花開く その思い 25
「おい」
今も帆柱の上で、糸を伸ばし続けるシリルに、いつの間に上ってきていたのか、レノーが見張り台から声をかけた。
「さっき、嫌な予感だとか言ってたが、なにかあんのか」
「……知ってる相手のような、気がするんです」
「ファーライズの聖神官か? 名乗ってたじゃねえか」
「普段、ファーライズの聖神官は名乗りません。聖神官達は、名も神に捧げていますから、よほどの事がない限り、自ら名乗る真似はしないんです。私が知っている相手も、名前を聞いた事も、署名を見た事もないんです。ただ、声に聞き覚えが……あるようなないような」
「どっちだ」
「なにせ、二十年近く昔の事なので……。ご本人にお会いできれば、わかると思うんですが。とにかく、聖神官の位置を特定します。攻撃の許可は出してくださった事だし、砲撃準備お願いします」
「……いいのかよ」
「位置を特定して、そこを外すように被弾させます」
「じゃあ、まず帆柱を狙え。この暗さだと、こっちの砲撃手は、当てられねえ。巻き込めない相手が居るなら、火も使えないからな。足を止めるために、帆をなんとかしなきゃならん。当てられるか」
「……三本のうち、どれを狙えばいいですか」
「一番高いやつだ。見張り台があるなら、それを狙え」
「わかりました。位置特定次第、知らせます。攻撃の号令をお願いします」
あっさり頷いたシリルに、苦笑したレノーはようやく力を抜いたように、呟いた。
「簡単に言ってくれる。砲撃手でも、そこまでの精度で弾を撃ち出せるようになるのは、何十人に一人くらいなんだぜ?」
「なにせこちらは、魔法でズルしますから」
ようやく表情をゆるめたレノーに、シリルは肩をすくめておどけてみせる。
その様子に、レノーは、魔術師の真随を目の当たりにしている事を理解した。
魔術師は、人の概念を破壊され、初めて魔力を得る。
唯人にとっての恐怖は、彼らにとってはほんの退屈しのぎ。心に与えられる、さざ波程度の揺らぎにすぎない。
これから生死に関わる戦いを前にしても、彼らはそれを、恐怖する事はない。
魔術師にとって、それは救い。
彼らは、指先一本で、一瞬にして敵を滅する手段をもつ。普通の人間が、そんな凶器を手にして、狂うなと言うほうが無理である。
彼らは常に、精神の危うい場所を、細い糸を綱渡りするかのごとく、均衡を保っているのだ。
その糸が切れた時、彼らは人に在らざる姿となり、心を氷らせ魔術を行使する。その行動には一切の慈悲もない。
今、シリルは、己の力を限界まで広げるために、姿を変えている。
しかし、レノーは、シリルの、虹彩が細くなってしまったその目を見て、一種の安堵を覚えていた。
どんなに姿を変えていても、その瞳にはしっかりと、シリルの意思がある。
――これは、壊れた人形ではない。シリルという名の、個である。
レノーはその時、その事実と共に、ようやく、シリルを受け入れられたのである。
「おい。部隊が突入したあと、お前に三人付けてやる。そいつらを先陣にして、お前は聖神官殿の所へ救出に迎え」
「いいんですか? 上で援護をするつもりだったんですけど」
「……俺たちはな、海賊の専門家だ。海賊を相手に、そうそう遅れは取らん」
「ええ、それは十分理解してます」
「だがな。聖神官殿に会うための、お上品な礼儀作法なんざ、だれも知らねえんだよ」
にいと歯を見せて笑うレノーに、シリルは目を瞬かせた。
「そっちのお上品な作業はお前に任せる。海賊はこっちに任せろ」
シリルは、突然柔らかくなったレノーの態度に僅かに驚きながらも、こくりと頷き了承した。
始まりの合図は、一斉に飛んできた砲弾だった。
過たず、見張り台に到達したそれにより、主軸の帆柱が爆音を響かせながら崩壊したのである。
「何があった!」
船室から飛び出してきた海賊達は、船の状態を見て、唖然とした。
「砲撃の音なんかしなかったぞ。どこから撃たれた!」
外はまだ、頼りない弓形の月の光と、小さく瞬く星々の明かりしかない時間である。こんな中、正確な砲撃など出来るはずもないのに、砲弾は再び飛んできて、正確に残り二本の帆柱を破壊した。
舞い散る木片と、音を立てて落ちた帆を慌てて避けながら、海賊達は砲弾が飛んできた方角に一斉に目を懲らした。
「な、馬鹿な。どこのどいつだ! 速く船を動かせ! やつらの砲撃範囲から出るんだ!」
「船影、確認! 暗くて船籍が確認できません」
「そんなもん、見りゃわかる! 明かりを急げ!」
「帆柱がやられて、操船不可! 相手船影、風上です!」
「早く帆柱の予備を立てろ!」
「今立てても、また砲撃でやられます!」
「馬鹿野郎、このままだと何もしないうちに海の藻屑だろうが! いいから立てろ。とにかく逃げるぞ!」
慌てふためく海賊達は、ようやく予備の帆柱の用意を整え終わった。
帆柱を壊した砲弾が、次々と船に着弾し、予備の帆を張る事も出来ないまま、阿鼻叫喚の様相を呈した頃、その船が静かに横付けられた。
そしてようやく明かりを掲げた海賊船は、そこに悪魔を見る事となる。
「いよう……。お前らが、ずいぶん楽しそうに踊ってやがるから、誘われてきてやったぞ」
にいと笑うその顔は、笑う子も泣き、海賊すらも気絶する野獣の笑み。
海賊達が蒼白になりながら、「誘ってない」と首を振るのも構わずに、野獣は吼えた。
「乗り込め!」
野獣の一声により、混乱状態の船の上は、一気に戦場に変化した。
誰よりも先陣を切るレノーは、活き活きと木槌を振り回し、船を破壊して回っていた。
船を壊すついでに、海賊達もなぎ倒し、踏み倒す。
真っ先に船室への扉を破壊したレノーは、その後身を翻し、後方へ向かう。
それに続く全員が、先程の砲弾で荒れ果てた甲板の上でもしっかりした足取りで海賊を駆逐していく。
二人ひと組で海賊一人に相対し、確実に仕留めていく兵士達は、先陣を切るレノーの背を守るため、浮き足立っていた海賊を情け容赦なく切り捨てた。
レノーは、後ろを振り返ることなく、重い木槌を振り回しているとは思えない繊細な動きで、相手の武器を壊し、飛ばし、無力化させ、一直線に船尾を目指す。
槌の一振りで、三人を吹っ飛ばしたレノーの姿を見ながら、シリルは暢気にふわふわ飛びながら、船室の入り口にたどり着いていた。
「……いきいきしてるなぁ」
「船の上っすから!」
「隊長は海の男ですから!」
シリルに付けられた三人も、船の上でしっかりと剣と鉄製の棍棒を振っていた。
まだ成人してそれほどたってなさそうな若さの兵士達だが、それでも武器を振る手に躊躇いがない事が、経験の多さを示している。
彼らの経験の数は、それだけこの沿岸部の海賊被害の多さを物語っていた。
「入り口の敵、殲滅完了しました。入れます!」
「……こんなに楽させてもらって、いいのかな?」
「突入が楽に出来たのは、砲弾に無駄が出なかったからですよ。行きましょう」
三人に促され、船室のある船首部分に、シリルは飛び込んだ。
目指していた船尾楼の船長室に到達する前に、立ちすくんでいた海賊の船長の前に立ったレノーは、それはそれはうれしそうな笑顔を見せていた。
「ようやく会えたなあ。なかなか陸に上がってこないわりに、ずいぶんいい船に乗ってんじゃねえか、レザール」
レザールと呼ばれた海賊は、レノーと同年代に見える男だった。
真っ黒でごわごわの髪と、豊かな髭に覆われた顔は、今は恐怖で引き攣っていた。
「や、野獣……なんでお前が」
「船でも襲ってたか? それとも……別のもうけ口でも見つけたのか。臆病者のお前にしては、ずいぶん儲けてんじゃねえか。ああ?」
「お前は、陸の仕事しかしなかったはずだ。どうして海にいる!」
「てめえの仕事で、陸のお偉いさんを怒らせたからだよ。おかげで、海軍をすっ飛ばして俺らに船に乗る許可まで出してきた。……うちの女房や娘を、さんざんつけ狙ってくれたな。……楽に死ねると思うなよ」
最後のひと言を、物騒な目の光と共に告げたレノーは、改めて木槌を構え直すと、一気に海賊の船長に向けて身を踊らせた。
「三人も付けてもらう事はなかったかな。人は居ないみたいだ」
「後方の警戒は必要ですから、お気になさらず!」
魔法で索敵しつつ、ふわふわ飛んでいくシリルに、元気な兵士達三人が後に続く。
周囲は、甲板から微かに聞こえる騒音を除くと、大変静かだった。
海賊達の生活の場であるそこは、明らかな異臭が漂っていたが、シリルはそれをあっさり吹き飛ばし、空気を入れ換えながら先に進む。
「……便利っすねえ」
若い兵士が、なにやらしみじみと呟くのが聞こえ、シリルは首を傾げた。
「君は、若いのに、ずいぶん船に慣れているんだね」
「俺は、元々船乗りでしたから! 男所帯で、風呂もなかなか入れないとなると、どうしても匂いが籠もるんですよねえ」
やだやだと呟きながら、それでも周囲の警戒は怠らず、三人はシリルに続く。
船底の、倉庫の奥にあった頑丈な扉の前に立ったシリルは、兵士達に周囲の警戒を頼むと、その扉を軽くノックした。
「お待たせしました。お迎えに上がりました」
シリルが声をかけると、すぐさま中から歓喜の声が上がる。
「ありがとうございます。お待ちしていました」
糸を通して聞いた聖神官の声に、シリルは安堵を覚えながら、中の人々に指示をした。
「扉の前に、人は居ますか。動けるなら、扉から離れてください」
「大丈夫ですよ。扉の前には居ません。皆、奥の壁際におります」
シリルは、その返答に頷くと、指先で軽く魔法を織る。
ふわりと袖が動くと、紡がれた魔法は、扉に、風の刃として襲いかかった。
唯の木片となった扉が、がらがらと床に積み上がり、ぽっかりと開いた入り口から、シリルは中に滑り込んだ。
中にいた人々は、シリルの姿を見て一斉に息を飲む。
その中で唯一人、魔術師の異形にも一切怯まなかった男性が、シリルの姿を認めてにっこりと微笑んだ。
「お久しぶりですね、シリル。大きくなって、見違えました」
「……お久しぶりです。あれから……十八年ほどになりますから」
シリルが、生まれて初めて出会ったファーライズの聖神官は、その十八年前と一切変わらぬ穏やかな風貌で、微笑んでいた。
当時の記憶を思い出す必要すらない。今は、服装こそ神官衣ではなく普通の旅装だったが、その淡い金の髪も、琥珀を思わせる瞳も、何一つ変わってはいなかった。それこそ、肩を少し越えるほどの髪を一つにまとめただけの簡素な髪型まで、まったく同一なのである。
間違えようがなかった。
シリルの、王の血族としての権利を封じ、生涯にわたる王家への忠誠の誓約を見届け、魔術師の契約を見守る役割を果たした聖神官が、あの時と姿を変えずに、そこにいた。
「あまりにお変わりなくて、驚きました」
「まあ、神の祝福というのは、時に人が思う以上の奇跡ももたらすものなのですよ」
くすくす笑いながら、口元に人差し指を立てた聖神官の手首には、重い鎖が繋がる手枷がはめられていた。




