ログアウト:③―6
真っ白な空間に、甲斐一人だけが取り残されていた。たった今まで妹がいたはずの空間を凝視したまま身じろぎ一つせず、たっぷり何分間も息を殺して佇んでいた。しかし、いつまでもそんなことをしてる場合じゃないと、彼はようやく我を取り戻すと、
「……りあむ……おい、どこだよ! りあむ! おーーーいっっ!!!」
力いっぱい周囲に向かって叫び声を上げても、どこからも返事が返ってこないことを確認するや、彼はその場にうずくまって自分の頭を殴打し始めた。
迂闊だった。いくら彼女が信じてくれないのが悔しいからって、ムキになってこんなところに連れてくるんじゃなかった。
今になって考えてみれば、彼女はNPCなんだから、こんなゲーム外のイレギュラーな場所に連れてきていいはずがなかったのだ。この世界がゲームだと頑なに信じてくれなかったのだって、きっとなんらかの力が働いていたことは容易に想像できたはずだ。なのに後先考えず、こんなとこまで無邪気に連れてきてしまうなんて……今日の自分はどうかしていたんじゃないのか?
そりゃ、何度も殺されたり、チート武器を手に入れたり、魔法まで使えるようになって、気分が大きくなっていたのは確かだが、いくらなんでも自分を見失いすぎだ。いや……思えば彼女がいたお陰で、今までこの世界でもなんとか自己を保っていられたから、彼女にいろんな役割を求めすぎたのかも知れない。彼女はただ、自分のナビゲーターNPCとして、一緒に居てくれればそれで良かったのに……
ともあれ、今は嘆いていても仕方がない。なんとか、妹を取り戻す方法を見つけなければ……そもそも、彼女はNPCなんだから、普通にリスポーンするんじゃなかろうか? もしかすると、今頃すでに家に帰っているかも知れない。
彼は淡い期待を抱いて家路を急いだが……もちろん、そうは問屋が卸してくれはしなかった。
奪った車に飛び乗って、またパトカーに追われながら、今までで最速のタイムで家まで帰ってきたが、ドアを開けても、そこには空っぽの空間があるだけだった。電気が消えた真っ暗な部屋は、人のぬくもりを感じさせるものは何一つ無い。
このまま待っていたらリスポーンしないかな? と思って、ベッドに腰掛けてじっと彼女の帰還を待ち続けてみたが、1時間経っても2時間経っても、そんな都合の良い出来事は起きそうもなかった。そして、どうしよう? と思って、部屋の中を腕組みしながらぐるぐる回っている時にようやく気づいた。
この部屋のこの静けさは、人の気配がしないというだけじゃない。妹が居た形跡もないのだ。いつもなら洗面所にあるはずの彼女の歯ブラシも、台所の流しに置きっぱなしの食器も、洗濯かごに脱ぎっぱなしの彼女の下着も、甲斐には何がなんだかよくわからないパソコンパーツの山も……気づけばどこにも見当たらないのだ。
そんな馬鹿な! ……家を出る前、それは確かに存在したはずだ。甲斐が家に帰ってくる前に、妹が先に帰ってきていて、部屋を片付けて出ていったとでも言うのだろうか? いや、そんな持って回った考え方はしなくていい。彼女は存在ごとこの世界から消されたのだ。そう考えれば、辻褄が合うではないか。
「ど……どうすりゃいいんだ?」
自分の迂闊な行動で、人一人を消してしまった。いや、彼女はNPCだから、厳密には人とは呼べないのだろうが。寧ろNPCだからこそ、彼女が戻ってくる保証はどこにもないのだ。
渋谷のスクランブル交差点で殺害された人々を思い出せ。あの夥しい死体の数々を。もし、あの時甲斐がチーターをやっつけなければ、彼らはあの後どうなっただろうか? 一見すれば悲劇に見えるが、一日経過すれば破壊されたビルも元通りになるこの世界だ。単に消滅して、また新たにモデリングされたNPCがどこかでリスポーンするだけだろう。
例え、甲斐のとっては大事な妹だとしても、世界にとってはNPCの一人が消えただけに過ぎないのだ。
甲斐は今更ながら青ざめた。自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。馬鹿だ。本当に信じられないほどの大馬鹿だ。もう死んでしまいたい……
「……そうだ、死ねばいいんだ!」
甲斐は突然、そんな突拍子もない言葉を口走るや否や、一目散に部屋から駆け出していった。別に彼の頭がおかしくなったわけじゃない。昼間、チーターに殺されて何度も死に戻りしたことを思い出したのだ。
この世界では、自分が死んだら時間が巻き戻る。なら、妹が消える前にも戻れるんじゃないか?
そう思った彼は家を飛び出すと、眼の前のコンビニのあるビルに駆け込んだ。店の方ではなく、その横にある階段から上へ上へ、そして最上階まで上がると屋上を仕切る手すりを乗り越え、躊躇なくその縁から真っ逆さまにダイブした。
死は怖くなかった。昼間何度も死んだからでも、ここがゲームの中だからというわけでもない。妹が居ないのに、一人で生きていくことの方が苦痛だったのだ。
ドスン! っと自分が叩きつけられる鈍い音が聞こえて、彼は衝撃を感じる間もなく死んだ。そして間もなく魂が肉体を抜け出し……
暗転。
次の瞬間、彼は自分の部屋のベッドに腰掛け、床をじっと見つめていた……
辺りは薄暗く、殺風景な部屋には人の気配が感じられない。今は何時だ? と時計を見れば、時間は確かに巻き戻っていたが、それはほんのちょっとでしかなく、妹が消えてから既に数時間が経過していた。どうやら甲斐が死んでも、それほど前までは戻れないようだ。
「ちっくしょおおーーーーっっ!!」
甲斐は悔しさのあまりドンッと壁を蹴り上げると、その痛みにまたカッとなってもう一発壁を殴りつけそうになったが、辛うじて踏みとどまると、興奮を抑えるように鼻で深呼吸をしてから、ドスッとベッドに腰を下ろした。
今は自分を痛めつけている場合でも、怒ってる場合でもない。なんとかして妹を取り戻さなければ……しかし、どうすればいい? 方法はすでに出尽くしているような気がする。あとは彼女が運良くリスポーンするのを待つしかないのか。
他に出来ることは何もないのかと手持ち無沙汰に荷物を漁っていると、携帯電話を持ってないことに気がついた。そういえば、昼間の騒動で紛失したままなことを思い出し、また部屋から飛び出した。携帯には妹の連絡先も入ってるはずだから、もしかして繋がるんじゃないかと思ったのだ。
大通りには24時間の携帯ショップがあって、事情を話すとすぐにSIMを再発行してくれた。代替機種を店で手に入れ、オンラインでパスワードマネージャーを起動する。初期化が終わると、アドレス帳に妹の名前を見つけてホッとしたが、
『お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません』
安堵したのもつかの間、そんなアナウンスに心を挫かれた。
いよいよ追い詰められたかと焦りながらアドレス帳を探っていたら、全然見たことがない名前がいくつかあった。こっちの世界に来てから、自分で登録した記憶はないし、妹が入れていたものだろうか?
誰だろう? と思って調べてみたら、着信履歴にその見知らぬ人物から何件も電話が掛かってきていた。それも今日の昼頃から、ついさっきまで……それを確認した瞬間、
ピリリリリリ……ピリリリリリ……
と、耳障りな着信音が聞こえてきた。ディスプレイには、『石川』と表示されている。その見知らぬ連絡先の一つだった。名前に覚えはなかったが、もしかすると妹のことを知っているかも知れない。
「……もしもし?」
「あ! てめえ! 甲斐か!? やっと出やがったな、こんちきしょう!」
期待して電話に出ると、いきなりものすごい怒声を浴びせられた。甲斐は耳を遠ざけて相手の興奮が冷めるのを待ってから、
「あなたは? 僕になんか用事ですか?」
「はあ!? ふざけてんのかよ!? てめえがてめえで指定した待ち合わせをぶっ千切りやがったんじゃねえか、この野郎! 殺されてえのか!? あ!?」
その威圧的な態度と説明的なセリフで大体のことは察せられた。どうやらこの男、昼間渋谷で待ち合わせをしていたヤクザのようだ。
「もしかして、石川さんって高井組の方ですか? 昼間、仕事の面接のためにハチ公前で待ち合わせした」
「バカ! てめえ! 株式会社高井っつってんだろ、ハゲ。そんなヤクザみたいな名前で呼ぶんじゃねえ馬鹿野郎、この野郎!」
呼び方が気に入らないのか、男は不機嫌そうにキレ散らかしている。自分でヤクザと言っていたら意味がないと思うのだが、
「す、すみません。何分、立て込んでたもので……」
「何が立て込んでただ、ざけんじゃねえ。それで連絡も寄越さず約束破るやつが居るかよ! こちとら、どんだけ待ってたと思ってんだ、くそがっ!」
「いや、そりゃ申し訳ありませんでしたが……妹から連絡はなかったんですか? したと思ったんですけど」
「はあ……? てめえに妹なんて端から居やしねえだろうが、何とち狂ってんだ」
「妹ですよ!? 妹のりあむ!」
「あ? おめえ、本気でボケちまったのか? つーか何だそれ、人の名前か?」
「そんな……それじゃ誰があなたと待ち合わせの約束をしたって言うんですか?」
「誰って、おめえ……そんなの、おめえに決まってんじゃねえか。なあ、ホントどうしちゃったの? 俺のことおちょくってるの?」
多少は覚悟していたが、甲斐はその言葉に心を抉られた。元々、甲斐は仕事の依頼の管理を妹に任せきりだった。だから彼とは今初めて喋っているはずなのだが、相手はこっちのことをずっと前から知っている様子である。
どうやら、石川という男の中では、妹は存在自体が無くなってしまっているようだ。それで辻褄合わせに、おかしな記憶が上書きされているのだろう。この世界と同様に……甲斐は尚も、藁にもすがる思いで尋ねた。
「そんな……りあむですよ、りあむ。そんな名前の妹が居たでしょう?」
「知らねえよ。何いってんださっきから、おめえよう? まさか狂ったフリして俺のこと煙に巻こうとしてんのか?」
「違いますよ。僕はただ、妹の行方を探してるだけで……本当に知りませんか?」
「あー、もう。何なんだよ……わかったよ。わかった! 別にもう怒ってないから、普通に喋れよ……くそっ、変な腹芸覚えやがって」
「いや、僕は本当にそんなつもりは……」
石川は、甲斐が狂ったフリをしてると決めつけているのか、こちらの声を遮って、
「とにかくだな! おめえが待ち合わせに来ねえから、俺もどんだけ怒られるか覚悟してたんだけどよ……帰ったら意外にもオーナーが興味を示してな。おめえ、何か事件起こしたんだって?」
「え……?」
「スクランブル交差点で、おまえ何したんだ? 高井オーナーが話聞きたいからすぐ来いっつってんだよ。なあ、暇だろ? 来れるか?」
オーナーというのは、つまり組長と言うことだろうか? そんなのに会いたがる人間など居るわけがない。それに今は妹のことが気になって仕方がない。甲斐はため息を吐くと、少し早口に、
「すみませんが、今日のところは勘弁してくれませんか? 話を聞きたいってんなら、また後日お伺いしますので」
「はあ!? おめえ、正気か!?」
「今は妹のことで手一杯なんです。彼女が見つかったら、一緒に謝り行きますから……」
「あ! おい! てめえ、ふざけんなっ!!」
甲斐は相手の返事を聞かずに強引に電話を切った。すぐに着信が来たが、相手にせずサイレントモードにしていたら、そのうち諦めたようだった。
ともあれ、これからどうしたものか……石川の話じゃ、甲斐には妹など初めから存在していないようだった。部屋の状況からしても、彼女を示唆するものは何も見つからない。オンラインに何か残ってないか調べたいところだが、その手の調べ物はそれこそ彼女に任せていたから、何から手を付けていいのか分からなかった。
後やれることといったら、アドレス帳にある見知らぬ電話番号に片っ端から電話をかけることくらいだろう。あまり期待は出来ないが、何もしないよりはマシだと思い、甲斐は手当たり次第に電話してみた。相手の殆どは知らない人物ばかりだったが、中には盗難車を卸している川崎の自動車工場の社長などの知り合いもいた。どうやら、これらの連絡先は殆どが仕事絡みのもののようである。
尤も、そんなことが分かったところで、今はどうしようもないだろう。やがてアドレス帳の番号も尽き、もう何でもいいから何かないのか……? と、顔が真っ赤になるくらい、頭をフル回転している時だった。
突然、ドンドンドンッ!! っと乱暴にドアが叩かれ、
「おいっ! 甲斐! てめえ、このやろ! いるんだろっ!!」
外から男の怒鳴り声が聞こえてきた。
聞き覚えがあるそれは、恐らくさっき電話で話した石川の声で間違いないだろう。まさか住所まで知られていたとは知らず泡を食う。こんな犯罪だらけの街で個人情報を漏らすなんて、迂闊すぎるとは思ったが、そもそもどうやって知り合ったのかすら分からないのでは仕方ないだろう。
取りあえず、今はヤクザの相手をしている場合ではない。とはいえ、部屋の中には逃げ場がないので、なんとなく窓際に寄っていったら、
「兄貴! 野郎いますぜ!!」
外で張っていた子分らしき男が、こっちを指差しながら怒鳴り声を上げた。それを聞いたドアの向こうの男は、
「おい。聞こえてるな? ……あと一分だけ待ってやる。さっさと開けろよ。さもないと、ここをぶち破るぞ?」
今までさんざん怒鳴り散らしていた男が急に態度を豹変させたのは、いよいよ怒り心頭といった感じだろうか。恐らく、ドアを開けても怒るだろうし、開けなくても怒るだろう。甲斐はなんだか面倒くさくなって、ベッドにダイブすると、そのまま目を閉じた。
「ステータス!」
彼がそう叫ぶや否や、瞼の裏にステータス画面が表示され、それと同時に周囲の雑音は全く聞こえなくなった。正直なところ、この状態にしたところで、時間が止まっている保証はないが、そんなのはもうどうでもよかった。仮に怒り狂った石川に殺されたとしても、単に巻き戻るだけなのだ……
ここはゲームなのだ。自分の評判など、気にする必要なんてまったくない。その上、自分の命も気にしなくていいのなら、恐れるものなど何もないではないか。大体、犯罪を楽しむだけの世界に世間体もクソもあるものか。
なんなら、今すぐドアを開けて石川にファイヤーボールをお見舞いしてやったらどうだ? 多分、彼は消し飛ぶだろう。そしてまた新たな石川がどこかにリスポーンするだろう。もしくは、彼に謝り倒して、オーナーとやらに会いに行ってもいい。だけど、そんなことをして何になる? 口八丁手八丁で上手いことやって、ヤクザと仕事をして、金をたんまり貯めて、ついでにこの世界の秘密を探って、いつか元の世界に戻れたとしても……
そこに妹は、もう居ないのだ。
甲斐は、自分の中で彼女の存在が、こんなにも大きくなっていたことに驚いていた。確かに彼女は、自分の好みど真ん中だったし、初めて抱いた女の子でもあったし、参っていた時は慰めてくれたし、明るくて可愛くて、いつもそばに居てくれた。
でも所詮NPCなのだ。
人間じゃない。
そういう風に作られた、ただのAIなのだ。
その彼女が居なくなったからと言って、こんなに落胆するだなんて、馬鹿げているではないか。代わりはいくらでもいる。さっさと忘れてしまえばいい。それだけの話だ。なのに……
「なんで、こんなことになっちゃったんだろうなあ……」
彼はため息交じりにそう呟くと、メニューのシステム欄を開いた。妹を見つけるために色々試してはいたが、まだやっていないことが一つだけあった。ログアウトだ。
恐らく、現実世界の甲斐はもう死んでいる。だから肉体の無い世界に戻ろうとしても上手くいかないか、最悪の場合、消滅してしまう危険性もあるだろう。だが、仮にあっちに戻った拍子に消滅してしまったとして、何の問題があるだろうか? どうせ、元から死んでる身ではないか。
思えば、保険屋にドナー登録を迫られた時も、自分の臓器を提供することには何の抵抗も感じなかった。別に死んでもかまわないと、そう思っていた。あっちの世界に未練も無かった。馬鹿な父親と、どうしようもない母親の面倒を見るくらいなら、もう死んでしまいたいとすら思っていた。ただ、その結果、彼らに保険金が下りるというのが癪だったのだ。彼らがいい思いをするのが悔しかった。単にそれだけのことなのだ。
それでこのゲームの世界に留まって、彼らを糾弾する方法を見つけたところで何になるというのだろうか? どうせ、死後の世界に金は持ってはいけないのだ。嫌いな奴が得をするというのは確かに不快だが、そのために生き返って、例えば訴訟とかして、またあいつらと付き合わなければならないことを考えれば、そっちの方がよっぽど苦痛じゃないか。
命を永らえることには、さしたる興味はない。仮にこのままこの世界で生き続けたとしても、何の目的も持たずに漫然と暮らしていくだけだ。そこにはもう、愛すべき妹はいない。唯一の家族であった、弟もいないのだ。
現実でも、ゲームでも……自分はもう孤独なのだ。
それなら……! 甲斐はログアウトのボタンを押した。
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ぐるぐると渦を巻くように視界が歪んでいく。ピーっと耳鳴りのような音が聞こえて、徐々に思考が薄れていく。すべての色が溶け込んでしまって、灰一色になってしまったら、ぼーっとする頭のどこかで、懐かしい女性の声を聞いた。
マイア……マイア……
その声には聞き覚えがあるのに、名前の方は覚えがなかった。それに、彼女は甲斐のことを呼んでるわけじゃないこともわかった。彼の隣にはもうひとり誰かがいて、ぼーっと近寄ってくる女性の姿を見上げていた。
女性はでっかいクマのぬいぐるみを抱きかかえていて、隣の少女にそれを差し出した。クマはつぶらな瞳で少女に向かって、ごきげんようと話しかけてきた。それを見て少女が嬉しそうにクマにしがみつくと、甲斐は不機嫌そうに顔をそむけて、僕はそんな子供みたいなのいらないと言った。女性は困ったような顔をしていた。
ぐるりと視界が歪み、場面が切り替わる。
体は熱を帯びていた。全身が痛くてピクリとも動かない。ひどい吐き気がするのに、もう何度も吐いていて、出すものがなかった。苦痛と呼吸困難に苛まれて、頭は痺れてぼんやりしており、血管がバクバクと脈打つ音が、耳元で暴れ狂っていた。
鈍痛が腹部に走り、また吐き気をもよおす。見上げれば悪鬼のように目を血走らせた男が彼のことを見下ろしていて、巨大な足が近づいてきたとおもったら、鼻が折れて歯も折れた。あまりの痛みに泣き声も上げられず、酸素を取り入れることに全神経を集中していなければ、いつ死んでもおかしくなかった。
頭の上で男女の言い争う声が聞こえる。殺しちゃいけないわ。殺しちゃいけないわ。バレたら大変だもの……それに、この子にだって使い道がある。お金にならなくっても、まだ使い道がある。それは必死の懇願と言うよりも、何かに怯えているような声だった。殺しちゃいけない。殺しちゃ……そんな言葉を聞きながら、徐々に薄れていく思考になすすべもなく、彼は意識を失った。
暗転し、また場面が切り替わる。
弟の目が嫌いだった。何もかもを見透かしていそうな、その意思の強そうなでかい目が。だから何度も潰してやろうと思った。そうして弟を叩いている時、父親に見つかって倍返しされた。壁に激突して、腕の骨にヒビが入って動かせなくなった。なのに彼らは絶対に病院に連れて行ってくれない。病気になると死活問題だから、いつも健康に気を配っていた。おまえはこの家の子じゃないからと言われ、彼らが3人で外食している間も、暗い部屋の中でごめんなさいごめんなさいと許しを請うていた。
何が彼をそこまで生に執着させていたのだろうか。幼少の頃の記憶はいつも苦痛に満ちていた。生きていれば苦しみから逃れられないというのに、どうして人は死を恐れたりするのだろうか。苦しみを受け入れるほうが、死よりもマシだなんてどうして言えようか。
視界が幾度も幾度も切り替わる。父親に理不尽に殴られたと思ったら、うつ病になった母親の不安を浴びせられて気分が滅入る場面に変わり、弟に喧嘩で初めて負けて恐怖に怯えたり、その弟に優しくされてプライドを傷つけられたり……そんな記憶が何度も何度も繰り返し流れる。
これは走馬灯なのだろうか? だとしたら、ようやくこの世から解放されるのだろうか。死亡宣告されてから、ずいぶんと長いロスタイムだった。思えばつまらない人生だったが、だからこそ未練なく逝けるというものだ。
甲斐はそんなことを考えながら、流れ行くいくつもの光景をさして感慨もなく眺め続けていた。
と、その時だった。
突然、カチッと電気のスイッチを点けるような音がしたと思ったら、今度はカラカラとリールの回るような音が聞こえてきて、何かの映像が目の前のスクリーンに投影された。それはまるで、夢の中で映画を見ているようだった。フリッカーがちらちらと明滅し、時折ノイズの黒い線が上下に走る。
今までと雰囲気が違う光景に、何が起きたのだろうかと思っていると、突然、そのスクリーンの中央に、見知らぬ若い日本人男性が映し出された。まったく見覚えのないその男が、画面のこちら側に向かって語りかけているのだが、しかし上手く聞き取れない。
マイアさん……おっしゃる通り、僕は彼の居場所を知って……そうするしか、あなたを救う方法が無かっ……僕とあなたは確かに親に決められた……けれど今は……信じてもらえませんか? どうしても……助けたかったのです……だから……心臓を……
男はこっちに向かって必死に何かをアピールしている。しかしその内容がさっぱり飲み込めない。そもそも、この男は誰なのだ? これが走馬灯だとしたら、なんでこんな記憶が存在するのだ?
そう思っていると段々分かってくる。どうもこの映像は甲斐ではなく、別の誰かの記憶のようだ。そして男が懇願しているのは、その視界を共有する誰かに対してのようだ。しかし、それが分かったところで、なんの意味があるのだろうか? どうしてこんなものを見せられているのだろうか?
と、その時、映像が小刻みに上下したかと思うと、スクリーンに映る男の姿が徐々に大きくなっていった。それは彼が近づいてきたのではなく、この視界の持ち主が歩き出したようだ。男の姿が大きくなるにつれて、彼の表情はどんどん険しくなっていく。
彼は一体何に怯えているのだろうか? そう思ってると、突然、視界の持ち主が何かを確認するかのように、一瞬だけ映像が素早く下の方へブレた。その瞬間、何かキラリと光るものが映ったと思ったら、次の瞬間、映像の下の方からニュッとナイフを握った腕が伸びてきて、いきなり目の前の男の首筋にそれを突き立てた。
焦った男が首筋をガードしながら必死に逃げるも、殺戮者は容赦なくその背中を追いかけ、二撃目を男の首に突き立てる。ビクビクと痙攣する男の体から血が吹き出して、周囲の殺風景なコンクリート壁をどす黒い血で埋めていった……
「……ちゃん……いちゃん……」
なんだこの記憶は……? 自分は、誰の記憶を見せられている?
「お……いちゃん……お兄……ってば……!」
こんな世界に来ておいて、一度も殺人を犯したことがないなんて言うつもりはない。昼間のチーターは確実に殺したという手応えがあったし、他にもドライブ中に轢き殺してしまったNPCがいくらでもいるだろう。だが、こんな生々しい記憶はなかったはずだ。
一体、これは何なんだ……? 誰の記憶なんだ?
「お兄ちゃん! 起きてってばっ!!」
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ガツンと後頭部に強い衝撃が走って、頭の中で火花が散った。目を開けると世界がグルンと回って天井が左後方へと流れていった。腰を強かに打ち付けて一瞬息が止まる。何が起きた? 何が起きた? 徐々に覚醒する視界には、見覚えのあるホコリまみれのフローリングが映っている。このカビ臭い部屋の雰囲気は……どうやら、寝ていたパイプベッドから転げ落ちたらしい。
ハッとして飛び起きるや否や、甲斐は部屋のドアを確認した。てっきり、ステータス画面を見てる間に、ヤクザに侵入されたのかと思ったが、予想とは違ってドアはピッタリと閉じていた。
それじゃどうしたんだろう? と思って部屋に視線を泳がせたら、壁に寄せてあった鏡の中に映った自分の姿に目を疑った。そこには胸毛もすね毛もギャランドゥの強面の男が映っていたのだ。それは甲斐の姿ではなかったが、見覚えはあった。この世界始めてきた時、彼が使っていたアバターだった。
どうして、またこいつに戻ってしまったんだ? と思った時、彼は更に信じられない光景を目にした。
鏡の前に座って自分の顔をペタペタと触っていたら、上の方からその様子をじっと覗き込む少女の姿が見えたのである。
赤い瞳に不思議な光沢を持つ金色の髪。腰まであるサラサラの髪はシルクみたいに細くて、先っぽがクルンとカールしている。目鼻立ちはくっきりしており、大きな瞳の上にはキリリと整った眉毛があり、肌は病的に白く、手足はスラリと伸びてナイスバディだ。
「お兄ちゃん、どうしたの? 寝起きに自分の顔見てうっとりするなんて、ナルシストなの?」
「りあむっ!!」
甲斐は飛び上がって振り返るなり、そこでぽかんと佇んでいた妹の体をギュッと抱きしめた。彼女はいきなりそんなことをされるとは思ってもみなかっただろう、
「わわっ! ちょ、ちょっと、お兄ちゃん!? 痛いよ、痛い!」
耳元で彼女の苦痛にあえぐ声が聞こえてきたが、そんなことを気にかける余裕も無く、甲斐は彼女の体を抱きしめながら、小刻みに震えていた。
いつの間に、こんなに彼女に依存していたのだろうか。いなくなったと思っていた彼女が戻ってきてくれた。たったそれだけのことで、彼の心はどうしようもなく揺れていた。
そんな彼の不安を感じ取ったのだろうか、妹は怪訝そうな瞳で問いかける。
「どうしたの? お兄ちゃん……朝からもよおしちゃったの? えー……妹としてもそんなお兄ちゃんと愛し合うのはやぶさかでないのだけど。今日は予定が押してて余裕ないんだよね」
「……君はホントに……見かけと違って野獣のような妹だね」
甲斐がそう呟くと、妹はうぇっへっへっとおっさんみたいな笑い声を漏らして、彼の胸に指先でのの字を作った。その仕草がまた可愛くて、彼は彼女のことをまた奪うように、ぎゅっと抱きしめていた。




