花開く その思い 12
その声を聞いたシリルは、しばしの硬直の後、誰の眼にも明らかなほど、狼狽した。
「シリル!」
再び響いた声に、ビクンと身を竦ませたシリルは、その直後、驚くべき早さで遁走した。
黒猫のノルは、シリルが食堂から走り去るのを追いかけたが、リスはなぜか、ジゼルの顔を見上げ、首を傾げていた。
ジゼルは、逃げ出すシリルの姿を呆然と見送りながら、その姿に既視感を覚えていた。
出会って間もない頃、シリルは母親から同じ調子で逃げていた。
苦手というのを隠すことなく、話をするとなれば常に尻込み。自分には絶対に説得できないと言い切った姿は、ある意味潔いほどのすがすがしさだった。
それを思い出しながら、ジゼルは、シリルとは逆の方向に向けて駆け出した。
「シリル! どこにいる!」
ジゼルは、この声に聞き覚えがあった。
ただし、その時は、その人がこの様に声を荒げる事など、あるはずもないと思っていた。
ジゼルが、慌てて外に出た時、その人はまだ馬の上にいた。
周囲を、呆然とした兵士達に囲まれながらも、それにはまったく意識を向けていない。まだ興奮がおさまらないらしい馬をいなしながら、砦に厳しい視線を向けていた。
「……宰相閣下」
その予想通りの人物の姿に、ジゼルは呆然と立ちすくんだ。
その青灰色の瞳は、今は怒りのためか、相手を射殺さんばかりに爛々と輝いていた。
外套を身に纏っているが、おそらくここまで、全速力で王都から馬を乗り継いできたのだろう、その姿は以前見た、整った様子からはほど遠いものだった。
真っ白だった髪は、砂埃で汚れていた。白いからこそ、その汚れは否応にも目立つが、宰相はそれを気に掛ける様子もない。
革袋をいくつか腰にぶら下げ、馬の鞍にも荷物を括りつけていたが、その全体の様子は、これがいつも国王の後ろにそっと控えている宰相だとは、とても思えないようなものである。
そもそも、公爵ともあろう者が、単身姿を見せる事が信じられない。
ふと気が付くと、砦の遙か向こうに、こちらに向かってくる馬影が見えた。
もしかしたら、あれが、警護の兵なのかもしれないが、だとすると宰相は、その警護すら置き去りに、全速力で来たということになる。
ジゼルは、シリルがここに姿を見せた時点で、誰かは迎えに来るのだろうと思っていた。
婚約にしても結婚にしても、儀式をするなら立会人が必要である。
ジゼル側の立会人はそれこそ家族がいるが、シリルの側は誰もいない状態だった。
呼び寄せるにしても、王都から少し離れたここでは、すぐに駆けつけるというのも無理がある。
だがシリルは、その立会人については何も言っていなかった。ジゼルは、誰が来るか知っていたからこそ、シリルは何も言わないのだろうと思っていたのである。
だが、まさか、父親である宰相本人が来るなどとは、シリル本人も想像していなかったのかもしれない。
国内において、一日の仕事量が最も多いのは誰かと問われた場合、国王よりも先に名前が挙がる人物である。睡眠すらも、とっているのか怪しいとまで言われる人物が、その仕事をなげうって、息子の儀式のためにここに来るとはとても考えられなかったのだ。
「……君か。うちの愚息が迷惑をかける。あれはどこに逃げた?」
ジゼルの姿を認めた宰相は、ようやく馬から下り、足早にジゼルの傍に近付いた。
ジゼルは、その宰相の様子を見て、がばりと頭を下げた。
「申し訳ございません!」
突然のジゼルの謝罪に、宰相の足が止まる。
なにごとかと兵士達も見守る中、ジゼルはそれこそ跪きそうな勢いで、宰相に謝罪した。
「シリル様がこちらに姿を見せられた時、すぐにお返しすることなく今までおりました。宰相閣下には、私のような者が、シリル様のお心を煩わせた事、ご不快の事と存じます。申し訳ありませんでした」
宰相は、ジゼルのその謝罪に、一瞬怒りを忘れたように眼を瞬いた。
「……ああ、違う」
「え?」
「あれは、君に求婚しに来たと聞いている。その事自体はなんの問題もない」
「……え? 問題、無い?」
あっさりと告げられたその事実に驚き、ジゼルは許しもないのに思わず顔を上げ、宰相の表情を凝視していた。
「あれはもう、貴族ではない。あれ自身の結婚に、国が関わる事も無い。子も産まれないならばなおさらの事、政略の駒となる必要もない。あれの勤めは大変なものだ。本人が傍に置き、心安らぐ存在があるならば、それを妻とするのになんの異論もない。故に、あれ本人が望んで求婚に来たならば、我らには止める意思はない」
ジゼルは、ぽかんと宰相の顔を見上げながら、呆然と呟いた。
「あの、でも、シリル様は……子供もできる可能性はあると……言っておられまして」
「もちろんだ。調べた限り、魔術師に子ができる可能性は皆無とは言えない。だが、出来たとして、魔術師の数百人に一人の可能性と言われては、それを国が当てにすることはできない。……君は、この世界に、どれくらいの数の魔術師が居るか、知っているか」
「え、いえ……」
「その能力の差異はあれ、魔術師というのはすべて特異な能力を持っているため、脅威とされている。故にその存在は厳重に管理されるため、その数も各国に知らされている。登録されているのは現在二千百七十人。そのうち、既婚者が九百九十四人だ。そのうち、どれほどの数、子があると思う」
「……わかり、ません」
「二人だ。現在、魔術師から産まれた子供は、魔術師二千百七十人に、たった二人しかいない。過去を合わせてみても、その数は手の指に足りるほどしかいないのだ。その僅かな可能性のために、我が子にこれ以上の枷を掛けるのは我らの望みではない。――だから、私がシリルと話し合わなければならないのは、君の事ではない」
宰相の拳に、ぐっと力が込められた。ギリリと歯を噛みしめた音が聞こえた気もする。
だが、ジゼルは、宰相が、身分違いの結婚以外の何にここまで激怒しているのか、それこそ見当もつかなかった。
「シリルはどこに逃げた。どうしても、あれに直接言わねばならぬ事がある」
「は、はい……」
ジゼルは、宰相に圧倒され、それ以上何も言える事が無く、中に案内した。
宰相は、鞍に縛り付けていた革袋を下ろすと、それを自らの手で運びながら、ジゼルに付いてきたのだった。
ジゼルは、宰相を案内して、この砦の中で、もっとも頑丈な扉の前に立った。
この砦の中で、隠れるとしたらもっとも適した場所。
――つまり、現在、一家が籠もっている会議室である。
リスは、ジゼルをここに案内し、扉の前にぺたりと座り込んでいる。つまり、シリルはここにいるのである。
もともとシリルの魔法で作られているリスだが、守護する都合上、その意思はジゼルを優先しているらしい。
困惑したような表情で、不安そうに鳴いているリスを、ジゼルは抱き上げてここまで案内してきた労をねぎらう。
「ここか?」
「は、はい、おそらく……」
頷いたジゼルは、扉の前を宰相に譲り、その横に控える事にした。
宰相は、まずはその扉を軽く叩いた。
「シリル。ここにいるのか。出てきなさい」
「……なんで、父さんがここにいるんですかっ。仕事はどうしたんですか」
「居るなら出てきなさい」
「やです」
びきっと、宰相が凍りついた。
「……いい年をした男がやですとはなんだ! いいからとっとと出てこんか!」
扉を破壊しかねない勢いで叩きはじめた宰相を、慌ててジゼルは宥めた。
「あっ、あの、この扉の中には、おそらく母と妹たちもおりますので!」
ジゼルは、慌てて宰相を扉から引き離し、自分が変わって扉の前に立った。
「母さん、オデット、ソフィ。そっちにいる?」
ジゼルは、あえてシリルではなく、自分の家族に向かって言葉を掛けた。
「全員いるわよー!」
母からの返事に、ほっとしつつも、中の状況を尋ねてみる。
「扉、塞いでるの?」
「塞いでるというか、シリルさんが押さえてるー」
「あっ! しーっ!」
元気に答えたソフィに、シリルが慌てて口止めをしている様子が伺えた。
「物で塞いでいるわけではないのね?」
「鍵だけよ。シリルさんがべったりくっついてるけど」
母、ソフィ、オデットからの返事で、中の状況を大まかに把握したジゼルは、静かに本命に話しかけた。
「シリル様。扉を開けてください」
「やだ」
瞬間、扉に殴りかかろうとした宰相を慌てて止めて、ジゼルは必死で扉に向かって説得を開始した。
「シリル様、どうしてそんなに、ご両親から逃げるんですか?」
「……昔から、正面で話していても、話が通じたためしがない。気が付いたら、あちらの都合のいいように話をすり替えられるんだ」
「でも、逃げてばかりいてもしょうがないですよ。それにシリル様。今回お父様は、別にシリル様に何かして欲しいとか、そういう事ではなく、ただ伝えたい事があるようですよ」
「だったら扉越しでいいはずだ。直接顔を見てまで、話す必要はないはずだよ」
あくまで、扉は開けないと言い張るシリルに、宰相の方が先に折れた。
「お前、ファーライズの儀式を受けるそうだな」
「はい」
「ファーライズの儀式は、お前の場合、すでにいくつか受けている。その枷の重さを理解した上での事か」
「もちろんですよ。ちゃんと聖神官殿にも尋ねましたし」
「つまり、命に関わることであることを重々理解した上でか」
「当たり前じゃないですか。私がファーライズの儀式を受けるの、今回で四回目ですよ。誰よりわかってます」
そのシリルの言葉を聞いた瞬間、宰相の表情が一変した。
まさに、一瞬で、抑えていた怒りがすべて開放されていた。
「貴様はその命をかける儀式の立ち会いに、親が生きているにもかかわらず梟を立てるつもりだったのかこの馬鹿者が!」
その怒りのこもった響く声を真横で受けていたジゼルは、しばらく鳴り止まない耳鳴りに耳を押さえつつ、今宰相が告げた事を頭の中で反芻した。
命をかける儀式で。
立ち会いが。
梟。
「……え?」
そのとき、ジゼルは、見てしまった。
宰相が身につけた外套の下で、腰にぶら下げている革袋。
――それは、ただの革袋ではなかった。
革袋から頭だけを出したみのむしのような姿で、なにかを達観した表情の梟が、黄昏れながらぶら下がっていたのである。
「……師匠、さん?」
「……くるるぅー」
力なく成された返事に、ジゼルは愕然としながら、みのむし梟と宰相を、何度も何度も見比べたのだった。




