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花開く その思い 26

 ブレーズは、以前シリルがいた時と同じように、今日も宿舎の屋上にある見張り台で、周囲を見渡していた。

 時刻は深夜。本来ならば、この砦でも、最低限の人員を残し休息を取っている時間である。

 しかし、現在この砦は、警戒態勢に入っている。

 襲われるとわかっている時に、もっとも襲われやすい時間に、大人しく寝ていてやる必要はない。

 現在、兵士は誰一人眠ることなく、各箇所で警戒に当たっている。

 その中心でブレーズは、全員の様子に変わりがないか、見張っているのである。

 

 月はそれほど大きくなくとも、その光は間違いなく地上を照らしている。

 一瞬、その光が地上で揺らいだのを、ブレーズは見逃さなかった。


「街道側だ! 油断するな、陽動の警戒をしろ。中に知らせる鐘を鳴らせ!」


 訓練された兵士達は、誰一人も混乱することなく、一瞬でそれぞれの持ち場を理解し、散っていった。


 野獣の留守を守るのは、野獣が育てたその後継者達であった。

 その最たる男が、腰に下げた長年愛用の長剣を手で確認し、見張り台から素早く降りる。

 

「一旦うちに入りこんで、逃げられると思うなよ。雇い主を売るしか楽になる方法はないと知れ! 総員戦闘用意!」


 ブレーズの号令により、砦全体で一斉に、武器を抜く音が響く。

 その瞬間膨れあがった物騒な気配は、手加減などはじめから一切ない、明らかな殺気だった。


 ブレーズは、見張り台を降り、一目散に外に向かって宿舎の中を駆け抜けた。

 レノーがいない間、ここを守るのは、常にブレーズの勤めであった。たとえ花一本たりとも、この家から欠けさせるわけにはいかないのである。


 その欠けさせるわけにいかないものの中には、もちろん兵士達も含まれている。

 それをブレーズはきちんと理解しているからこそ、レノーはブレーズをここに置いて行くのだ。


 宿舎の入り口の扉を守る兵達に、一瞬隙間を作らせ、ブレーズはそこから表に滑り出た。

 再び扉が閉まり、閂のかかる音を背後に聞きながら、ブレーズは正面からここを目指してくる侵入者をにらみ据えた。


 その手に握られた剣が、月の光を反射しながら、まっすぐブレーズに突き出される。

 それを難なく躱しながら、ブレーズは剣を一瞬で抜き、敵の剣をなぎ払う。

 体勢の崩れたその体に、一歩踏み込んだブレーズの剣が、勢いよく振り下ろされた。

 剣先が、侵入者の被っていたフードを小さく切り裂き、そこから剣呑な光をたたえた眼差しを覗かせた。

 避けた時の動き、そして剣の受け方まで、ブレーズは無言のまま、相手を観察する。

 そしてその結論に至り、ブレーズはその眼差しに、怒気を含ませた。


「お前……うちの国の軍人だな」


 ブレーズは、それだけを告げ、そして一瞬で相手の懐に潜り込んだ。

 その懐で自分の剣を投げ捨て、顎を掌底で打ち上げると、足を打ち払い、顎にあった手を使い、そのまま頭から地に打ち倒した。

 ここは芝生があり、この程度の衝撃ならば、死ぬような事はない。

 頭への衝撃で朦朧となった侵入者に、ブレーズは冷めた眼差しを向け、通告した。


「よかったな。少なくともお前は、主の名を吐くまでは生かしておいてもらえるぞ。ただし、その間は、何度死なせてくれと言おうが、死なせてももらえないだろうがな」


 月明かりの中浮かんだ笑みは、なるほど野獣の一番弟子の名に相応しいものだった。



 深夜、会議室の扉の外で、鐘の音が立て続けに二度鳴らされた。

 その音で飛び起きた一家は、体を起こしたままだった宰相と視線を合わせた。


「来たようです」

「そうか……」


 少し離れた複数の方角から、剣戟の音が鳴り響く。その音は、不審者が複数名いたことを、会議室の面々に知らせていた。

 船を見送ったあと、鍛冶屋の直した金具で修繕された扉が、今、一家と宰相を守っている。

 その扉の前には、簡単に扉が開かないように太い閂を掛け、さらに前には、数人で移動できるこの会議室にある机を、いくつも複雑に重ね合わせて、さらに防御を増してある。

 あとは、表にいる兵士達を信じて、音が止み、再び鐘が鳴らされるのを待つのみである。

 オデットは、昔から、戦闘の音を怖がる娘だった。

 特に、剣戟の音に弱く、聞いた瞬間に体が竦み、動けなくなるのだ。

 今も、母にしがみつき、ぎゅっと目を閉じて、その音にひたすら耐えていた。

 そんな娘を気遣うように、優しく背中をなでさする母は、娘を見ながらぼそりと呟いた。


「大丈夫よ。ずっとついていくって決めたんでしょう。ブレーズを信じなさい」


 母のその言葉に、オデットは恐怖も忘れてがばりと顔を起こした。


「な、か、母さん、知ってたの!?」

「むしろ、どうして知らないと思うの?」


 真実、不思議そうに首を傾げた母の表情を目にして、オデットは真っ赤な顔のまま、頽れるように母の膝に顔を伏せた。


「感謝なさいよ。お父さんにはずっと誤魔化してあげてたんだから」


 もしそんな事になっていれば、訓練中に血の雨が降っていた。

 一応、ブレーズは、さすが長年野獣のもっとも傍にいたからか、レノーの一撃を躱す事も押さえる事もできるだけの腕はある。

 ただ、真正面から、全力のレノーとやり合った事はない。

 レノーはあれでも、自分の部下達のことは、大変可愛がっているのである。


「お父さんにとっては、ブレーズは息子みたいなものだもの。ジゼルよりは、説得するのは楽だと思うわよ?」


 母は、すっかり恐怖を忘れて慌てふためくオデットに、ぱちりと片目をつぶっておどけて見せた。


 そんな母とオデットとのやり取りを尻目に、ソフィはジゼルの腕の中にいる黒い猫に、心配そうに視線を向けていた。

 ここに来てから、ノルがこんなに大人しいのは初めてだった。


 ノルは、リスとは違い、猫らしい猫だった。シリルの傍にいない時は、気まぐれに身を伸ばし、毛繕いをし、眠っているような、正しい猫だった。


 しかし今は、その時とはまったく様子が違っていた。


 唯の猫と、魔法使いの使い魔の違いが、こんなふうに出るなどと、考えもしなかった。


「ノルちゃんも、戦闘の音が怖いのかな」

「……違うわ。ここに閉じこもる前も、ずっと私の側から離れなかったし、不安そうだったもの」


 昼を過ぎてから目を覚ましたノルは、ずっと何かに怯えたように、耳を伏せ、不安そうな鳴き声を上げていた。

 シリルが船で出かけたあとは、いつもシリルにしているように、ジゼルのあとをついて回っていた。

 ジゼルは、そんなノルを、時間が許すかぎり抱き上げて体を撫でていた。

 今も、ジゼルの腕の中で、耳をぺたりと倒したまま、何かに怯えたように小さく震えながら、丸まっている。


「……シリル様がいないことが、こんなに不安にさせるのかしら」


 ジゼルの出した結論に、宰相は首を振った。


「いや、その猫は、魔力のもたらす闇を畏れているだけだ」

「……闇、ですか」

「魔力というのは、引き出しすぎれば、身の内に虚無と闇をもたらす。魔術師長は、確かその虚無を扉と呼んでいた。守る者がないままに扉が開かれれば、その後は闇に属する者達に体も心も食い尽くされる。無意識のうちに、朝の光がもたらす苦痛から身を守ろうとし、限界近くまで力を引き出したのだろう。身の内で、自らの消滅の危機を経験し、それに怯えているのだよ」

「……ノル」

「君の傍にいれば、魔は現われない。それをその猫は、本能的に理解しているのだ」


 ノルは、ただぶるぶると震えている。

 ジゼルは、その体をそっと撫でながら、ノルに唯、言い聞かせた。


「ノル。シリル様も私も、あなたを守るわ」


 丸まっていた体を、しっかり腕に抱き直し、腕の中で、耳の後ろをそっと掻いてやると、ノルはすっかり色の変わった眼をジゼルに向けていた。

 縋るようなその眼差しは、どこかで見覚えがあった。


 いつかの夢の中で、ジゼルに向かって手を伸ばした、小さなシリル。

 その面影が、今腕の中にいるノルに重なった。


「ずっと、そばで見ているわ。誰かに食べさせたりなんかしない。あなたが消える事なんかないの。だから、大丈夫よ」

「……うなぁーぅ」

「ひとりぼっちでいる訳じゃないわ。リスならシリル様の力をそのまま持っているし、今ここには師匠さんもいるでしょう。あなたが危ない目にあっても、必ず助けてもらえるの。だから、シリル様がいなくても、大丈夫よ」


 こわかったね。そう言ってジゼルが慰めると、ノルはしばらくジゼルの顔を見上げ、そしてその顔を、ジゼルの腕に埋めた。


「なぁーう」


 涙目のまま、か細い鳴き声で、ジゼルに縋るノルの姿は、ジゼルの目にはやはり、シリルと同じに見えたのだった。


 会議室が開放されたのは、朝日が昇るほんの少し前だった。

 鐘の合図の後、ブレーズの声によって安全が告げられ、ようやく一家は扉の前にあった障害を取り除き、扉を開いた。

 扉の前に立っていたブレーズは、その身に返り血を浴びながらも、どこにも怪我もなく、笑顔だった。


「侵入していた者は、全員対処が完了しました。もう大丈夫ですよ」


 その言葉に、真っ先に反応したのはオデットだった。

 血で汚れるのも構わずに、飛びつくようにブレーズに抱きついた。


「怪我をした人はいる?」

「こちらの被害は、軽傷が四名ほどです。すりむいた程度なので、心配はありません。あちらは、死亡二名重傷が二名、軽傷一名です。重傷者についてはすでに傷の治療ははじめましたので、こちらも今のところ、命に別状はありません」


 ブレーズはそれだけ報告すると、オデットを胸で受け止めているままで、宰相に敬礼した。


「閣下。この侵入者の身柄について、いかがしましょう」

「尋問は出来るのか」

「口はきけます。こちらで請け負う事も可能です」

「遺体からは、何か出たか」


 その宰相の疑問に、ブレーズは、今まで滑らかだった口を一旦閉じ、一瞬躊躇った後、再び口を開く。


「……海賊ではない事はわかりました。訓練をされた動きでした」

「それは、密偵としての動きか?」

「いえ。……私達と同類ですね。忍び込むのには向いていない者達でした。気配は消せるが、戦い方が真正面すぎる。むしろ私達より、融通の利かない戦い方をしていましたよ」


 それを聞いた宰相は、一瞬悩み、そして立ち上がった。


「私が直接出向く。聞きたい事もあるし、顔も見てみたい」

「お心当たりが?」

「……予想が当たっているなら、顔にも見覚えがあるだろうな」


 宰相は、曖昧にそう言って、頷いた。


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