祝福の賛歌 2
その兆しは、いつものように睫毛に現われた。
その微かな揺らぎに、ジゼルは引き受けていた繕い物の手を止めて、その身をシリルの傍に寄せた。
先にジゼルの腕の中で目覚めていたノルは、聖神官の呪文の邪魔をしないようにジゼルに寄り添っていたのだが、ジゼルの様子を見て、そろりとシリルに近寄った。
ふっと、シリルが息を吐く。その瞬間、今まで彫像のようであったその体が、血の通ったものに変化する。
それを見て、その場にいた聖神官二人とジゼルは、それぞれに安堵の表情を見せていた。
「……これでなんとかなるかな」
「ええ。ここまで回復すれば、あとはご自身の力でもなんとかなります」
聖神官二人は、揃って胸をなで下ろしていた。
「ありがとうございました」
ジゼルの礼に、聖神官二人は揃って苦笑し、頭を振った。
「こうなったのは、こちらのせいですからね。責任を取るのが当然の事。礼を言われるような事はありませんし、むしろこちらはお詫びしなければいけません」
ね? と念を押すように、五位聖神官は三位聖神官に、含みを持たせた笑みを向ける。
三位聖神官は、その気まずい状況に、素早く反応して立ち上がった。
「じゃあ、花婿の目処がたった事だし、私は、式の祭司を勤めるために先に帰りますね!」
慌ただしく駆け出していった三位聖神官を、肩をすくめて見送った五位聖神官は、改めてジゼルに頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした。あの方は、あれでも、聖神官の位階で言えば、最も高いんですが……それだけに、自由奔放な方ですので」
「……三位とおっしゃってますけど、一番なのですか?」
「ええ。一位は月の巫女。二位は陽の巫女。その次があの方です。月と陽は、国外どころか神殿の外に出る事も認められぬ身ですので、実質、外で勤めを果たす者の中では、あの方が一番です。ですからあの方は、他の聖神官とは違う勤めも扱っていまして、魔術師の監査もそのうちの一つなのです。……それは本来なら、師にあたる者が行う事ですが、特に能力が高く、師では押さえきれない人物を、あの方が監査しているのです。監督者の魔法要請は、魔術師の方々は何があっても断れないのですよ。シリルさんも、倒れる事はわかっていても、断れなかったんでしょう。本当に、申し訳ない事です」
今は、穏やかな呼吸を繰り返しているシリルを、ノルが横から心配そうにのぞき込んでいる。
そのノルに哀れみの眼差しを向けながら聖神官は手を伸ばし、その頭をそっと撫でた。
「あなたにも、苦労をかける事になりましたね。師として繋がった人物の意識が途切れるなど、たとえ使い魔として長く勤めていても恐ろしい事態でしょうに、まだ長くても数日のあなたが、よく持ちこたえましたね」
「みゅ……。まぁう」
ノルの鳴き声に、聖神官は一瞬だけ驚き、そして微笑んだ。
「……なるほど。この猫にとっては、ジゼルさんはすでにシリルさんの配偶者なのですね」
驚きに、思わずノルに視線を向けると、ノルはそれを意に介さず、再びシリルの表情をのぞき込む。
その様子を見ながら、聖神官は、優しい微笑みを浮かべていた。
「ママがいたから大丈夫。この子はそう言いましたよ」
「ま、まま……?」
その聞き慣れない呼ばれ方に、ジゼルは僅かな羞恥と、それ以上に沸き上がる喜びに、真っ赤に頬を染め、手で顔を覆い隠しながら俯いた。
五位聖神官は、その様子を微笑ましく見守りながら、少しでも早くシリルが起きられるようにと、再び呪文を唱えはじめたのだった。
シリルが、完全に目を開けたのは、それからまもなくの事。
ジゼルと五位聖神官。そしてノルと師匠が見守る中、シリルはゆっくりとその目を開いた。
「シリル様……」
おはようと言えばいいのか、おかえりと言えばいいのか。ジゼルは、言葉に詰まったまま、シリルの顔をのぞき込んでいた。
ぐっとなにかをこらえた表情のジゼルに、シリルは苦笑して、かすれた声でただいま、とただひと言、告げた。
「……おかえりなさい」
起きようとするシリルに手を貸しながら、ジゼルは零れそうになる涙をぐっとこらえていた。
「声は出せますね?」
「だい、じょうぶ、です」
聖神官の問いかけに答え、コホッ、と軽く咳き込んだシリルに、あわててジゼルは水差しから水を汲み、差し出した。
「今は、私の呪文が、あなたの身の内で魔力の代わりを務めている状況です。あなた自身の魔力で魔法を紡ぐ事はできないと思いますので、無理はしないでください」
「はい……」
「こちらの都合で儀式においでいただかなければならないのに、無茶を言って申し訳ありませんが、日が沈むまで、無理は厳禁ですよ」
「わかりました」
少しずつ、声も出やすくなっているらしい。かすれはしているが、無理なく会話が出来ている。
それを見て安心したように頷いた五位聖神官は、儀式の用意を手伝うためにと、そのままその場をあとにした。
「あの、シリル様。私も仕度がありますので、失礼しますね。シリル様のお支度は、母が手伝う事になってます。すぐに呼びますから」
「私は、自分でできるから、大丈夫。お母さん、ジゼルの仕度を手伝いたいだろうから、こちらはいいよ」
「でも……」
ジゼルは、しばらく戸惑っていたが、結局シリルに押し切られ、衣装を手にして、会議室の入り口に足を向けた。
「あの、お湯の仕度は、隣にしてあるそうですから。それを使ってください」
「わかった。……またあとで」
手を振るシリルに、ジゼルは、会釈をして部屋を立ち去った。
その後ろ姿を見守ったシリルは、ジゼルの姿が見えなくなった途端に、またぱたりと後ろに倒れ込む。
慌てたようにノルがぺちぺちとその顔を前足で叩くのを甘んじて受けながら、シリルは大きなため息を吐いた。
先程、起きた拍子に転がった、眼の腕輪が、体から転がり落ちる。
それを横目で見たシリルは、腕輪をそっと手に取ると、それをくるりと指で撫でた。
腕輪の輪郭がぼやけ、空中に白銀の猫が姿を現すと、ノルはそれを出迎えるように、うれしそうに鳴く。
「……リス。留守番ありがとう」
うにゃう。リスは空中で、なにやら不満そうに一声鳴くと、そのままくるりとその場で回転し、そのままシリルの鳩尾に、的確に狙い定めて降りてきた。
「がふっ! ……おまえ、私の魔法だろう。弱ってる主を足蹴にするやつがあるか」
「うー。うみゃう」
鳩尾を押さえて呻くシリルを一瞥すると、すぐさま床に飛び降り、ぷいっとそっぽを向いたリスは、再びレノーによって壊され、役目を果たしていない扉をすり抜け、ジゼルの後を追うように走っていった。
「あんな事言われて、そのまま出しっぱなしにするはずがないだろう!」
「にゃー!」
扉のずっと向こうから、反論するような声が上がり、シリルはやれやれと額を押さえ、再び横になった。
「ジゼル優先に設定しすぎたかなぁ……」
そんな師とその分身の様子を、ノルは顔を洗いながら、のんびりと見守っていたのだった。
「……じゃあ、伯母さん達が、手伝ってくれているの?」
ジゼルは、衣装を着付ながら、母から、その事を初めて聞き、驚きに目を見開いた。
「ええ。そろそろ、お菓子もすべて焼き上がるんじゃないかしら」
母の言葉に、ジゼルは戸惑いを隠しきれなかった。
今まで、面と向かって批難された事はない。だが、その存在を一切見ようとしなかった伯母が、ジゼルの結婚を聞きつけてわざわざ訪ねてくれるとは、まったく考えていなかったのだ。
普通の結婚なら、もちろん親族総出で手伝うのが当たり前だが、一家は全員、そんな親族の助けなど無いと考えていた。
だが、伯母は、レノーの兄弟の妻全員に向けて、言付けをしたらしい。
もう一人の兄の妻、そして弟の妻も、伯母に続いて焼き型を持って、尋ねてきたのだ。
皆、本家である長兄に習い、付き合いも疎遠になっていた。それが一転、ティーアに深々と頭を下げて詫びながら、手伝いを申し出たのだ。
「すごかったわよ。あんな数の焼き型、見た事ないもの。うちの竈も一段では足りないからって、焼き煉瓦を持ち込んで、竈の段を増やしてたわ。あんな方法があるのね」
オデットが、ジゼルの髪を結いながら、くすくすと笑っていた。
「皆さん、こちらの出身だし、やっぱり慣れてるのね。ソフィは沢山のことを教えていただいたみたい」
それを聞きながら、ジゼルは自然と涙ぐんでいた。
自分が生まれた時に決定的になった溝が、ようやく埋まろうとしている。ようやく、自分が父の子だと認められたのだと、ジゼルは実感したのだ。
「姉さん。泣くのが早いわよ。化粧ができないわ」
苦笑したオデットが、ジゼルの涙をそっと拭う。
「今から泣いてたら、せっかくの儀式で眼が真っ赤になるわよ」
「……だって」
母から濡れた手拭を渡され、それを眼に当てる。
その手拭は、涙がこぼれ落ちるのは防いだが、止める事には役に立たなかった。
ジゼルの胸に、母の手で、伯母から預かっていた翡翠が飾られた。
――結局化粧は、その後もう一度、初めからやり直す事になったのだった。




