花開く その思い 30
「「結婚?」」
ようやく、シリルがしっかりと眠りにつき、ジゼルもノルを抱え、その横で見守る体勢になった時、唐突に声が上がった。
父達から、まったく同時に上がったその声に、ジゼルはシリルから視線を外し、父達が揃っていた扉に目を向けた。
宰相は、困惑したような表情で。そして父は、不機嫌なその様子を隠す気もなさそうな表情で、今は目を閉じたシリルを見つめていた。
「ジゼル、どういう事だ。聞いてないぞ」
「……結婚という事は、婚約は? 儀式に参加した覚えがないぞ? ……まさか」
宰相は、梟に視線を定め、睨み付けていた。
梟は、宰相と共にここに来た。そして、宰相も梟も、それから一度もこの砦から出た事はない。
当然、梟が宰相を出し抜き、儀式で見届けるなどという事が出来るはずもない。
普段の宰相なら、普通に気が付きそうなものだが、どうやら激しく動揺しているらしい現在、その事は頭の中からすっかり抜けているらしい。
父親二人の動揺を余所に、女性達は至って暢気に、自分達の晴れ着を用意していた。
儀式は儀式でも、結婚となれば自分達も晴れ着を着る事になる。
この会議室に籠もる時、一家は財産といえる物を、ほぼすべて運び込んでくる。その中には、当然、晴れ着も含まれているのである。
娘達が自分の晴れ着を全て手に持ったのを確認し、母はぱんぱんと手を叩き、その場の注目を自分に集めた。
「はいはいはい。ここで騒いでいても仕方ないでしょう。シリルさんの事は聖神官様にお任せして、やらなきゃいけない事を終わらせましょう。せっかくのおめでたい儀式を、他の事に気を取られながらというのは、神様にも失礼だわ。ジゼルはシリルさんの側にずっとついておくの?」
「うん。そうしたい。……あの、母さん。仕度とか、お願いしても大丈夫?」
「大丈夫。ちゃんとやっておくわ。シリルさんが起きたあとに、自分の事だけすればいいようにしておいてあげるわね」
「ありがとう」
笑顔を浮かべたジゼルに、母もにっこりと微笑みを返し、そして母は、動揺している父親二人の腕を取り、かなり強引に会議室から二人を引きずり出した。
「お姉ちゃん。振る舞うお菓子、私が作るよ。王都のお菓子屋に負けないくらい、がんばるからね!」
ソフィは、明るくそう告げると、手をひらひらと振って、母達を追って部屋を飛び出していく。
その様子を、やれやれと言った様子で見送っていたオデットも、晴れ着を手にしながら、微笑んだ。
「お昼は、ここに運んでくるわね。聖神官様の物もご用意しますが、何かご教義に触れるようなお品はありますか?」
「お気を使わせてすみません。我々に、食に関する戒めはありません」
呪文を唱え続けている五位聖神官の傍で、三位聖神官がオデットに答えた。
「わかりました。時間がある時には出来るだけこちらに様子を見にまいりますので、何かご入り用の物がありましたら、その時お知らせください」
それだけ言い置くと、オデットも姉に手を振り、部屋をあとにした。
「しっかりした妹さんですね」
「はい。自慢の妹達です」
にっこり微笑むジゼルに、なぜか三位聖神官が、少し困惑したように何かを言いよどむ。
「あの、儀式は、婚約じゃなくて、婚姻なんですか?」
改めて、聖神官から問われ、ジゼルははっと気が付いた。
「あ、申し訳ありません。勝手にこちらだけで決めてしまって……。元々、シリル様から、出来るなら結婚の儀式をと言われていまして」
「いや、どちらの儀式でも、私達がやる事は変わりませんし、かまいはしないんですが」
三位聖神官は、今は意識もなく、聖神官達に身を任せるままになったシリルの姿を見て、さらに首を傾げた。
「ええ、儀式でやる事は、変わらないんですが。婚約と結婚では、ファーライズのもたらす誓約の重みがかなり変わりますが、大丈夫ですか?」
「重み、ですか」
「ええ。婚約なら、期間中にやはり結婚ができないとなった時に破談にする術もあるのですが……結婚だと、出来ませんよ。ファーライズの教義に、離縁はありませんから」
その聖神官の言葉に、ジゼルは素直に耳を傾けていた。
「離縁、ですか? その予定はありませんが」
「いえいえ。普通、結婚する時、夫婦の間でいきなり離縁の予定などたてる人はそうそういませんから。たとえお二人が、どんなに離れたくないと思っていても、人の思惑とはまったく別の力によって、その縁が切られるような事も起こりうるという事なんですよ。でも、ファーライズは、それを認めません。二人を別つのは、死のみです」
「……何がおっしゃりたいのか、よくわかりませんが」
「離縁したいと思ったら、どちらかが死ぬような事になりますが、よろしいですか。これを確認しないまま、縁をファーライズと結びつけてしまうと、もう離せなくなりますので」
ジゼルは、目の前で語られる事を、もちろん軽く考えたりはしない。しかし、離縁したら死にます、と言われて、それをすぐさま頭が理解したかと言われると、やはり無理だった。
「あの、死ぬような事って……実際お亡くなりになった方が」
「ええ、おります」
三位聖神官は、扱くあっさり、そう告げた。
あまりにあっさりと返されたため、ジゼルは二の句が告げられなかった。
「私が知っているのは、騎士殿と、平民の娘さんですね。そのお二人の場合、娘さんの方が、ファーライズの祝福を一度受けた事がおありでしてね。その縁で、結婚もファーライズでと、騎士殿の方が乗り気で、やってしまったんですよ。その時も、ちゃんとご説明はしたのですが、なんというか、盛り上がった気持ちは抑えられなかったと言いますか……」
「は、はあ……」
「それで、お二人はファーライズの儀式で結婚をしたのですが……その後、騎士殿が手柄を立てた事で、爵位を授かりましてね。それと同時に、かなり上位の貴族から、自分の娘を娶るようにと強制されました。騎士殿は頑として受け入れなかったのですけど、娘さんの方が、騎士殿のために身を引こうとしまして、それを騎士殿に宣言した瞬間、亡くなりました」
「……え?」
「彼女は、ファーライズの祝福を受けていたので、その身が損なわれることなく亡くなりましたが……それがなければ、おそらく体が消し飛んだんじゃないですかねえ」
あまりにあっさりと語られた人の死は、目の前の聖神官という存在を、ジゼルに初めて畏怖させた。
世間話のように語られるには重すぎるその話を、聖神官は苦笑しながら告げるのだ。
その様子は、ジゼルの眼には、あまりにも異様に映っていた。
「ファーライズは、誓約を違われるのを、なにより嫌う神なのですよ。汝、神と己に誠実たれ。神に対してだけでなく、自身を守る嘘も認めない、そういう神です。その娘さんは、騎士のためにと、心を残しながらも己から身を引いた。それが神に認められなかったのです。婚姻は、ファーライズでは、生涯を添い遂げる誓いです。その生涯を掛けた誓いを破るのならば、その対価は命そのものになります。……ジゼルさんは、それを聞いてなお、ファーライズで婚姻の誓いが出来ますか?」
真摯な眼差しで、正面から問われ、ジゼルは俯きながら、返す答えを自らの中で探していた。
「……その、亡くなった方のお相手の騎士様は、どうなさったのですか」
「何度も神への恨み言を口にしながらも、生きていました。ただ、国は出奔して、その後傭兵となったと聞いています」
「生きて……」
「騎士殿は、神にも自身にも、そして妻となったお嬢さんにも誠実でした。彼は一度も折れなかった。神は、誓約には反応しますが、悪口は聞こえてないんですよ。だから、恨み言も聞こえない。名指しされても、声は届かない。もし、騎士殿が、その娘さんを捨て、その与えられた貴族の令嬢を娶る決断をしていれば、その事を口にした瞬間、騎士殿も亡くなっていたでしょうね」
三位聖神官は、再び苦笑して見せて、そしてシリルに視線を向けた。
「シリルは、ファーライズの誓約について、ちゃんと理解をしています。本人が、あなたにそれを求めたと言う事は、シリル自身は、その覚悟があるという事でしょう。ですが、シリルの覚悟とあなたの覚悟は、また別の物です。もし、その覚悟が決められないのならば、今回のファーライズの誓約は婚約という事にしておいて、どうしても婚姻もと言うならば、水神の誓約も続けて行えばいいですよ。水神の誓約には、そこまでの神罰は起こりません。せいぜい、その後人との縁が、切れやすくなる程度ですから」
「……水神様の誓約にも、神罰はあるのですか」
「もちろんですよ。破れば、それなりに神罰はあります。いきなり目に見えた物は起こりませんけど、たとえば商売なら、じわじわと景気が悪くなるとか、その制約を破った人の周りで、損が起こりやすくなるとか、そういった程度です。ファーライズは、目に見えて罰がわかるし、それが強力です。だからこそ、国家の問題に関しての誓約として、利用される事が多いのです」
国同士のやり取りならば、その責任はもちろん国王にある。
誓約したのがたとえ代理であろうと、国同士の誓約を破れば、国王の身に、どんな方法でも回避できない神罰が下される。
それがわかっていて、あえて自ら誓約を破るような国王はいない。
だが、個人的な利用で、命をかけるほどの事はそれほど無いと、三位聖神官は、神に仕える神職としてはありえない事を簡単に言ってのけた。
「今回、こちらの事情で、せめて婚約は行っていただきたいのは確かなのですが……。まだ、儀式までは時間もありますし、もうしばらく考えてからでも、大丈夫ですよ」
微笑むその表情は、確かに聖職者らしい、話の凄惨さとはまったく縁遠い、穏やかなものだった。
ジゼルは、その表情を見て、そして目を閉じ、軽く頷いた。
「かまいません。婚姻の誓約をお願いします」
「……え?」
「シリル様は、今聖神官様がおっしゃった事を、ご存じなのですよね」
「もちろんです。シリルはすでに、ファーライズの誓約を何度か行っています。現在も、その誓約に縛られる身なのですから、この国の誰よりも、それを理解しているでしょう」
それを聞き、ジゼルは頷いた。
身分違いの夫婦の話は、ジゼルに、恐怖よりも明確な道筋を見せていた。
夫は生きのこった。上位の貴族や、他ならぬ妻の死を越えてなお、一人生きのこった。
この妻の最大の罪は、自らが身を引こうとした事ではない。抗う事を、諦めた事なのだ。
その結果、夫は一人、取り残された。
死を選ぶでもなく、一人その国を出奔した。
一番傍にいなければいけなかった妻は、早々に諦め、神の罰に触れたのに、夫はそこに至ってもまだ、神と妻に誠実であったという事だ。
ジゼルの表情は、晴れ晴れとした笑顔で彩られ、僅かの迷いすら、見られない。
その表情を見て、三位聖神官は、息を飲んだ。
「私は、他の誰よりも、シリル様に対して誠実でありたいと思います。だからこそ、もし、私に、聖神官様のお話のような事が起こっても、私はシリル様のお心を鑑みることなく決断したりはしません」
にっこり微笑むジゼルに、聖神官は呆気にとられた表情のまま、沈黙していた。
三位聖神官が、なぜわざわざ先程の騎士と平民の娘の話を自分に聞かせたか、ジゼルはなんとなくだが、理解していた。
それは要するに、自分達にも起こりうる事だと、教えてくれたのだ。
騎士はつまり貴族。そして自分は平民の娘。たとえシリル自身が自分はもう貴族ではないと言い張ったところで、その身に流れる血は変えられるはずもない。その血のしがらみは、この先に必ず現われる事になる。
大きな権力を前にして、平民であるジゼルがどれほど抗えるのか。
三位聖神官が問いたいのは、その抗う覚悟なのだ。
「私は、シリル様と共に生きる覚悟を決めました。シリル様が困難に晒されたなら、私が支えます。私の心が揺らぐなら、シリル様が支えてくださると信じます。……シリル様が望むのは、神への誓いというより、私のその心を知る事なのだと思うのです。シリル様は、命を掛けて誓えるのです。それなら、私も誓います。ですからどうか、婚姻の誓約を、お願いします」
きっぱりとそう言い切ったジゼルの顔を見て、聖神官の二人は、顔を見合わせた。
そして、三位聖神官は、今までとは違う、慈愛に満ちた表情で、静かに頷いたのだった。




