第85話 ピンク色のなにか
南の島の旅行から無事に帰って来た。
当初心配していた浩司の体力も問題なく、最後まで楽しめたようだ。祭りの後のような何となく名残惜しい気持ちを引き摺りながら、また日常へと戻って行く。
桜子は家に帰って来てから気付いたのだが、彼女をナンパから助けてくれて、夕日を見ながら慰めてくれた恩人の連絡先を聞いていなかった。
桜子には年上の青年と仲良くなった経験が無かったので、もしも自分に兄がいたらあんな感じなのかと思って、父親とも同年代の男子とも違う少し大きな存在として年上の男性も良いものだと密かに思うのだ。
あのダイビングショップに電話をすれば土屋の連絡先を聞くことも出来るのだろうが、恐らくあの青年とはこの先会う事はないだろうし、何もそこまでする事も無いだろうと思ってそのままにすることにした。
浩司は少しずつ仕事に復帰し始めた。
まだ体力的に一日中動く事は無理なのだが、午前中の店番と発注作業、品出しくらいなら何とかできるので、浩司の希望もあって楓子はそれらを任せることにした。
まだ体力が戻っていないので、浩司はゆっくりと休みながら働いているのだが、それでも楽しそうに生き生きと仕事をする姿を見ていると以前の元気だった頃に戻ったような気がする。
最近は浩司の食欲も戻って来たし仕事自体がリハビリのようなものなので、いずれ近いうちには以前同様に仕事ができるようになればいいと思うのだが、今後がんが進行すると、体に痛みが出て来ると言われているので、楓子はその事が気がかりだった。
8月中旬。
健斗の柔道の県大会が始まった。
今年も健斗は個人55キロ級に出場することが決まっていて、すでに桜子が応援に行くことになっている。リーグ表を見ると、昨年の因縁の相手松原剛史とは、順調に勝ち抜いていくとまた決勝戦であたることになるのだが、今年の組み合わせは去年に比べると厳しい相手が多く、決勝にたどり着くまでにも苦戦が予想される。
それでも去年の骨折事件以降は以前にも増して厳しい練習を積み重ねて、前から定評のある驚異のスタミナはそのままに、さらなる馬鹿力と技術を磨いて来たのだ。健斗のストイックなまでの柔道にかける思いと自らに課す厳しい練習を、同じ部活の仲間たちはずっと近くで見てきたので、これで優勝できなければ嘘だろうという思いだ。
それと同時に、なぜこんな柔道しか知らないような柔道馬鹿に桜子のような超絶美少女の彼女がいるのか未だに不思議に思って、その事実に世の中の理不尽さを嘆いていた。
去年はS中学柔道部創設以来初めての決勝進出を果たした健斗だったが、決勝で松原剛史に瞬殺されて以来、健斗は剛史を倒す事しか考えていない。
去年剛史と組み合った時には、自分がどんな技を掛けられて、どうなったのかさえ憶えていないほどの、圧倒的なまでの技術の差を思い知らされたのだ。
正直、この一年でそこまで剛史との差が縮んだとは思えないし、恐らく圧倒的な技術の差は未だに顕在だと思うのだが、自分はそれを時間いっぱい凌ぎ続けるためのスタミナと馬鹿力を一年かけて磨いて来たのだ。それを信じるしか道はなかった。
桜子は今回も一人で応援に来ていて、健斗の好物を詰め込んだ弁当も持参している。
開会式が終わると、2階の観覧席で見ていた桜子が1階の試合会場に降りて来て健斗に激励の言葉をかけた。
「健斗、頑張って!! まずは初戦の事だけ考えて!!」
「あぁ、大丈夫。お前の顔を見たら、緊張もほぐれて来たよ」
「よかった。あっ、そうだ、ちょっと耳を貸して」
「えっ!?」
そう言われた健斗は、去年はこのタイミングで耳元で桜子に「ぶっ殺す」と言われた事を思い出して一瞬肩が震えたのだが、間近で見る彼女の青い瞳には不穏な気配は微塵も感じられなかったので、大人しく言う通りにした。
健斗が若干緊張した面持ちで待っていると、桜子は徐に正面から近付くと、そのまま健斗の耳に唇を近づけてきたのだが、薄く紅色に染まった小さくて可愛い唇を間近に見た健斗は、思わずゴクリとつばを飲み込んでいる。
桜子はそんな健斗の様子に気付く事なく、まるで母親が最愛の子供に注ぐように優しく目を細めながら、耳元で小さく囁いた。
「大丈夫、あなたなら勝てる。自分を信じて」
彼女の可愛らしいささやき声と温かい吐息が耳に触れた途端、健斗の背中を何かゾクゾクとした物が走り抜けて思わず声が出そうになった。それでも何とか我慢して何気に視線を下に向けると、そこに驚愕の世界が広がっていた。
桜子は今でも健斗より4センチほど背が高く、桜子が健斗の耳に囁くためには必然的に少し前かがみになる。そのせいで桜子のノースリーブの服の胸元が大きく開いてしまっていて、健斗の目には艶めかしい豊満な胸の谷間から可愛らしいピンク色のブラジャーまで、彼女の服の中が丸見えになっていたのだ。
その光景に目をくぎ付けにされたうえに、さらにさわやかなシャンプーの香りと桜子自身の匂いで頭がクラクラになった健斗は、最早柔道の試合どころではなくなっていて、せっかく囁いてくれた桜子のおまじないも、健斗の耳には入っていなかった。
健人が体の奥から沸き上がる感情に懸命に堪えていると、桜子が目を瞑ったままゆっくりと離れたのだが、その顔には慈愛の表情が溢れている。
「えへへ、ちょっとしたおまじないだよ。あたしの水泳の試合の時に、先輩がよくしてくれたんだ」
「あ、ありがとう……」
礼を言う健斗の様子が何かおかしい事に気付いた桜子は、首を傾げて不思議そうな顔をした。
「ねぇ、どうしたの? なにかあった?」
「あ、あぁ、あった…… あったな、ピンク色の……」
桜子は健斗の返事を聞くと、余計に不思議そうな顔をしていた。
健斗と桜子が二人で話をしていると、突然背後から声を掛けられた。
二人が同時に振り向くと、そこには去年の因縁の相手松原剛史が立っていて、相変わらずのニヤリとした不敵な笑みを振り撒きながら二人に近付いて来る。その姿は自信に満ち溢れ過ぎていて、もはや太々しいとさえ言えるような態度だ。
「よう、お二人さん、久しぶりだな。お前たちは相変わらず仲がいいんだな、羨ましいよ」
そう言いながら警戒心の欠片もなく近づいて来る剛史に対して、健斗は昨年の喧嘩の様子を思い出すと桜子を背後に庇って咄嗟に体を半身にした。
その姿勢はすでに戦闘態勢になっている。
「おいおい、なにもそんなに警戒しなくてもいいだろう。今日はちょっと謝りたくて来たんだよ」
「謝る……?」
健斗が怪訝な顔をしていると、剛史は話を続けた。
「そう、去年は申し訳ない事をしたと思ってさ。試合での出来事とは言え、お前の腕を折ってしまったし、そこの可愛い彼女にもちょっかいを出したしな」
桜子は健斗の背後から顔を覗かせながら、剛史のその一言に去年の一幕を思い出していた。
あの時は剛史に急に迫られてとても怖かった。直後に健斗が助けてくれたのだが、その場で二人が喧嘩をしそうになって最後に秀人が出て来たのだ。
健斗が秀人に会ったのはあの時が初めてで、あの事件を切っ掛けに桜子の病気の事を明かしたのだった。
桜子がぼんやりとそんな事を思い出していると、剛史が彼女の方を向いて話しかけて来た。
「やぁ、桜子ちゃん。君は相変わらず可愛いね。俺は去年に君と出会ってからどうしても君の事が忘れられなかったんんだ」
「な、なんだと、てめぇ…… 謝りに来たんじゃなかったのかよ!!」
剛史の軽すぎる言葉を聞いた途端、健斗の目付きが鋭くなって不穏な空気が漂い始めたのだが、剛史はそんな事にはお構いなしに桜子を口説き始めた。
「そう言えば去年の返事をまだもらってないんだけど、どうだい、俺と付き合うっていう話っ!! おぶぅ!!」
途中まで話していた剛史が、まるで車にでも轢かれたかのように突然前のめりに吹き飛んで行くと、そのまま3回転ほど転がって壁に激突していた。
何の前触れもなくその様子を見せられた健斗たちは、あまりに突然の出来事に彼の身に一体何が起こったのかを理解できなくて、ただ唖然としている。
しかし、ふと二人が下を見ると、さっきまで剛史がいた場所に癖のある栗色の髪の毛をくしゃくしゃにして、スカートが捲り上がってパンツを丸出しにした状態で倒れている小柄な少女に気が付いた。
突然剛史が吹き飛んだ状況や、その少女の倒れた姿勢、脱げて吹き飛んだ靴を見ていると、どうやら思い切り助走を付けて剛史にドロップキックをしたようにしか見えなかった。
二人が呆然としていると、少女がパンツを見せて倒れたままで全く身動きをしないのを桜子が心配して慌てて駆け寄った。彼女は周りに下着が見られないように急いでスカートを直してあげながら、少女の背中に手を当てて声を掛けてみた。
「あ、あの、大丈夫?」
桜子に声を掛けられた少女が突然自分からガバっと起き上がって、そのまま猛然と壁際に倒れたままの剛史に向かってダッシュすると剛史の胸倉を掴んで激しく揺さぶり始めた。剛史の頭がガクガクと揺さぶられている。
「あんた!! なに他人の彼女にちょっかい出そうとしてんのよ!! あたしって者がいながらふざけんじゃないわよ!!」
仰向けに倒れたままの剛史は、少女に胸倉を掴まれて激しく頭を振り回されながら、引きつった笑顔で目の前の小柄な少女を見上げて何かを言おうとしている。
「ま、待て、ちょっと待て」
「あんたから付き合おうって言って来たくせに、なに速攻で浮気しようとしてんのよ!! 舐めんじゃないわよ、この女たらし!!」
「い、痛い、痛いって、やめてくれ、琴音、ごめん、悪かったって」
「あんた、そのセリフ何回目!? ちょっと可愛い女の子がいると、すぐに声かけるんだから!! この変態!! スケベ!!」
琴音と呼ばれた小柄な少女は、怒りの形相で剛史の胸倉をつかんだまま尚も叫び続けていた。
今は怒りで歪んだ表情をしているが、すましていればかなり可愛らしいだろうと思える程に顔つきは整っている。釣り目がちで眼光の鋭い目つきが印象的で、何か猛禽類を思わせる雰囲気を醸しているのだが、癖のある栗色のもふもふとした髪が可愛らしい印象を振り撒いていた。
恐らく身長は140センチそこそこしかないだろうと思われて、痩せて細くぺたんこな体つきも、まだ幼い少女を思わせて保護欲を掻き立てられる程にか弱く見える。
そんなか弱い彼女に頭をガクガクとされるがままに揺さぶられていた剛史だが、突然琴音の顔を両手で挟むと、顔を近づけて囁いた。
「なに言ってんだよ、社交辞令に決まってるじゃないか。俺が好きなのはお前だけだよ、言わせんな、恥ずかしい」
そんな剛史の囁きに琴音が急に顔を俯かせて、その鋭かった眼光からは徐々に怒りの色が消えていく。
「な、なによ…… そんな急に優しい事言ったって駄目なんだからね!! ゆ、許さないんだから、エロ猿……」
「お前が一番可愛いに決まってるじゃないか」
剛史の言葉を聞いて、琴音は顔を瞬く間に赤く染め上げていった。その様子を「ふふんっ」と鼻息を吐きながら眺めていた剛史は、背の小さな琴音の頭に掌を乗せながら耳元で囁いた。
「真っ赤になったお前も可愛いよ。俺にもっといろんな可愛い顔を見せてよ……」
そう言うと剛史は琴音の耳にチュッと唇を触れさせる。
ごんっ!!
次の瞬間、琴音の頭突きが剛史の顎に炸裂してしていた。
「な、なによ、この変態!! すけこまし!! セクハラ魔人!!」
琴音はその場でひとしきり喚き散らして最後に剛史の頬に一発ビンタを張ると、そのまま剛史の腕を引いて何処かへ連れて行ってしまった。
先程から威勢のいい声で喚き散らしていた琴音だったが、桜子と健斗の前を通り過ぎて行った時の顔には、満更でもない照れたような表情が張り付いていた。
剛史と琴音の強烈なやり取りを先程からずっと見ていた健斗と桜子は、思わず呆然とした顔でふたりを見送っていた。
「なぁ、世の中には色々な男女の付き合い方ってあるんだな……」
「そ、そうだね…… 色々あるんだね……」
「でも、なんか楽しそうだったな……」
「う、うん、楽しそうだったね、意外と……」
剛史と琴音は意外とお似合いなのかもしれません。




