祝福の賛歌 1
今日、シリルがここにいられる最終日。砦の人々は、婚約の儀がある事は予定に入れていたが、その予定が根本から覆される事態が発生していた。
本来婚約の儀なら、家族だけで事は終わるのである。
婚約した事を大々的にお披露目し、人を集めるような事は、平民は行わない。
だが、それが結婚となると話は別である。
ガルダンでは、婚姻の儀式が終わったあと、新婚の二人がこれから住まう家に酒と料理と菓子を用意して、道行く人々に振る舞うしきたりがある。
それは夫婦になったばかりの二人のお披露目と、挨拶がわりの風習だった。
町にこれから新しい家庭を作るなら、結婚後のご近所付き合いのためにも欠かせない行事なのだが、ジゼルもシリルも、この町に住むわけではない。
その為母は、水神の祠にすむ神官に許可をもらい、なんと祠の前でそれらを振る舞うと言いだしたのである。
婚姻の儀を受ける事をジゼルが決めた直後から、砦の調理場は戦場と化した。
料理は砦から運んでいくのだが、町のほぼ中央に位置している祠の前で配るとなると、どれだけの人数が受け取ってくれるのかわからない。
だが母は、ここでケチな事は言ってはならぬとばかりに、砦の調理場と自宅の調理場を総動員し、さらには人手も必要だからと、日頃兵士達の賄いの手伝いをしてくれている女性達にも、菓子の焼き型を持って手伝いに来てほしいと要請したのである。
家にあるありったけの焼き型だけでは到底足りず、とにかく量を作れとばかりに、様々な菓子をソフィは必死の思いで作り出していた。
ガルダンでは、祝い事があれば、街の子供達は一斉に集まる。子供達にとって、甘い菓子が、誰に咎められることなく食べられる機会は逃せないものだ。ゆえに、ある意味、料理よりも菓子の方が、量を作らねばならない。
卵にバターに小麦粉砂糖。母は、ありったけを引っ張り出し、さらに町で買えるだけ買って、それら一切をソフィに任せたのである。
料理の方も、調理場だけではなくなんと庭に簡易の竈まで兵士達に作らせて、そこでもどんどん作り出されている。
いったい何人前の料理が出来るのか。そもそも、これを盛りつける器はあるのか。
兵士達は、ある意味自分達にはまったく太刀打ちの出来ない女性達の闘いを、戦々恐々としながら言われるままに手伝っていた。
現在、女性達を手伝い、庭の竈前や調理場で走り回っているのは、本来なら休暇であるはずの兵士達であった。彼らはまるで体が休息する事を忘れているかのごとく、精力的に働いていた。
いくら祝い事と言えど、通常の警戒任務を怠る事は彼らには出来ない。だが、通常任務に就いている兵士達にとっても、ジゼルは自分達の大切な妹分である。ゆえに、手伝える人員に、自分達の分も頼むと、くれぐれも言い置いてそれぞれの任務に就いた。
手伝っている兵士達は、その思いを受け、それぞれ頼まれた分まで全力で働いている。
そんな戦場の最中、母は、来訪者の報せを受け取ったのである。
扉の外で、庭の竈の前にいる兵士達の視線を集めながら、所在無げに立っていた人物達を見て、ティーアはきょとんと眼を瞬かせた。
ティーアが、祠で自らの潔白を証明したあの場で、神の奇跡を目にして茫然自失した夫を引き摺っていった、レノーの兄アシルの妻が、侍女を一人連れて、そこに立っていたのである。
彼女はこれまで、この場には一度たりとも足を踏み入れた事がない。
同じ街に住んでいるので、たまたま顔を合わせた事はあっても、こうして正面からきちんと会った事すらないその人が、あの祠で見た時より顔色の悪い様子で、悲壮な表情をしてここにいる理由が思い当たらず、ティーアは困惑しながら問いかけた。
「こんにちは。何かご用でしょうか? あいにく今、立て込んでおりますので……」
急ぎの用件じゃないなら出直しをと言おうとしたティーアの声を慌てて遮るように、アシルの妻は声を上げた。
「あのっ、今日、祠で、ジゼルさんが王都の方と婚姻の儀式を行うと聞いて、それで……」
「ええ、確かにそうですよ」
それを祠に知らせたのは、つい先程である。
聖神官は、現在二人ともシリルの回復にかかりきりになっているが、会場を整えるのは水神の神官でもできるからと、一筆書き記し、先程それを兵士が祠に届けたのである。
その日祠で結婚式が行われる場合、祠にはその徴である旗が立てられる。
この砦からも、その旗が翻っているのが見えているので、水神の神官が知らせを受けてすぐに支度をはじめてくれた事が見て取れる。
祝い事であるだけに、神官はそれが誰のための物なのかも、尋ねられればそのまま答える。
街の人々にわざわざ告知などしなくても、あとは容易にその話は街中に伝わっていくのである。
それを祠で聞き、ここに来たとなれば、どれほど大慌てで駆けつけてきたのか。
今更この人達が、自分達も親族だからと結婚式に乗り込んでくるとは思えなかった。
ティーアは、今この人物が、そんなに急いでここに来た理由が本当にわからなかったのである。
「それで、なんのご用件でしょう?」
「あの、ずいぶん、急だと思って……」
尻窄みの小さな声は、現在のこの喧騒でかき消えた。
さすがのティーアにも、その声ははっきりとは聞こえなかった。
「もともとジゼルは、王都で行儀見習いをしている時に出来た恋人を、家族に紹介するために帰ってきてくれたんですよ」
「え?」
「その彼が王都でとても忙しいお役目についているとかで、今を逃すと、婚姻の儀のためのお休みがいつ取れるかもわからないんですの。私は今身重ですし、忙しい彼の時間が取れるのがもし出産後だと、今度は小さな赤ん坊を抱えている事になりますから、儀式に参列するために移動するのは、どんどん難しくなりますでしょう? 出来るならこちらで今、儀式をしてもらえないかと希望を出しましたら、快く引き受けてくださったんですよ」
ティーアは、シリルのその心遣いがうれしくて、にっこり微笑む。
「ジゼルは、とても良い方を見つけてくれましたわ」
ティーアにとって、自慢の娘が見初めた、自慢の婿である。胸を張って、そう言い切った。
「つい先頃まで、海賊の討伐で兵士達も街の方達も、慌ただしい上にぴりぴりしてましたでしょう? せっかくの祝い事ですし、その解決の目処もたちましたから、祠で皆様にお酒と料理を振る舞って、少しでも心が晴れたらと思いましたの」
元気いっぱいにうきうきと語るティーアとは対称的に、呆然とした様子のアシルの妻は、まるで信じられないとばかりに呟いた。
「では、町を出て行くために、急な結婚を決めたのでは無いのですか」
「は?」
突然言われた言葉の意味がわからずに、ティーアは首を傾げた。
「ガルダンは出ますけど、それが目的というわけではないですわね」
「あ、あの事がありましたから、それで、町を出るために、結婚を決めたのかと……」
ティーアは、告げられた言葉についてしばし考えた。
「……あの事?」
それはあの自分が受けた儀式の事だろうか。そう思いながら問うと、アシルの妻は、静かに頷いた。
「……その、まだ、謝罪も出来ていないのに、それを受けるのもお嫌で、出て行かれるのかと、そう思いましたの……」
そこまで言われて、ようやく合点のいったティーアは、苦笑した。
「もう、気にしておりませんわ」
あの日、あの時、神が認めてくれた。
ティーアにとっては、それだけで、今までの全ての事が報われたのだ。今更、謝罪のことなど、欠片も考えていなかったのである。
だが、アシルの妻は、その言葉に目を見開き、そして辛そうに顔を歪めると、その顔を隠すように頭を下げた。
「……ティーアさんにも、申し訳ない事をいたしました。噂だけを信じて、一度もあなたの話を聞こうともしませんでした。本当に、ごめんなさい。ごめんなさい……」
「……その謝罪は受けますけど、あなた方が本当に謝罪するべき相手は、私ではなく、ジゼルとオデットです。でも、今日は本当に、時間がありませんの」
今も、刻一刻と迫る儀式の時間に、自分達の仕度する時間を計算に入れながら、急いで料理をしなくてはいけないのだ。
「……どうせなら、謝罪より、手伝っていってくださいな。今、人手は、いくらあっても足りないくらいですもの」
「ティーアさん……」
目を赤くした顔をようやく持ち上げ、アシルの妻は頼りなげな表情のまま、ティーアを見つめていた。
そんなアシルの妻に、ティーアは穏やかな笑みで、頷いた。
「どうせなら、娘の結婚を、祝ってやってくださいませんか? ジゼルは結婚したら、すぐに夫となった彼と共に、王都に行かなければいけませんの。謝罪の言葉よりも、祝福の言葉で、送り出してやってください」
息を飲んだアシルの妻は、そのままこくりと頷くと、後ろに控えていた侍女に目配せをした。
侍女は、持っていた手提げから箱を取り出すと、それをアシルの妻に手渡す。
「あの、これを……ジゼルさんに」
渡された小箱を、ティーアは無造作に開く。そこにあったのは、大きな翡翠のペンダントだった。
「これ、なんでしょう?」
「カリエの義母から私が受け継いだ物です。義母は、息子達の妻に、それぞれ自分の物を残しました。本来なら、あなたが受け取ってしかるべきものです。花嫁は、古くから受け継がれている物を一つ身に付ければ、その後幸福が訪れると言われています。……ジゼルさんのお婿さんは、あの魔法使いの方なのでしょう? あの方は、翡翠のお色の瞳でしたから、それをお持ちしました。……ジゼルさんは、身につけてくださるでしょうか?」
ティーアは、それを見ながら、しばらく沈黙していた。
「……きっと、喜びますわ」
この目の前の人は、街で話を聞き、慌ててこれを手に取り、ここに駆けつけてくれたのだ。
目の前の品よりも、万の謝罪よりも、その行動がティーアにはうれしかった。
「ジゼルに必ず渡します。ありがとうございます」
深々と頭を下げたティーアに、アシルの妻はようやく微笑んだ。
「じゃあ、なんでも言いつけてください。侍女も、使ってくださいませ。まだ足りなければ、うちから人を呼びますわ」
「では、焼き型を貸していただけませんか。かき集めても、まだ足りませんの。今、ソフィが、すべての竈を使って菓子を焼いていますから、それを手伝ってやっていただけますか」
「ええ、お任せください」
溜った泪を指で拭ったアシルの妻は、侍女に言付けをして家に走らせ、自分は腕まくりをしながら、ティーアに案内されるままに、初めて砦に足を踏み入れたのだった。




