03 三年目(3)
勝って負けて、負けて勝ったを繰り返して、収拾がつかなくなりつつあった泥仕合も時間が来て後腐れなく終了した。
ただ、なにもかも上手くいったというわけではない。
「あーもう、全く! まだ一限目の体育が終わったばっかりだってのに、すっかりみんな泥まみれだよ!」
声を大にして叫んだのは、いつものごとく宗谷だ。顔まで泥にまみれているので、今回ばかりは彼にも同情の余地はある。
不満はあっても宗谷のように声を荒げるタイプでない主任は、泥だらけの現状に不満を述べるどころか一周回って肯定的である。
「おかげでもう服が汚れるのも気にせず、このまま昼休みまで思いっきり体育ができるからいいんじゃないか?」
これに相槌を打ちつつも、山原は本心では「どーだろ?」と言いたげ。
「でも、あれだよね。こんなにしちゃって洗濯が大変そうだね」
親元を離れて暮らす寮生活では、この学校の生徒たちは洗濯も掃除も自分たちでしなければならないのだ。
余計な仕事が増えた気のする宗谷は御手洗に恨みがましい目を向けた。
「……会長、次の時間からは泥まみれにならなくてもいい穏便な種目をやろう」
「全くだな」
これには反省も含まれているのか、実感を込めて御手洗が首肯した瞬間だ。
すかさずサバイバル中毒の佐波が名乗りを上げた。
「じゃあ、みんなでレンジャー訓練でもやるか」
「じゃあってなんだ、レンジャー訓練ってきついぞ! 昔もそうだったらしいが今はなおさら地獄だぞ! 泥だらけどころか、本気でやったら全身が傷だらけになるだろ! 佐波はほんと常識ないんだから黙ってろ!」
怒っているのか笑っているのかわからないテンションで宗谷が佐波に駄目出ししていると、今度は不良の朽木が御手洗に向かって叫ぶ。
「御手洗会長、バスケがしたいです!」
「できれば外でできる種目を言ってくれ。体育館はあるけどバスケット用のゴールが壊れてて使えないんだよ、うち」
順番を待っていたというわけではないにせよ、次に騒ぎ立てるのは山原である。
「だったらさ、みんなでウォーキングやろうよ!」
「それ散歩だろ! 横文字にすればスポーツになるなんて思い上がるな!」
すると今度は宗谷に向かって、いい機会だからと御手洗が問い返す。
「そう言う宗谷は何がしたいんだ?」
「俺か? そうだな、サッカーとかでいいんじゃないか?」
そっけない答えを聞いて山原が不平を漏らす。
「うわ、ふっつー」
「つまらん、お前の提案はつまらん」
吐き捨てるように朽木が追従した後で、今年度から適当主義に走った主任もやれやれと首を振る。
「それにしても本当に宗谷は無難なことばっかだな。小うるさいわりに普通だ」
「ガクッと来た。お前らって俺には絶対零度のごとく冷たいよな、ほんと」
芝居がかって涙ぐんだ宗谷が大げさに肩を落としたところで、まとめ役の御手洗は苦笑して声を上げる。このまま無駄な言い合いをしていても得るものはない。
「しょうがないな。他にやることないし、ここはサッカーということにしよう」
「そうだね。宗谷の意見だっていうのが唯一の欠点だけど」
「へいへい、それ以外に欠点がないなら俺どんなだよ」
山原の一言にふてくされたように宗谷が反応して、二限目以降の体育はサッカーに決定されるのであった。
それから体育の時間を三つ経由して迎えた昼休み。
「なわー、やっと昼休みだぁ! でも本当にきつかったよね、今日の体育は。朝からみんなハイテンションなんだもの。低血圧いないのかよ~って、さすがに思った」
「まーな。でも今日は午後からも体育じゃなかったか?」
すっかり疲れた様子の山原と宗谷が教室の片隅で会話をしていると、それを聞いていたリオが机に突っ伏した。
いかにもうんざりといった様子だ。低血圧かもしれない。
「まる一日ずっと体育っぱなしだと、さすがにダレるわねぇ……」
「僕も疲れた。結局ずっと汚れた体操服で過ごしちゃったし……」
「そうだよな。あんまり教室を汚さないようにしないと、今日の掃除がきつくなるぜ?」
意外に掃除は真面目にやるタイプの宗谷が忠告したところで、ガラガラと扉が開く音がした。
これまた疲労した様子で御手洗が教室に入ってきたのだ。
生徒会長としての連絡があると言って、教室にいる全員の注目を集めた。
「おいみんな、運営委員会からの緊急連絡だ。都合により、午後の授業は体育から変更することになった」
「そいつは本当か?」
「さすがに初日から体育ばっかりは問題だろ、やっぱり」
宗谷の問いかけに御手洗は言いにくそうに答えた。生徒会長としても、クラス全員をくたびれさせた責任を感じているのかもしれない。
これには不良を自称する朽木が偉そうに腕を組む。
「ことごとく賛同するが、もっと早く気づけよ。判断が遅い! おっそーい!」
「朽木に同意するのも癪だが、たしかに対応が遅い。これだから上の連中はサバイバルの極意を知らんのだ……」
佐波のつぶやきが聞こえたかどうかはともかく、矢面に立つ羽目になった御手洗は悪びれることなく話を先に進める。
「そういうことで、主任。後の進行はお前に任せた」
これにて役目は終わったとばかり、御手洗は近くの席に座っていた主任の肩を叩いて、そそくさと自分の席に戻る。
「せっかく新しい時間割が決まったと思ったのに、初日から早速変更とはなぁ……」
リーダーの側近でもある生徒会長に任されたからには仕方ないと、ぼやきながら主任は面倒くさそうに教壇へ向かう。
無理をせずほどほどに生きるという彼の目標は、なかなか上手くいきそうにない。
「んー、たぶん新しい時間割は明日までに学年主任の俺が作り直す羽目になるんだろうが、とりあえず今日の午後の授業は、お前らがやりたいものをやることにしたらどうだろう。俺はそれがいいと思う」
ほとんど投げやりである。
黙っていられない人間である宗谷がクラスのみんなを代表する。
「俺らがやりたいものって、何でもいいのか?」
「授業になりさえすればな。ただし、ちゃんと教えられるやつがいるものに限るぞ」
「それじゃ理系は全滅じゃないか?」
自虐も入った宗谷の言葉に御手洗が付け加える。
「文系だって十分怪しいけどな」
「あー、意見のあるやつは挙手で頼む」
主任が条件をつけると、すぐさま手を挙げる積極的な反応があった。
「ほい!」
「お、佐波か。何かいい案があるようだな?」
「サバイバル術の研究とか、どうだろう?」
「うむ、実際にやってみてから考えよう。どうせ時間はたっぷりある」
やけくそ気味にそう言うと、教師の役目を入れ替わるようにして教壇に佐波が立った。
「それでは早速、食べられる野草について解説していくわけだが――」
と言って、早速授業を始めるつもりらしい。
だが、クラスの反応を無視しつつあった佐波に御手洗がストップをかける。
「待ってくれ、佐波。授業にやる気があるのは結構だが、いきなり野草について教えるって言われても、ここには実物も写真もないんじゃないか? 言葉だけで説明するつもりなら、さすがにわかりにくいぜ」
「そうか。でも今から資料を用意する時間はないな」
「図書室に行けば図鑑くらいあるかもしれないが……」
「いや、こうなったら違う授業をやるからいい。たとえば、そうだな。ここぞというとき頼れる『命乞いの言葉』を考える……なんてどうだ?」
いきなりガラッとテーマが変わり、宗谷が苦笑する。
「どうだと言われても……。それ、サバイバル術か?」
「生き残るために行うことは、これすべてサバイバルなのだよ。そう、すべての道はサバイバルに通じている! 犬も歩けばサバイバル! 猫に小判とサバイバル! 急がば回れのサバイバル!」
なにやら新しい格言を作りたい佐波であったが、ほとんど勢いだけだ。
このままでは何も始まらないと、早々に痺れを切らした御手洗が声を掛ける。
「いいから、とにかくやってみろ」
「ああ、サバイバル研究会も三年目のベテラン、俺にまかせろ!」
三年程度ではサバイバル的にベテラン感がない。せめて十年くらいほしい。
そんなことは言った本人もどうでもいいのか、のどの調子を整える佐波。
なにやら小芝居を挟むつもりらしい。
「へっへっへ、命が惜しければ金を出しやがれ小僧。そう言いながら、いかにも凶悪そうな男が目の前に現れたとしよう。さて、貧弱な君はこの窮地に言葉だけでどう立ち向かうべきか。さあ、意見がある人間は挙手しながら言ってくれ」
これが授業のつもりらしい。出題者の佐波は誰かが発言するのを今か今かと待っている。
誰もいかない、というわけにもいかず、こういうときには意外と行動力のあるリオが先陣を切って挑戦した。
「どうかお助け! これが普通じゃない?」
確かに普通だ。
ところが、それを聞いた佐波は首を横に振る。
「普通に考えれば正解だが、こういった場合には不正解だ。『助けて!』と言っただけで助けてくれる人間は恐喝しないからな。それにもっとこう、命がけのサバイバルっぽさがほしい」
すると、リオに続いて手を挙げたのは長瀬だ。
流れに身を任せるのが好きで、意外に楽しんでいるのか演技も堂に入っている。
「うう、では、なけなしのお金だ……。これは私の全財産で、これがないと今日にも死んでしまうが、そこまで言うなら使ってくれ……!」
「そんなに切羽詰って言われては、さすがに受け取るほうも悩むな。相手に慈悲の心がわずかでも残っていれば案外許してくれるかもしれない。そして大切なのは金より命だ。サバイバル万歳! ささ、他の連中は?」
わざわざ立ち上がってポーズまで決めるのは朽木である。
「だが断る!」
「だがってなんだ、だがって。使い時を間違えるな! 他には?」
少し照れながら宗谷が続く。
「うるせぇ、俺の金は俺のものだ! 誰がやるか! 人生から出直してきな!」
「勇ましいセリフで頼りになるな、お前の体がたくましい場合には。相手が相手ならボッコボコにされて出直す羽目になるのはお前だぜ。他には?」
自信なさそうに恐縮しながらも、かすれた声で答えるのは真由だ。
「ああ、本当によかった。こうして私の姿が見えるのは、あなたが初めてなの……」
「幽霊じゃん! 相手が怖がりなら逃げてくれるのでセーフだが……。他には?」
生徒会長の御手洗が柄にもなく、おどけて言う。
「おいおい、そういうお前は財布じゃなくてズボンのチャックが全開だぜ? 出すものが違うんじゃないか?」
「その言葉を聞いて反射的に自分のチャックを確認してしまう相手の隙を突いて逃げる気なら、ギリギリセーフだ。相手に恥をかかせるのは逆上させる危険性があるから、基本的にはアウトだが。他には?」
今度は主任だ。
「おー、それは助かったぜ、つまりお前が俺の代わりに引き受けてくれるってことでいいんだよな? ほら、これが例の依頼料だ。くれぐれも命には気をつけろよ?」
「やばい仕事まで寄越されるのかよ。そう言われると相手は受け取るに受け取れないぜ。他には?」
タイミングを窺っていたらしく、山原が素っ頓狂な声で答える。
「ピピー、暗証番号が違います」
「人間を捨てるな」
「ピィ?」
渾身の回答がすげなく打ち捨てられて、どうにも不服な山原は頬を膨らませた。
「えー? そういうなら佐波先生、この問題に模範解答はあるの?」
「模範解答? まさか。そんなものはない」
「ええーっ?」
不満を隠さず前のめりになった山原の勢いに気圧されることなく、にやりと笑った佐波は臨時の教師として教え諭すように答える。
「そのときの状況によるからな。それに妄想たくましい俺としては、サバイバル状態なので出せる金を持っているわけがないと考える。だから逃げろ。相手の顔を見た瞬間に全力で逃げろ。知らない人間には関わらないのが一番だ」
これを聞いて大きく息を吐き出すのは主任である。
「そんな問題を出すなよ」
「いいや、出すね。俺が重視するのは正解そのものじゃなくて、何が正解か、普段から危機に備えて考えておくことが大事っつうわけさ。サバイバル思考術の講義、俺がやりたいのはそれ」
それが授業として形になっていたかどうかはともかく、いきなり教師をやらされて自分のやりたいことをやりたいように貫いた佐波に対して主任は一定の理解を示した。
「でもその感じ嫌いじゃないぜ。だがもうサバイバルはいい。ほらどけ、教師交代だ」
「仕方ないな。ま、俺もやるだけやれたから満足だが……」
「じゃあ、次。なんか授業やりたい奴いるか?」
そう聞いたところで名乗り出る者はいない。
雑念を払う座禅の授業が始まったのではないかと思われるほどに教室がしーんとして主任が困っていると、いいことを思いついたとばかりに宗谷が手を打った。
「せっかくだからさ、普段やらないようなやつにやってもらったらどうだ? たとえば真由とか。いつもおとなしく聞いている側じゃん?」
「わ、私……?」
予想だにせず自分が指名され、異常なまでの心配性にして奥手で人見知りな彼女は恐縮状態である。
「駄目か?」
「だ、駄目っていうか……」
無理だよ、と言いたい真由である。
しぶる彼女に向かって、隣の席に座っているエミが後押しする。
「いいんじゃないですか、真由。あなたの授業も楽しみです」
少し離れた席ではあったが、リオも優しい目をして同意する。
「そうね、馬鹿な男子にばかり任せるのは精神的苦痛だから」
「そ、そうですか、わかりました……」
しぶしぶながら、とぼとぼと教壇へ向かう真由。
自信のない彼女は自信がないゆえに押しに弱く、うまく断ることもできないタイプだ。
「え、えっと、とりあえず私の授業テーマは、不安を取り除く方法ということに……する、かなあ……」
今にも消え入りそうな声なので、思わず山原がブンブンと両手を振って応援する。
「真由ちゃん、自信を持って!」
「私だって持てたら持ちたいところだけど、早速不安がぁ……。えっと、というわけで、みんなに聞いてみたいな、不安を取り除く方法。その、何かある人いる……?」
おっかなびっくり教室を見渡す真由。
まさしくそんな彼女を勇気付けるべく、いの一番に山原が立ち上がる。
野性味溢れたミュージカルみたいに大声で歌った。
「心配ないさ~!」
だが不安と心配性には一家言ある真由も黙っていない。
「残念、それは百獣の王ライオンだからこそ言える台詞だよ! 私みたいにびくびく生きざるを得ない小動物には皮肉だよ!」
野生にとっての過酷な現実とは、弱肉強食の弱者には辛い世界ということだ。
二人のやり取りにサバイバルの香りを感じたのか、続けて佐波が手を挙げた。
「なーに、そんなに落ち込まなくったって明日があるさ!」
これにも真由が頭を抱えて答える。
「すでに昨日そう思っての今日だよ! むしろそう言われちゃったら、明日も同じように苦しむ羽目になりそうで鬱屈とした気分だよ!」
他人を励ますことには不慣れな宗谷が気軽さを意識して言う。
「待て待て、悩んでばかりじゃつらいのは当然だ。案ずるより生むがやすしっていうだろ?」
「生んでみたって、やすくはないよ! 無計画に行き当たりばったりなこと繰り返しちゃったからこそ、たぶん私たちってこうなっちゃったんじゃないかなぁ!」
いよいよみんなを巻き込んだところで、話題を変えようとしたのか御手洗が冷静さをアピールしながら口を開いた。
「まあ、とにかく落ち着いてくれ。真由の不安は空が落ちてくるんじゃないかと心配するようなものだ。つまり杞憂ってことさ」
取り越し苦労というありがたい言葉を思い出したのか、少しずつ真由は正気に戻ってきた。
「うーん。でも空が落ちてこないって、ほんとに言い切れる……かなぁ?」
トーンダウンしながら真由はちょこんと首をひねる。
よせばいいのに朽木である。
「いーや、そうとも言い切れないぞ! 人類が宇宙進出すれば空ごとコロニーが落ちてくるかもしれない! そもそも愛で空が落ちてくるって言うぞ!」
「うっひゃあ! アルマゲドンだね!」
たぶん真由は朽木の言った話の内容ではなく、声の勢いに流されただけだろう。
巨大隕石が落下してくるイメージにおっかなびっくり頭を抑えて震える真由は一周回って人生を楽しめている気がしてくるから不思議だ。たぶん彼女は陰謀論とか話しながら、ちょっとわくわくしているタイプである。
現実派の御手洗はそういうタイプではなかった。
「……いや、それも杞憂だろ。それより真由は大丈夫か?」
「うーん、私らしくもなく叫んじゃって、疲れちゃった」
「だろうな。……しょうがない、次の授業に移ろう」
顔を赤くしながら席に戻っていく真由に同情しつつ御手洗が言うと、場が暖まってきたことを確認して恥をかき捨てる勇気がわいてきたのか、不良ぶりたい年頃の朽木がいよいよ名乗り出た。
「おっし、それならオレがやってやろうじゃないか!」
「朽木か……。お前には有り余る不安しかないが、とりあえず任せる」
やってくれるなら誰でもよかったのだろうが、それでも一応は主任の許可が出た。
とうとう自分の番がきたとばかり、颯爽と教壇に立つ朽木。
「うっし、ちょうどいい機会だからオレは日本の文化史をやってやろう。……か、勘違いするなよ? 好きで教えようと思っているんじゃないからな? 本当は文化になんて興味ないんだからな!」
あまりにもわざとらしいので、口を閉ざしていられないのか宗谷はすぐさま疑念を呈した。
「なりそこないの不良であるお前が文化史を? 意外だな」
「あ、でもガチガチの勉強よりは面白そう」
らんらんと目を輝かせる山原はあくまでも文化史に興味があるのであって、それを言い出した朽木に興味があるのではない。
それをわかっているので朽木も素直に喜べない。喜ばなくても頑張るタイプだが。
「チクショー、全力で期待してくれ! ……さて、あまり乗り気ではないが文化史、その中でも特にサブカルチャーと呼ばれていた漫画やアニメ、ゲームなどについてオレは語りたい」
「語りたいって……」
「あくまでも授業よね?」
「いいじゃん、楽しそうじゃん。ほらほら語って、語って!」
引き気味である宗谷とリオの反応に対して、面白いことが好きな山原だけは朽木に好意的だ。
これで喜ばない朽木ではない。素直に喜ばないのが面倒なところだが。
「ああ、任せろ! ……じゃなくて、しかたねぇなあ」
いかにも言い訳がましく口にした朽木。わざとらしくコホンと咳き込んで、不良設定はどうしたのか教師になりきって語り始める。
「ここにいるオレたちはみんな、そういう娯楽をほとんど与えられずに育ってきたよな?」
いつもと違う真面目なトーンの朽木の問いかけに、やいのやいのと茶々を入れるのもためらわれたのか、少し真面目な顔をして宗谷が答える。
「まあ、そうだろうな。俺たち世代はみんな遊びや娯楽というもの、ゆとりというものとは、まるでかけ離れていたからな」
「今は……ここでは、どうなんだろう?」
うーんと首をかしげた山原の素朴な疑問に対して、すぐには誰も明言できない。
ただ一人、いい加減さを大切にする主任だけが肩をすくめた。
「……楽しくないわけじゃない。だろ?」
「うん……」
それはたぶん、程度の差こそあれ、ここに集まった全員が共有する結論には違いない。
そうでなければ誰も報われないだろう。
あまり深刻になり過ぎないように気をつけながら、進んで教師役として教壇に立った朽木が説明を再開する。
「まあ、とにかくだ。そういう娯楽が政府によって厳しく制限された時代でありながら、幸運に恵まれたオレはなんと、家の倉庫に残されていた過去の娯楽作品を目にすることができたんだ」
感慨深げに目を閉じる朽木。
たまたま手に入った宝物の数々を思い出しながら、個人的な回想に浸っているのだろう。
朽木の幸せそうな表情に思うところがあったのか、宗谷が誰ともなしに語りかける。
「お前の家の倉庫か……。そういえば、家の押入れに回収されないまま昔のおもちゃが残されているって人もいた気がするぜ」
「うわぁ、いいなぁ……。娯楽のための商品やサービスが一般販売されていたのって、僕らが生まれる何年前までだったっけ?」
そうそうに山原は自力で思い出すことをあきらめてしまったが、生徒の代表である生徒会長は同年代の代表でもあろうとするのか、首をひねって懸命に思い出そうとする。
「販売規制が開始された正確な時期は覚えてないが、民放によるテレビ放送が終了したのは、ええっと、俺らがまだ小さいころだったよな? 情報統制ってやつ」
朽木は満足そうに頷く。
「そうだ。……で、とにかくオレはだな、我が家に伝わっていた隠された文化遺産を見て、こう思わざるを得なかった。かつて、こんなに楽しいものがあふれていた時代もあったのかと。そう、純粋にオレはいいなって思った。すごいなって思えた。そんな感じで、身に覚えのない郷愁と憧憬を抱いたものだ」
生真面目な御手洗が合いの手を入れる。
「厳密に言えば、今も全く残されていないわけじゃないらしいが……」
だからどうしたと朽木が憤慨する。
「今も残されているものなんて、頭の凝り固まった為政者のお気に入りだけ! でもそれって大抵つまんない! ……いいか? オレはそれら失われた文化すべてを取り戻したいの!」
「熱いねえ、朽木君ってば」
「どうしようもなく、失われしサブカルチャーが好きなんだろうな」
山原と宗谷が微笑ましく思いながら言うと、朽木は黙っていられなくなる。
「ばっ、バカか! 不良のオレがそんなものを好きなわけがないだろうが! ……ただオレは日本の文化がこのまま失われていくこと、失われたままでいることを、一人の不良として問題視しているに過ぎない!」
確かに彼が言うとおり、規制派の政府に歯向かった発言だから不良ではある。本質はただのサブカル好きだが。
自称不良と生徒会長という関係で、特別に仲が悪いというわけでもなかったが、御手洗は珍しく朽木の意見に同意する。
「そうだな。サブカルチャーに限らずとも、伝統芸能や和食とか、エンタメ目的でない一般文芸やファッションさえも、日本産や日本風のものは否定されてしまって寂しいのは事実だ」
それを聞いた朽木は最前列に座る御手洗の手を取らんばかりに同意し返した。
嫌がる御手洗もなんのその、無理矢理に手を握っていた。
「そう、それが大いに問題なんだよ! 文化は飾りじゃありません! 偉い人にはそれがわからんのです!」
「朽木君、どうして急に敬語?」
「よくわからんが熱くなってるな」
仕方がないとはいえ、禁じられていたサブカルにあまり縁がないまま生きてきた山原と宗谷には、その場で倒れそうなほど興奮している朽木のテンションを察することが難しいらしい。
自分の世界に入りつつある朽木はこぶしを握り締めて演説ぶる。
「娯楽が悪だと誰が決めた? この世に娯楽が必要ないと誰が決めた? よく考えてもみろ、大人たちはオレたち若者に、それを自分たちで判断する機会さえ与えてくれなかったんだぞ!」
わからないなりに理解できなくもないのか、なるほどねと山原はつぶやく。
「確かに世間で言われていたほど、娯楽がなくなっても犯罪はなくならなかったし、無気力で刹那的な若者が少なくなったわけでもなかったけど。……夢や希望なんて、何もしなくても勝手になくなっていくのにね」
それを耳ざとく聞きつけた朽木は山原をビシッと指差した。
「その通りだぜ、山原。ふふん、オレがにらんだ通り、やっぱりお前は筋がいいらしい。それなのに大人たちときたら、やつらは実に大変なものを取り上げていきました。そう、それはオレたちの娯楽です! つまり愛ですよ、愛!」
そこまで聞かされては宗谷も苦笑が隠せない。
「お前さ、もう娯楽作品が好きだって認めろよ」
宗谷だけでなく、みんなそう思っていた。
長く続いた独り相撲のように、自分では隠せているつもりだった朽木は身をのけぞらせる。
「な、なんだと! あ、あくまでもオレは一般論として、いくつかの過激派政党が連立して誕生した今の反ポピュリズム的な政府のやり方に反論したまでであって、決して、そう、断じてオレがアニメやらゲームが大好きなわけではないぞ! 言わせんなよ、恥ずかしい!」
なら言わなければいいのに。
全員があっけにとられる中、一人だけ動揺しなかった山原がのんびりと首を傾けた。
「そうかなぁ? 僕は朽木君のそういう趣味とか、もし本当なら興味あるけど」
「よく言った山原。二階級特進だ!」
涙ぐんだ朽木は感激している。しかし宗谷はどうでもいいところに反応する。
二階級特進は軍隊では戦死した兵士に与えられる栄誉だ。
「山原、お前、死ぬのか……」
「ちょっと、宗谷君! 僕のことは上級大尉と呼びたまえっ!」
「お前もすぐ人の話に乗っかるよな……」
そしてお前は二階級特進しても軍曹くらいだろ……とは言わずにおいた宗谷である。
とにもかくにも朽木の授業はより熱を帯びていく。
「というわけでオレの授業は文化再興論、日本版ルネサンスだ!」
聞いているだけでもくたびれてきたのか、目を細めた主任はやれやれと肩をすくめる。
「もう勝手にしろよ……。放課後まで残っている時間だけつぶしてくれ……」
それから、朽木の熱い熱弁はたっぷり三時間も続いたのであった。




