第35話 もしも好きって言ったら
部活を終えた健斗が下駄箱で靴を履き替えていると、突然背後から声を掛けられた。こんな遅くまで残っている女子生徒はほとんどいないので、健斗が疑問を抱きつつ振り返ると、そこには立花友里が立っていた。
「健斗、今帰り? 一緒に帰ろうよ」
健斗と友里は桜子に次いで古くからの幼馴染だが、実際に二人だけになったことはほとんどない。彼女と一緒のときは必ず桜子もそばにいたので、健斗はこの状況に違和感を覚えた。
友里は部活動をしていない。だから遅くまで学校にいる理由はないはずなのに、どうしてこんな時間まで残っていたのだろう。しかもよく見ると、妙に思いつめた表情をしている。
もしかして、自分を待っていたのだろうか。
いや、しかし、なんのために?
健斗が返事もせずに黙っていると、友里が先に口を開いて答えを告げた。
「先生に用事を頼まれちゃってさ。気付いたらこんな時間になってたんだ」
どこか言い訳めいた彼女の話しぶりが気になったものの、健斗は敢えて素知らぬふりをした。
「そうか。じゃあ一緒に帰ろうぜ。もう遅いし暗いから、ついでに家まで送ってやるよ。お前の家、そんなに遠くないだろ?」
健斗の提案を聞いた友里が僅かに喜色を浮かべる。しかし彼女は、すぐに表情を取り繕って返事をした。
「うん、ありがと」
夕焼けを背にして帰宅の途につく健斗と友里。目の前の地面には二人の長い影が伸びていた。
自ら誘っておきながら、学校を出てから一言も話そうとしない友里に対して、本来無口なはずの健斗が痺れを切らして声をかけた。
「なぁ、先生に頼まれた用事って何だったんだ? こんな遅い時間まで残ってさ」
聞こえているにもかかわらず、なぜか友里は返事をしない。気になった健斗が窺い見ると、彼女は依然として思いつめたような表情をしていた。その様子を不思議に思った健斗は、抱えていた疑問を投げかけた。
「なぁ、お前なんか変だぞ。どうしたんだ?」
「……」
「なんか言えよ」
「……ねぇ、健斗」
「あ?」
「健斗は……桜子をどう思っているの?」
問いには答えず、友里は顔を前へ向けたまま質問を返した。その声は、普段の彼女からは想像もつかないほど小さなものだった。対して健斗もまた質問で返した。
「どうって……なにが?」
「あんたは……桜子のことが好きなの?」
「えっ?」
「だって、あんたたちっていつも一緒にいるじゃない。訊きたいんだけど、そういう感情抜きで一緒にいられるものなの?」
友里の顔に必死な表情が浮かぶ。それを見た健斗は、なぜ突然こんな質問をされたのかと思わず考え込んだ。
どう見ても、単なる興味本位で聞いているとは思えない。
その質問には何か特別な意図があるに違いない。
健斗は最初にその質問を適当にはぐらかそうと思ったが、友里の必死な表情を見てそうもいかないことを悟る。仕方なく、小さな声でゆっくり答えを告げた。
「あのさ、友里。俺の『好き』と、桜子の『好き』は、きっと違うんだよ」
「えっ? それってどういう――」
友里が思わず立ち止まる。釣られて健斗も足を止めたが、顔を反対方向へ向けたまま決して彼女の顔を見ようとしない。そして、そのまま言葉を重ねた。
「そもそも俺は、あいつを独り占めできるなんて思っていない。できないことだってわかっている。なのに、そんなこと言えないだろ。だから俺は今のままでいいんだ」
「それって、つらくないの?」
「あぁ、つらいさ……苦しいよ。だけど、俺にはどうすることもできないからな……」
苦しそうに言葉を絞り出す健斗の顔は、真っすぐに正面を向いたままだ。その瞳は、どこか遠くの見えない何かを必死で探しているように見えた。
その彼へ、友里が一言だけ返した。
「そう……」
「……」
健斗の沈黙によって会話が途切れてしまい、話を続けるきっかけが見つからないまま二人は地面を見つめて歩き続ける。それからしばらく後に、友里が再び口を開いた。
「ねぇ」
言いながら振り向いた友里の顔には、変わらず思い詰めた表情が浮かぶ。それを健斗が正面から見つめた。
「もしも……もしもさ」
「……」
「わたしがあんたのこと……好きって言ったらどうする?」
「えっ……?」
健斗はその言葉の意味を咄嗟に理解できなかった。しかし直後に、驚きのあまり目を見開いてしまう。
友里の薄く茶色がかった瞳が濡れているのを見て、健斗は言葉を失い黙り込む。その沈黙の中、友里が再び口を開いた。
「わたし……あんたが桜子をどう思っているのか知ってる。だけど、それでも好きって言ったらどうする?」
動揺した健斗が表情を硬くする。このタイミングでそんなことを言われるとは思ってもいなかったし、今まで彼女のことをそのような対象として見たことも考えたこともなかった。
しかし彼女が嘘や冗談を言っているようには見えなかったため、適当に返事をすることは躊躇われる。
どう答えればいいのかわからず、口を何度も開けたり閉じたりした後に、やっとの思いで健斗は言葉を絞り出した。
「ごめん友里。俺は、桜子のことが――」
今まで誰にも明かしたことのない、秘めた思いを打ち明けようとした健斗だが、結局その覚悟は無駄に終わる。全てを話し終わる前に、友里が途中で言葉を遮るようにくるりと背を向け、一転して明るい声で話し始めた。
「なぁんてね、冗談に決まってるじゃん」
「えっ?」
「なにを本気にしてんのよ。バカじゃないの!」
「……」
「あんたがあの子に何も言わないから、背中を押してやろうとしただけじゃない。そのくらい察しなよ、バカ!」
「……」
叩きつけるような言葉に対し、健斗は何も言い返せない。その顔には狼狽えと戸惑いが混じった表情が浮かんでいるだけで、口からは何の言葉も出てこなかった。そんな彼へ友里が続けて言った。
「わたしの家そこだから、ここまででいい。ありがと」
健斗に顔を見せることなく、最後まで背を向けたまま友里が走り出した。立ち尽くした健斗は彼女の背を見送るだけで、最後までその表情を窺い知ることはできなかった。
遠ざかる健斗の気配を背に感じつつ、友里の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちる。嗚咽をこらえ、歯を食いしばったその顔は酷く歪んでいた。
◆◆◆◆
翌日の朝。登校してきた桜子がしょんぼりとした顔で教室に入っていくと、自分の席の前に立っている友里の姿が目に入る。気まずさを感じながらも、手を挙げて挨拶しようとしたそのとき、突然友里が大きな声を上げた。
「おはよう、桜子! 昨日はごめん、この通りわたしが悪かった!」
桜子が何かを言おうとする前に、友里が両手を合わせたポーズで駆け寄ってくる。桜子は気まずさと驚きが入り混じった顔をしていたが、それを見るなり笑顔に変わった。
「ううん、あたしこそごめん。急に怒り出したりして、悪かったと思ってる」
「あんたは悪くないって。あれはわたしが怒らせちゃったんだからさ。ほんとに、ごめん」
「いいよ、もう。過ぎたことだし」
勢いよく抱き着いた桜子と友里が笑顔で仲直りをしていると、それを見た舞と光が近寄ってくる。
「おはよー。二人とも、もう仲直りしたの?」
その問いに、友里はまるで見せつけるように力強く桜子と肩を組んだ。
「そう! わたしと桜子の友情は、あんなことぐらいじゃビクともしないのだ!」
「そうなのだー!」
顔に満面の笑みを浮かべた友里と桜子は、肩を組んだまま腕を空へと突き上げた。
給食後の昼休み。
舞がつまらなさそうに小声で呟いていると、それを見た光が横から声をかけてきた。
「マイマイ、なにをさっきからぶつぶつと……どうしたの? なんか変な顔してるよ」
「つまんない……捻じれて拗れた修羅場が見られると思ったのに……あー、つまんない……」
「……ねぇ、マイマイ、そういうの良くないよ。悪趣味だと思う」
「だって……本当につまらないんだもの……」
果たして何を期待していたのだろうか。
吐いた言葉の通り、舞の顔は心の底から面白くなさそうだった。




