川から上がってきた足音
96.川から上がってきた足音
それは渓流沿いのキャンプ場でソロキャンプをした時にあった話しだった。
その日は天気も良くて、俺は川から数メートルの平地にワンポールテントを設営した。季節が秋だったが、余り知られていない辺鄙な地にあるキャンプ場という事もあってか、周りに他のキャンパーは見当たらなかった。
日中から夜間にかけては、川のせせらぎを近くに感じながら楽しく過ごしてた。
夜の十一時頃になって、テントに潜り込んでシュラフに入ったが、その日は寝付きが悪くてなかなか眠れなかった。
周囲一帯は闇。虫の声と、延々と続く川の流れる音を間近に聞きながら、俺はボーと天井を見上げていた。
すると……耳に神経を集中させていると、数メートル先から何者かが川から上がってきた様な物音が聞こえてきた。
こんな真夜中の冷えた川から上がってくるなんて、獣以外には考えられなくて、俺は飛び起きて、また耳を澄ます。
ビチャ……ビチャ……ビチャ
濡れた足音がこちらに近付いてくる。しかし段々聞いてると、どうにもその足音が、二本足で歩行する人間のモノの様に思えて仕方がなくなってきた。それにこの辺りで獣を見掛けた事もほとんど無い。
ビチャ……ビチャ……ビチャ……ビチャ……ビチャ
ヒタヒタと濡れた足はこちらに近付いて来る。俺は真っ暗闇の中、手近に置いた懐中電灯をいつでも点灯出来るように握り締めた。
間近に迫った足音はやはり二足歩行の様で、やがて、ビチャ……ビチャ……と音を立てて、テントの周りを歩き始めた。
どうして川から人が上がってきた、なんでこのテントの周りを徘徊しているんだ、とパニックになった俺はテントの中で武器になりそうなナイフやらフライパンを握ったまま、恐怖でうずくまって動けなくなっていた。
こちらからテントの外に出ていく事も出来ずに、目的のわからぬこの人間が立ち去るのをずっと待ち続けた。スマートフォンは車に置いてきていたので、助けを呼ぶことも出来なかった。
どれ程の時が経ったのか緊張でわからなかったが、かなりの時間その足音はテントの周りを徘徊し続けていた。始め濡れていた足音は、途中からザッ……ザッ……と土を蹴る様な乾いた音になっていた。
しかしある時唐突にその足音は消えた。そうして程無くすると、テントの足元から光が漏れて入って来た。
時間の感覚がわからなくなっていたのか、もう夜が明けたのかと意外に思いながらも、テントの中に射し込んだ光を見て俺は少し強気になった。
さっきまでは恐怖でテントの外を覗いてみようなんて思わなかった癖に、だんだんとさっきの足音の正体を見極めてやろうという気になって来て、俺は手元の腕時計で時刻を確認するのも忘れて、すっかり夜明けだと思い込んだままテントの外にひょっこり顔を出していた。
「……え」
外は完全なる暗闇だった。月の光も弱く、何も見えなかった。
状況の整理がつかず、呆然と前を見据えていると……
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ!!
と正面から物凄い速度で、全身煤だらけになった真っ黒い女が駆けてきて、俺のひょっこり出した顔に、その煤にまみれた黒い顔を数センチの距離で突き合わせて来た。
「ァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっァっ」
奇怪な笑い声……
女の緩んだ口元から、黄ばんだ歯が何本か見えた。
俺はそのまま卒倒した。
気が付くと俺はうつ伏せで、テントから頭だけを出した形で目覚めていた。
辺りはすっかり朝の陽射しに満たされていて、川のせせらぎが聞こえる。昨日の事を思い出しながらテントの外に出てみると、俺の寝ていたテントの周りをなぞるように、土が浅く掘り返されていた。
それ以降俺は、ソロキャンプは卒業した。




