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花開く その思い 23

 初めての海は、穏やかな波と爽やかな風に恵まれ、滑るように進んでいた。

 レノーの兄が用意した船は、つい最近進水したばかりだという、最新式のものだった。

 その船は、ガルダンの港で、今一番速いという船乗り達の言葉通り、レノーとシリル双方の予測より、若干速く現場に辿り着けそうなほど順調な航海を見せていた。

 シリルは、船室の手前で時折空を見上げ、風の流れを見る他は大人しくしていた。


 この船の中で、海に慣れていないのは、あきらかにシリル一人だった。

 動き回るほど邪魔になるのは目に見えてわかるので、呼ばれるまでは借りてきた猫のごとく、大人しくしている事が今のシリルの仕事だったのである。


 レノーは、長年カリエ家お抱えとして実績を持つ老齢の船長と共に、これからの進路と停泊場所についての相談をしていた。

 船長は、がっしりとした骨太な体格と、無駄のない筋肉を持つ、一見年齢がわからないほど逞しい老人だった。

 豊かな髭とまばらな頭髪は、歳と塩によってすっかり白くなっており、その色濃く焼けた海の男らしい赤ら顔をくっきりと浮かび上がらせている。

 その深く刻まれた皺が、歳を物語ってはいるものの、その肌の張りと眼光は、まだまだ船長が現役を維持できるだけの気力を持つ事を周囲に伝えていた。


 この船長は、部隊を迎え、出会い頭に、兵士のほぼ全員とシリルを悶絶させる偉業を成し遂げた。

 海賊どころか自国の兵にも、西砦の野獣と呼ばれ恐れられるその人を、大きな声で「ぼっちゃん」と呼べる人は、そういやしない。長年カリエ家で船を預かる人だからこそである。

 それを聞いた、レノーに続いていた全員が、笑いをこらえるあまりに口を手で押さえ、肩をぶるぶる震わせていたのは、ある意味仕方のない事である。


 この船長は、レノーがまだ兵になる前から、カリエ家で船を預かっていたらしく、今回はその長年の経験と腕を見込まれ、この船を預かったのだという。

 今回目標としている場所が、本来なら船乗り達が避けて通るような難所であったがゆえの采配らしい。

 その場所は、小さな島が無数に散らばり、地形的に岩礁も多く、その為か潮の流れも難しい。小型の船であれば、ここで漁をする事もあるらしいが、それでもその潮の流れの速さから、相当な腕を持つ漁師しか、船を進められない難所であった。

 そこを渡れる技量を持つ船長となると、船乗りの町であるガルダンでも、手の指に足りるほどしかいなかったのである。


「それにしても、無茶を言いましたなぁ。ここで捕り物とは、軍の船でも無理難題ではないですかな」

「あっちの船は、足の速さより頑丈さが信条だからな。あの重さなら、この海域だと、すぐに岩礁に引っかけるだろう」

「この船で、ぎりぎりですな」


 ふむ、と船長は、手渡された海図を見ながら、頷いた。


「この海域は、一度風が荒れると、どんな熟練でも岩礁に突っ込むと言われておりますが、魔術師殿がいるのなら、心強いですな」

「少し雲の流れが速いが、まあ、これくらいなら、海賊共は動けるだろう」

「海賊は本当に出てきますかな」


 船長が、首を傾げながら尋ねたが、レノーはそれに、肩をすくめて見せた。


「宰相殿が言うには、出てくるらしい。今回は、他のどこでもない、ガルダンに海賊達の目的がある。最新の目撃情報と、その後の逃走経路、今までその海賊が襲った港から、相手の技量と活動範囲を絞り込み、ガルダンに最も近い、海賊達が停泊できる海岸を割り出した。そこまでに行くのに、岸壁の軍施設の眼を避けながらどうしても通らなければならないのが、この海域だった」


 レノーの言葉に、眼を丸くした船長は、改めて海図に目を向けた。


「そりゃまた、ずいぶんと細かい仕事をしたものですな」

「やったのはそこのでたらめ魔術師だ。普通の軍人なら、計算でこんなものを出そうとは思わない。ある程度当りを付けたら、後は地道に調査に人を割くからな」


 指し示された場所で、なぜかほんの少し浮かんだ状態のシリルが、ぼんやり空を見つめている。

 紫の薄布を纏い、そうやって浮かんでいると、その容姿と相まって、不思議なほど現実感がない。

 ぼんやりしているように見えるシリルに、レノーは呆れたように声をかけた。


「なんで浮かんでやがるんだ? 無駄に魔力は使うなよ。肝心な時に使えないと、作戦どころの話じゃないんだぞ」 

「ああ、大丈夫です。浮かんでいるのは魔法の効果じゃありませんから。初めて船に乗ったので、酔わないようにしているだけです」

「酔うかどうか、初めてならわからんだろうに」

「他の時なら、試してみたんですけど……。今は、酔って寝込む方が困ると思いましたので」


 肩をすくめたシリルに、納得したようにレノーは頷いた。


「……ま、たしかにな。本当に、魔法じゃないんだな?」

「ええ。風系統の魔術師として認められている者なら、誰でも力を解放してれば、浮かぶんですよ。紡いでいる魔力の関係で」


 そんな二人を、すぐ傍で眺めていた船長は、その二人の雰囲気を、不思議な表情で眺めながら、それでも魔術師であるシリルに、明らかな畏敬の念がこもった眼差しを向けていた。

 船乗りとして、水と風を操る事が出来る魔術師は、その二つを司る神の神官と同等に、尊敬されるべき存在である。

 船の上での経験が長ければ長いほど、その恩恵は身に染みている。

 今回、作戦に魔術師が同行すると聞き、船長はその心にゆとりすら感じられたのである。


「隊長殿。魔術師殿と、ずいぶん砕けた関係なのですな」


 改まってからかうような口調になった船長にそう問われ、レノーはその表情をなんとも言えないしかめ面に変化させた。


「……うちの娘の、亭主だ」


 たいへん不本意そうにそう言ったレノーを、シリルは逆に、呆気にとられたように見つめていた。


「おや、隊長殿の娘三人は、まだ独身だったろうに、いつの間に?」

「……この数日だ」


 いよいよもってレノーの機嫌が悪くなっていくのが、その地を這うような声の調子でわかる。

 さすがにこの話題にそれ以上触れられたくはなかったのか、レノーはさっさと逃げるように船室に引き上げた。

 その様子を見ながら、船長はにやにやと笑い、シリルに声をかけたのだった。


「この前の儀式は、見ていたよ。あんたはジゼルちゃんの婿だったのかい」


 あの場にシリルが同席していたのを、この船長は見ていたらしい。

 そう問われて、唖然としたままだったシリルは、はっと正気に返ったように、頷いた。


「……ええ、まあ、婚約者、です。なんというか、結婚が認められたのがつい先日なので、ちゃんと婿だと言っていただけるとは思っていませんでした」


 まだなにやら呆然としたまま、シリルはレノーが姿を消した船室への扉を見つめていた。


「ジゼルちゃんは、昔から気の毒な子でね。あの儀式は、スカッとしたよ。さすがティーアちゃんだな」

「……あなたは、ティーアさんの事を信じていたんですか」

「船乗りで、あの子の言う事を信じていたのは、半分って所だな。歌姫ってな、踊り子とは違って、その色香を売りにしている訳じゃない。だが、ティーアちゃんは、昔っから本人の気性とはまったく逆の、そりゃあ色っぽい声で、情感たっぷりに歌ってたからなぁ。船乗り達にとっては、目の毒耳の毒って言われてたくらいだ。でもまあ、本人の気性を知っている者は、ジゼルちゃんの父親を疑うような事はしなかったよ。もしそうなら、ティーアちゃんは、あの子を身籠もった時点で、レノーぼっちゃんの前から姿を消していただろうからな。それくらい、気性がまっすぐで、激しいんだよ」


 苦笑と共に語られたそのティーアの姿は、今もまったく変わりがないように思えた。


「船乗りで、あの子の出生を疑ってたのは、その歌の色香に誘われてティーアちゃんを口説いたあげく、あっけなく振られたやつらばっかりだよ。だからこそ、そいつらも率先して噂を流しちまってね。取り返しがつかないほどに、広まっちまったんだよ」


 そして、新しくここに住み着いた船乗り達は、みんなその噂の方に乗せられた。

 結果、ティーアは、町を歩くだけで船乗り達にからかわれ、口説かれる。そしてそれを見た街の人々は、たとえそれをティーアが拒否していても、噂を口に乗せる。

 まさに悪循環だったのだ。


「まさか、神様に証明してもらえるとは思ってなかったが、あの場にいて、昔から二人の事を知っている者にしてみれば、ほっとしたのは事実だな。アシルぼっちゃんは、まあ、昔からそんな船乗り達に関わって仕事をしてきた人だからね。あの人も、素直になりゃあいいのになあ」


 新造船の甲板で、忙しく動き回る船員を見ながら、船長は呆れたような口調できっぱりとそう告げたのだった。




 砦で、船を見送った一家は、再び慌ただしく会議室に籠もる用意を始めていた。

 今回は、兵達の半数以上がこちらに残っているが、一家の籠もる場所はここしかないので、皆もそれを当たり前のように受け入れていた。

 つい昨日まで、籠もっていた場所であるため、荷物などの運び入れは必要ない。

 ただ、全員で再び水を運び入れたり、外に出てできる事をやって、扉が直るのを待っていただけである。

 今回は、その室内に、宰相とその護衛の騎士二人も共に入る。


「閣下、すぐに寝台を入れますわ」


 ティーアの提案を、宰相は首を振って答えた。


「いや、必要ない。シリルもここで寝ていたのだろう。あれが使っていた寝具を貸してくれ」

「しかし、それではあまりにも……」

「あれが寝られる場所なら、私も寝られる。心配ない。いつも仕事が立て込めば、執務室で机で寝ているくらいだからな。体を横たえられるだけでも十分だ」


 その返答に、一家はぽかんと口を開けた。

 ティーアは首を振り、そしてジゼルはつい口を開いた。


「もしかして、寝る事に関して、シリル様は宰相様にそっくりですか」

「……あまり喜ばしい事ではないが、姫は昔からいつもそう言っているな」

「昔から、ですか?」


 あまり信じたくはなかったが、宰相はジゼルの思いと裏腹に、あっけなく頷いた。


「あれが子供の頃は、本人が疲れたと思うと同時にぱたっと倒れ、そのまま寝ている事が大半でな。探して回るのに、家人はおろか隣家のベルトラン家の者まで、大変な苦労をしたものだ」


 穴を潜って行き来が出来たため、どちらで力尽きているのかわからないというおまけ付きで、昔から家人達は眠っているシリルを探してきたらしい。

 ジゼルはようやく、あの家の家人達が、寝ている最中に行方がわからなくなった時のシリルの対応に、やけに慣れている理由が、ほんの一年二年の実績によるものではなかった事を知ったのだ。


「……もしかして、シリル様に子供ができたら、その子もそうなるんでしょうか?」

「……君に似ると良いな」


 宰相は、ジゼルの疑問にあえて答えることなく、そう言ったのだった。


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