01 三年目(1)
あまりに無慈悲な春風に吹かれて、桜の花びらが無残に舞い散る四月の朝。
寝ぼけ眼のまま学校の教室に入った高校三年生の山原だったが、机の上に荷物を置こうとした瞬間、ふと目が覚めて重大な事実に気が付いた。
「なわぁ! 今日から授業が始まるっていうのに荷物を忘れてきちゃったよ!」
それも一つや二つではなく、なんとカバンごと一切合切すべてだ。
授業どーすんだこれ! などと頭の中で考えをめぐらせる山原は教室の入り口まで戻って、廊下をきょろきょろ見渡しながら右往左往する。
とはいえ、大事な荷物を全部忘れるくらいドジな少年である。頭をひねって考えたところで対策は思い浮かばず、ちょうど歩いてきた親友に助けを求めた。
「ねぇ、宗谷。僕はどうしたらいいかな?」
他人の窮地は対岸の火事らしく、切羽詰まって問われた宗谷はのんきなものだ。
「おいおい、マジかよ? 学校に手ぶらで来るなんて、朝っぱらから山原は豪快だなぁ……。小心者の俺には真似できねえぜ」
あくび交じりに苦笑されてむっとしたのか、うっかり者の山原も少しは落ち着きを取り戻してきたらしい。
はあ、とため息をついた後に指でこめかみを押さえる。
「なにそれ、ひどいなぁ。ほんとに豪快な性格なら、忘れ物をしたくらいでこんなに焦るはずないでしょ? それより、まだ始業時間まで五分くらいあるや……。ここから寮まで戻るとしたら、全力でダッシュすれば五分もかからないよね?」
彼らが寝起きする男子寮は学校の校舎のすぐ近くにあり、正門から外に出る必要もない。学校を大きく囲むフェンスの内側、同じ敷地内に立地しているのだ。
なので、本気で走れば五分くらいの距離だ。
宗谷はうなずく。
「ここから寮の部屋まで行くなら、片道五分は五分五分といったところだな」
「ほぼ五分か、ぎりぎり勝てるねっ! なんとかセーフ!」
だったら時間までに戻ってこれそうだ!
そう思った山原が子供みたいに喜んでいると、ちょっと待てよ! と宗谷が忠告する。
「言っとくが、ちゃんと往復しないと戻ってこられないぞ。行きは五分、帰りも五分で、合わせて十分はかかる。俺ならもっと早く戻ってこられるが……。ははは、お前の足じゃ速さが足りないな」
足の遅さと寝起きの悪さには自覚があるので力強い反論もできず、ちょっぴり馬鹿にされた感じで言われてしまった山原は悔しさに頬を膨らませた。
ここは一番端にある三年の教室で、校舎の反対側にある昇降口までは長い廊下がある。
「ああ! みんなで決めた校則のせいで廊下を走れないことが、こんなにももどかしいなんて!」
「時間がなくてもルールを守って廊下を歩くつもりとは、お前も律儀な人間だな。俺なら遠慮せず走り出してたところだね」
「怒られるの嫌いなんだよ、僕は宗谷と違って真面目だから」
「真面目なやつが大事な荷物を忘れんな」
「だよね」
えへへっと、慌てているのも忘れて山原は照れ笑いを浮かべて頭をかく。
ちょっとは真面目に助言する気になってきたらしく、宗谷はあごに手をやり思案する。
「うーむ。それよりここは一階だからな。そこら辺の窓から校庭に飛び出して、寮までの道をショートカットすれば余裕で間に合うんじゃないか? わざわざ昇降口まで迂回する必要はない」
「でも今は靴じゃなくて室内用のサンダルだから、このままグラウンドに出るのは……」
「だったらそれ、ここで脱いで行ったらどうだ。裸足になればいいだろう」
「だけど裸足でグラウンドを走っちゃうとさ、結局は寮に入る前に足を洗わなくちゃならないからタイムロスだよね? 戻ってくる時もそうじゃん」
当然の指摘にむむむと唸った宗谷だが、他人のために考えるのが面倒になったのか、投げやりにぽんと手を叩く。
「よっしゃ、だったらホウキにまたがってかっ飛ばせ」
「かっ飛ばせないやい! いつから僕は魔法使いになったのさ!」
本気ではないにせよ、ぷりぷりと怒る山原。
それを見て肩を揺らして笑う宗谷は楽しそうだ。
と、そんな仲睦まじい二人に背後から声がかかった。馬鹿な男子である彼らと違って、ずいぶん落ち着いた少女の声である。
「おはよう、宗谷。それから山原は遅いよう。それで、魔法使いがどうしたって?」
「あ、リオちゃん! 僕への挨拶には若干の悪意を感じるけど、それより聞いてよ! 宗谷ったら、また僕のことをからかって!」
それを聞いてリオは非難がましく眉をひそめる。
「ちょっと、宗谷ったら。山原をいじめるなんて、あんた朝から陰険ねぇ……」
「いや、いじめっていうかさ……俺が悪いか? 聞いてくれよ、実はさ――」
「言い訳はいいの」
などと、説明のために何か言おうとした宗谷を、あくびを噛み殺したリオは手をヒラヒラ振って遮る。本気でいじめと思っているわけでもないので、彼らの話を真面目に聞く気はないらしい。
いつも馬鹿をやっている男子が相手だから無理もない。
真面目に相手をされたければ、普段から真面目に生きるしかないのだ。
「それより山原、なんだか慌てていたみたいだったけど大丈夫なの?」
「ああ、そうだった!」
うっかり忘れていたとばかり、山原は弾かれたように教室の時計を確認する。
「なわぁ! もう残り三分を切ってるや! 時計の針がずんずん進んでタイムリミットが一秒ずつ削られていってる!」
「タイムリミット?」
何の時間制限があるのかと首をかしげるリオに近づき、苦笑しつつ宗谷が耳打ちした。
「今から寮に行って、時間までに教室へと戻ってこられるかどうか苦悩しているんだよ。そうやって考える時間がすでにロスなのにさ」
「山原、もしかして寮に何か用事なの?」
もうどうにでもなれと思い始めているのか、あどけなく両腕を広げた山原は清々しく首肯する。
「うん、忘れ物しちゃってさ。見てよ、この両手のフリーダム感。ほとんど全部忘れたの」
「うわぁ……」
これにはさすがのリオも声が出なかったようだ。
あんたバカじゃないの? と言わないのは、彼女なりの優しさである。
「驚きだよな。つーかさ、山原も朝から手ぶらで歩いている時点で気がつかなかったのか? あれ、両手に何もないけど変だな、なんかおかしくねぇ? ……ってさ」
「それはそうなんだけど……。はぁ、もう絶対に間に合わないよね。うん、あきらめた。悟りの境地に達した僕は、このまま徒手空拳で授業に挑むことにするよ」
「挑まれたほうが迷惑だろ」
学校の授業は武道の試合ではないのだ。
正々堂々と丸腰で挑まれても、どちらかといえば教えるほうが困る。
「でも山原、たぶん今日は忘れても大丈夫なんじゃない?」
きっかけがあったわけではなく、不意にリオが思い出したように言うと、瞬時に同意できない山原は驚いて問い返す。
「え、今日は大丈夫? 今から寮に戻って遅刻しても大丈夫ってこと?」
「あー、そうか。そういえば山原、お前って今年の時間割ちゃんと確認したか?」
「今年の時間割? うーんと、それってどこにあるの?」
「ほら、黒板の横、教室の前のほうの壁に張ってあるぜ」
「わかった。ちょっと見てくるよ!」
いても立ってもいられず、時間割を確認するために山原は指摘された場所まで突っ走る。
「え、これ……」
そして掲示されていた時間割を確認するや否や、驚いて振り返った。
「……って、今日は一限目から六限目まで体育ばっかりじゃないか! どこの体育祭だよ!」
驚く山原に宗谷は手を振り返して笑う。
「斬新だろ~?」
「いくらなんでも高校生の時間割にしては斬新過ぎるや! ねぇちょっと主任、三年の学年主任である末広君はどこかなっ!」
救助を求める遭難者のように、ほとんど混乱状態の山原が教室を見渡しながら叫ぶ。
その末広は山原の呼びかけに顔をしかめて立ち上がった。
「そんなに大きな声で叫ぶな、いつものように俺はここにいるぞ。まったく朝から一体どうしたんだよ。ちゃんと授業の五分前には着席しとけって」
「着席よりも末広君、今年の時間割って、こんなのでいいの? なんかもう本格的なスポーツ学院って感じなんだけど?」
そんなわけないよねと言わんばかりに慌てて尋ねる山原だが、ため息をつく主任はやれやれといった様子である。
「……いいか、よく聞くんだ山原。俺は今年、ここで三年目の春を迎えて、やっとわかったことがある」
「えーと、それは何? 自分の限界とか、世の無常?」
「それもいいな……いや違う、それもあるけどそうじゃない。俺が気が付いたのは、俺たちが迎える三年目の年間目標は『ほどほどに生きる』こそがふさわしいということさ」
「主任が投げやりになってるや!」
「そういうわけだから、お前も早く席に着けって。さ、今年は気楽に適当にやっていこうぜ!」
「席に戻りつつ改めて聞き返すけどいいの? 問題なぁい?」
「問題なんてないから気にするな山原。ちゃんと運営会議で決まったってことは、これでも許可がおりたってことだ」
「そ、そうなんだ……」
釈然としない様子ではあるものの、そう言われては反論できない。仕方なく納得した山原はしずしずと着席する。
一足先に隣の席へ座っていた宗谷が落ち込む山原の肩を気休めに叩いた。
「な? だから忘れ物を取りに戻らなくたって大丈夫だったろ?」
「そうだけどさ。なんか釈然としないよね」
「いつになく変則的な時間割だからな。気持ちはわかる」
まっとうでないことは彼も否定しない。
だが、それもまた楽しかろうといった態度だ。
やがて始業の時間を告げるチャイムが鳴り、そのタイミングを計っていたように一人の少年が教室に入ってきた。
「さて、失礼するぞ」
最低限のあいさつ程度に軽く頭を下げて、堂々とした足取りで教室に入ってきた彼はクラスの全員を見渡せる教壇に立つ。
それを見て、最前列の席に座っていた男子生徒が大きな声で号令をかける。
「起立、礼!」
「「おはようございます!」」
クラス全員がそう言うと、がたがたと音を立てて一斉に着席した。
一応は統率が取れている教室の様子を確認すると満足したのか、こほんと咳払いをした彼は深く被った帽子のつばで目元を隠しながら、誰ともなく正面をにらみつける。
「さて、今日は新学期も初日ということで俺が担任役をやることになったわけだが、かといって特別に語ることなど何もない。……ああ、ちなみに明日からは御手洗、お前に担任の責務を押し付けることにする」
「わかりましたよ、リーダー」
御手洗と呼ばれた少年は特に異論なくそれを受け入れた。
あいさつの号令を出した男子である。
リーダーと呼ばれた教壇の生徒は帽子のつばを右手で軽く持ち上げ、腕利きの狩人のような鋭い視線をのぞかせた。
「そうだな。ここで何かを語る代わりに、リーダーの俺からはこれだけを残していこう」
ふっと笑ったリーダーはその場でくるりと反転して、黒板に「各自、着替えを済ませてグラウンドへ集合」と書き記した。
「わかったな? それじゃ俺は行かせてもらう」
それだけを簡潔に言い残すと自分の役目は果たしたとばかり、よどみない足取りで彼は教室を出ていった。
後を引き継ぐのは、リーダーに今後を任された御手洗である。
「とにかく、そういうわけだ。みんな、できるだけ早く着替えてグラウンドに集合しろよ」
「おう任せとけって、御手洗会長!」
打てば響くように、元気よく答えたのは宗谷だ。彼が名前の最後に会長とつけたのには、当然それなりの理由があって、何を隠そう御手洗はこの学校の生徒会長なのである。
生徒会長の指示に従い、がやがやと雑談しながら着替えのために立つ生徒たち。
うーんと背伸びをしてから、ごしごしと目をこすりつつ宗谷は山原に声を掛けた。
「で、これから山原は寮に帰って着替えるんだろ?」
「あーうん、体操服も寮に置いてきちゃったからね」
「じゃあ俺も寮に帰って着替えるわ」
「そう? それなら一緒に行こうか」
かくして、朝のホームルームは特に何事もなく終わった。




