその隅っこの方で、何か喋らなきゃと思う度に、どんどん追い詰められていく自分に嫌気が差していた。
でもそれは多分母も同じだったのだろう。彼女の目玉は飛蚊症みたいにあちこち飛び回り、たまたまマイアが抱きしめていたテディベアに止まって、
「それ、まだ持っていたの?」
「うん……」
「そう……懐かしいわね。でも、あなたももういい年なんだから、いつまでもそんな物持っていなくてもいいんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、マイアの顔が朱に染まって、真っ白だった頭の中が怒りの炎に燃え上がった。
「でもこれ、お母さんがくれたんだよ?」
ノエルは家を出ていった母が娘に残した唯一の物だった。このぬいぐるみを通して、二人はようやく繋がっていられたと言うのに、どうしてそんな大事な思い出の品を手放せなんて言うのだろうか? マイアはとても信じられなかった。本当に、これがあの母と同じ人なんだろうか?
マイアが挑むような視線を見せると、母は予想もしていなかった娘の反応に驚き、ますます挙動不審になっていたが……すぐ彼女は何かに気づいたかのように、突然落ち着きを取り戻すと、少し遠い眼差しをしながら、
「そう……だったわね。私があなたにあげられた物は、他に何も無かったから……」
そう言って見せた母の表情は、どことなく後悔に満ちていた。その瞳は、昔、会話の消えた家の中で、母がよくしていた瞳に似ていた。マイアはその遠い視線の先で、母が何を見ているのかをなんとなく察した。
そのテディベアは、正確には、母がマイアにくれた物ではない。
母が、双子に、あげた物だったのだ。
それを弟は子供っぽいから要らないと、姉に譲ってくれたのだ。マイアは大喜びで毎晩ノエルと一緒に眠り、弟はヤレヤレと呆れ顔で見ていた。
母は今きっと、それを思い出しているのだろう。それが分かるからこそ、マイアはまたモヤモヤとした嫌な感情に襲われた。
かつて母が出ていった日に、何度も何度も考えた。行かないでってこんなにお願いしているというのに、母がマイアの言うことを聞いてくれなかったのは、きっと彼女がマイアではなくて……スバルを選んだからなのだと。
視線の先で、線香の灰がポロッと落ちた。そろそろ消えそうなのに、母は背を向けているから気づいていないようだった。マイアは無言で彼女に近寄っていくと、オドオドしている母の横をすり抜けて、香炉に新しい線香を立てた。
母は相変わらず怯える子供みたいにビクビクしていたが、娘の意図を察するとホッとしたように小さくため息を吐き、それからまた棺桶の中に視線をやった。
「……こんなに小さくなってしまって」
乾燥した室内に、母の声が寒々しく響く。実際、死体が腐らないように、式場は少し寒かった。彼女は羽織っていたトレンチコートの襟を立てるようにして首を温めながら、まるで手術に向かう医者のように冷たい視線で、ポツリと漏らした。
「……また、間に合わなかったわね」
「何が?」
突然、意味不明な言葉が出てきてマイアが問い返すと、母は自分の独り言に返事がくることを想定していなかったのか、少し時間をおいてから、考えごとをするように続けた。
「いえね……もしも死ぬのが分かっていたら、精神アップロード出来たのにって」
精神アップロードとは、そのものズバリ、精神を電脳空間にアップロードする技術のことである。人類初の完全意識没入型のVRゲームが完成した当時、ここまでデジタルで再現できるようになったのであれば、もう肉体が滅びても、精神だけオンラインで生き続けることは可能なんじゃないのか? と言う議論が盛んとなった。
各国はその金鉱脈を真っ先に手に入れるために開発競争を繰り広げたのだが、その競争を勝ち抜いたのが、信じられないことに目の前にいる母だったのだ。
当時、サイバーテクニクス社の共同経営者であった彼女は、父と離婚したことで経営を離れ、その技術を持って大学に戻っていた。それに目を付けた日本政府は、莫大な資金を彼女に与えることで研究を加速させ、後に世界で唯一の精神アップロード者の収容施設である、東京湾岸エアフロートを建設したのだ。
エアフロートには、その後、続々と死を恐れる世界中の億万長者たちが集まってきた。そんな彼らの資産合計は、なんと全世界の9割にも達するらしい。故に、彼らの精神体を収容している中央塔は、世界の超重要保護建造物であると同時に、反政府組織の攻撃目標ともなっていた。
億万長者である父もまた、いずれはアップロードをすることになっていただろう。だが、その前に事件に巻き込まれ死んでしまった彼は、永久にその機会を失ってしまったのだ。
「お父さんは、もうアップロードは出来ないの?」
「ええ……アップロードするには、対象がまだ生きている必要があるのよ」
マイアが疑問を口にすると、母はそれまでの臆病な態度から一変して、科学者らしい冷静な眼差しを棺桶の中に向けながら淡々と語り始めた。
「元々、私達が精神アップロードという現象を発見したのは、まだ私がサイバーテクニクス社に居た時のことなのよ。当時ベイジングスーツを買った顧客の一人が、偶然、スーツを着たまま心筋梗塞で倒れて、そのまま病院に運ばれたの。状況から、スーツが事故を引き起こしたんじゃないかって疑われたんだけど、もちろん、そんな事実はなかったわ。ただ……潔白を証明するため事故を調査している時、私達はとんでもないものを発見してしまったの。
その患者は、医者が死亡認定した後も、数時間、オンラインでゲームをしていたというログが見つかったのよ。私達はその事実から、もしかしてこの時、精神アップロードが行われていたんじゃないかと考えた……その患者は自分の死に気づかずゲームを続け、その後、ログアウトしたことで消滅したんじゃないかって」
つまり、ベイジングスーツを着たまま死んだらアップロードが行われると言うことだろうか? そのあまりにも単純な結論に、マイアは唖然とした。そういえば……甲斐も死の間際、スーツを着せられていたはずだが……?
「まさか精神アップロードって、そんなに簡単な方法で実現してたの?」
「もちろん違うわよ」
マイアがその可能性を尋ねるも、母はあっさりとそれを否定した。
「私達も最初はマイアちゃんと同じように考えたわ。ベイジングスーツを着たまま死ぬ人なんて、まず居ないから。だから私たちは、安楽死が法で認められた国に行って、協力者に事情を話して実験に協力してもらうことにしたの。対象はみんな不治の病で、万一生き残れたら幸運だから、協力してくれる人はいくらでもいたわ。でも、結果は全滅……」
「全滅……」
「ええ。誰一人として、アップロードは起こらなかったわ。実験した数は少なかったけれど、それで実際に被験者が死ぬわけだから、気分がいいわけないわよね。私達はそれ以上追求せず、この方法は間違いだったと結論付けたわ。最初の患者はアップロードされたわけじゃなく、きっとゲームのログの方が間違っていたんだって。
でもね……それから暫くして、二人目の被検体が見つかってしまったのよ。最初の患者と同じように、スーツを着たまま死亡して、その後数時間ゲームをしていた形跡がある患者が……
流石に二度も同じ現象が起きたら無視は出来ないでしょう。それで、当時大学に戻っていた私は、日本政府からの依頼を受けて、この現象を徹底的に調査したの。そして、これら二件は実際に被験者がアップロードされていたと結論した……」
「その二人と、他の実験協力者は、一体何が違ったの?」
すると母はあっけらかんと肩を竦めて、
「それは実は良く分かってないんだけどね」
「え? じゃあ、何が分かったっていうの?」
マイアはガックリと転びそうになった。母はそんな娘の姿を見ながら、どこか得意げな感じで、
「ええ、それはね? 分からないことが分かったというか、人間を人間たらしめるものは、人それぞれ違うってことが分かったと言うのかしら……
アップロードされた二人も、他の被検体も、ベイジングスーツを着たまま死んだという事実には変わりないの。なのに、前者だけがアップロードされたのは、たまたま、彼ら二人を人間たらしめる何かが、偶然に、アップロードされたんだと、私はそう考えたのよ」
母が何を言っているのか、さっぱりわからない。ちんぷんかんぷんだと言った感じ眉をくねらせていると、彼女は分かっていると言わんばかりに淡々と続けた。
「まずVRゲームっていう物が、どうやって人間の五感を再現しているのか想像して? 私達がゲーム内で視覚や味覚などを感じられるのは、ゲーム内の私達の仮想の体に、これまた仮想の神経網というものを再現して、それを現実の体とリンクさせているからなのよ。
アバターの手に何かが触れたら、まずアバターの神経に作用して、その反応が現実の私達の体にフィードバックされる。匂いを感じたら嗅覚神経に、味を感じたら味覚にって、感じね。
それでインプラント者は、その五感を司る神経がチップと繋がっているから、そこに電気信号を送れば、彼らは擬似的な感覚を実物として感じることが出来る。VRゲームはそうやって人間の感覚というものを疑似体験させているわけ。
でもベイジングスーツの着用者は、実際に神経が繋がれているわけじゃないでしょう? だから、もうワンクッションが必要なのよ。
具体的にベイジングスーツが何をしているのかって言うと……それを着た人物の全身をスキャンして、その人の脳から血管から神経から細胞から、何から何までコピーして、そのデータを元に仮想的な脳……デジタル脳を構築し、それをアバターとリンクさせているのよ。
インプラント者は、アバターとチップが直接繋がってるけど、ベイジングスーツの場合はアバター→デジタル脳→スーツ着用者という順番ね。
言うなれば、このデジタル脳ってものは、現実の私達とアバターを繋ぐハブになってるわけ。で、ここまで言えばわかると思うけど……
アップロードされた二人と、他の被検体は、このデジタル脳の出来が違ったのよ。それが何故かはわからないけど、恐らく、偶然に、彼ら二人のデジタル脳には、彼らを彼らたらしめる何かが、たまたま入っていたとしか考えられなかった。それで私は解像度をもっと上げて、デジタル脳を構築することで、人間のアップロードを実現することに成功したのよ」
「解像度……?」
「一口にデジタル脳って言ってはいるけど、それは脳だけじゃなくて全身の神経網をスキャンしたものなのよ。人間の体は脳だけで何もかもを動かしてるわけじゃないでしょう? 例えば脊髄反射もあるし、手を叩いたら痛みを感じるけど、その痛みを感じるにはまず手がなくてはいけないじゃない。
味覚は一般的に甘味、酸味、塩味、苦味、旨味の五種類があるって言われてるけど、実際には100種類くらいの物質を人間は知覚してるの。嗅覚に関しては数千種って言われてるわね。でも、そのどれもこれもを再現する必要ってあるかしら? VRゲームでは、それらを刺激する化学物質自体が存在していないというのに。
それに、実際これら全てを再現しようとしたら、莫大なメモリ容量と演算能力が必要になるわ。それこそ家庭用ゲーム機には絶対不可能なレベルね。だから、殆ど使われない機能はどんどん省いていかなければならない。人間にやれることは大体決まりきっているから、なんならデフォルト脳ってのを作ってもいいかも知れない。
でもね、そうやってやり過ぎてしまうと、今度は疑似体験が疑似体験じゃなくなってしまうのよ。人間ってのはよく出来ていて、自分の意思でやってることと、何かにやらされてることってのは、明確に区別出来るみたいなのね。だから仮にデフォルト脳を作って、五感を刺激する方法を取ったとしても、使ってる本人はそれが自分の感覚じゃなことが分かってしまう。すごく気持ちが悪いのね。別人の体内に入ったような感じがするっていうか……
だからベイジングスーツではそれを避けるために、毎回ユーザー固有のデジタル脳を構築してるわけ。ユーザーの体を全スキャンして生の神経網を構築してから、必要なものとそうでないものを取捨選択してスリム化し、更に圧縮を行っているの。
圧縮ってのは、そう、例えば、生命のシナプス結合は全部同じ構造をしてるわよね? だからそれはある意味一つの構造体として扱っていいから圧縮が可能だけど、そこで行われる情報のやり取りは毎回違うから、必要に応じて圧縮された神経網を解凍して演算を行わなければならない。ちょっと技術的だったかも知れないけど、ベイジングスーツではそういう処理が行われているのよ。
話を戻すけど、そうやってデジタル脳は取捨選択と圧縮がされてるわけだけれど、全部ってわけじゃない。そこには相変わらず、無意味としか思えない情報も含まれているのよ。例えば、足の小指の神経とか、親知らずの有無とかね。そうしないとデフォルト脳を使ったときみたいに、ユーザーに違和感が出るからなんだけど……
アップロード者を調べてみると、どうやら、その無意味としか思えない情報の中に、自分を自分たらしめている何かが存在しているんじゃないかと考えられたってわけ。
だから私は、全てを再現することにしたの」
「全て……?」
「ええ。今までは、いかにしてスリム化を図るかを考えていたんだけど、今度は逆にどれだけの情報をデジタルに再現できるかを考えたのよ。
それはその人の脳だけではなく、皮膚も、髪も、骨も、内蔵も、その中に含まれている常在菌も何もかも全て……まあ、完全に全てというわけにはいかなかったけど、可能な限り全てを再現し、それをまた可能な限り可逆圧縮した……
そうしてようやく可能となったのが、精神アップロードって技術なのよ。それにはさっきも言った通り、莫大なメモリと演算処理能力、そしてそれを生み出す電力が……初期には人一人をアップロードするのに、原発一基分の電力が必要だった。
そして、そのとんでもない金食い虫を、私達は外部の攻撃から守らなければならなかった。だから政府は東京湾に巨大な人工島を作って、そこで一元管理するようにした。それがエアフロートなのよ。
私達はそこで、日夜、人間を人間たらしめているものは何か? を探しているわけ。もしそれが何か分かれば、不要な情報を切り捨てることが出来て、アップロードのコストがぐんと下がるからね。そうしたら、いずれ一般人にも普及が進んで、人間は死なずに済むようになるかも知れない……」
母はまるで人が変わったかのように饒舌に語っていたが、その時、ふと何かを思い出したかのようにトーンダウンして、
「そうなっていればこの人も……こんな小さな箱の中に入れられなくて済んだかも知れないのにね……私は、また、間に合わなかったんだわ……悔しいけど」
何気なく発せられたその言葉に、マイアは違和感を覚えた。母は今、またと言ったが、こんなことが二度も三度も起こったことはない。マイアは首を傾げた。
「また? さっきもそう言ってたけど……またって?」
彼女が疑問を呈すると、母は自分が口を滑らせたことに気づいたようで、一瞬だけしまったと言った感じの表情を見せた。だが、またすぐいつものオドオドとした憂いを帯びた表情に変わり、
「実はね……ジョージと……マイアちゃんのお父さんとは、ほんの一ヶ月ほど前に、こっそり再会していたのよ」
「お父さんと?」
二人は言うなれば同じ業界で働いていたが、離婚後二人きりで会うことは決してなかった。それは例の事件が今でも尾を引いているわけだが……
その父母が会っていたとは、もしかして仲直りが出来たんだろうか? マイアはほんのちょっと期待したが、彼らが再会した理由はもっと別のことにあった。
「ええ……ほんのひと月前の話。彼はあなたの心臓が、人面瘡に冒されていることを私に知らせに来たのよ。それで、あなたのことを頼めないかって」
「私のことって……? どういうこと?」
「もしもの時は、アップロードしてくれないかって……」
「……そう……だったんだ」
闘病中、父は常に明るく振る舞っていたから、そんなことを考えていたとは全く想像もしていなかった。マイアを引き取って以来、会社のCEOという立場にも関わらず、彼は常に娘を中心に考えて今日までやってきた。その父が頼むくらいだから、実は彼も相当覚悟を決めていたようだ。
母はマイアに頷いて見せてから、
「でもね、私は断ったのよ」
その答えも意外だった。
「どうして……?」
「アップロードって、結局死んでるわけじゃない。その結果、精神は永遠に生き続けることが出来るかも知れないけど、それがその人にとって本当にいいことかどうかなんて、他人には分からないわ。だから、私はマイアちゃん自身がそれを望んでいるのでない限りは、他人が勝手にアップロードの約束なんて取り付けちゃいけないって、そう思ったのよ」
それは一見すると、精神アップロードという前代未聞の技術の開発者らしからぬ言葉に思えたが、逆に、いつもアップロード者というものに触れているからこそ考えられることかも知れないとマイアは思った。
実際、もしもこの時、父が約束を取り付けていて、自分がアップロードされていたとしたら、今ごろ何を思っていただろうか……マイアの脳裏に、あのゲームに閉じ込められてしまった甲斐の姿が浮かんだ。
「それに、まだ生きてるなら、まずは生き残る方法を考えるべきでしょう? だから私は彼に言ったわ。マイアちゃんの腫瘍は心臓にしかないんだから、心臓移植したら絶対に助かる。だから、私はドナーを探すから、あなたはマイアちゃんのことを励まし続けて。それでももし駄目なら、その時またアップロードのことを考えましょうって」
「ドナーを? お母さんが探してくれてたの……? 全然知らなかった……」
マイアは呆気にとられて聞き返しはしたが、この母なら見つけかねないと薄っすら思った。実際、それは然程間違ってもいなかったらしい。彼女はそこそこいい線いっていたようだ。
「でも、先を越されてしまったみたいね。私が見つけるより前に、睦月君が心臓のドナーを見つけてきてくれた。お陰であなたは助かった。ジョージには、自信満々私が助けてみせるって宣言したのに……お役御免になっちゃって……」
それで娘の病室にも、見舞いに行けなかったのだ。
彼女はその言葉を飲み込んだ。マイアも、そんな母の気持ちを理解することが出来たから、それでも見舞いには来てほしかったとは言えなかった。二人はお互いに、本音を隠したまま、ちぐはぐな会話を続けるしかなかった。
「……睦月君には、感謝しなくちゃね。でも、どうしてその彼が、警察に拘束されているのかしら……?」
「うん……」
「相当、危ない橋を渡っていたのか……それとも……」
母が何かを言いかけた時だった。ピリリリリリ……と、素っ気ない呼び出し音が、彼女のハンドバッグの中から聞こえてきた。母は言いかけていた言葉を飲み込み、携帯を取り出すと、わざわざ式場の端っこまで歩いていって、娘に背を向けながら応答した。
「はい……ええ、私です……はい……はい……」
声の調子からして仕事の話らしい。時刻は深夜というよりも、もう明け方に近かった。そんな時間まで誰かに呼び出されるなんて、やはり自分の母は相当忙しい立場にいる人なんだなと改めて思っていると、
「え!? そんなはずは……それは確かなの?」
突然、母の声が一段トーンが上がった。
何かトラブルでも起きたのだろうか? とマイアがその様子を窺っていると、ちょうどその時、彼女は驚いたように娘の方を振り返り、
「……でも、マイアは私の目の前にいるのよ?」
これまた突然そんな言葉が出てきて、マイアは面食らってしまった。母の仕事相手との会話に、どうして自分の名前が出てくるのだろうか? 不思議に思っていると、母はその後、早口に何度も何度もはいはいと生返事を返してから、
「ええ……わかったわ。すぐに戻るから……はい。それじゃ……」
彼女は忙しそうに電話を切ると、携帯をハンドバッグにしまってから、すぐに何かを思い出したかのように、また忙しなくそれを取り出して画面を見た。多分、時間を確認しているのだろう。彼女は不機嫌そうに下唇を噛むと、フンッと鼻息を鳴らしてからコツコツと足音を立て、マイアの方へ歩いてきて、
「ごめ……ごめんね? マイアちゃん。お母さん、ちょっと仕事に戻らなくちゃならなくなって……」
「どうかしたの……?」
「ええ……ちょっとね。ごめんなさいね、本当に。式までには必ず戻ってくるから、それまでもう少し一人で頑張って貰える? 三田さんにもよろしく」
「う、うん……」
母はまるで言い捨てるように一方的にそうまくし立てると、娘の返事を待たずに慌ただしく式場から出ていってしまった。マイアはそんな母の後ろ姿を、ただ黙って見送ることしか出来なかった。
彼女が何故マイアの名前を口にしたのかは分からずじまいだったが……それはまた帰ってきた時に聞けばいいだろう。彼女はそう思って、今はそれ以上考えることはしなかったのだが……
その後、母は葬式が終わっても、結局斎場に戻ってくることはなかった。




