花開く その思い 2
祠は、ガルダンの街のほぼ中央に位置していた。
その側に建てられた鐘楼の鐘が街中に響き渡り、この町の時は廻る。
朝一番の鐘は、水神の祠の入り口が開けられ、礼拝が開始されたことを知らせるためのもの。そしてその次の鐘が、一の鐘。町の市の開始を知らせ、船乗り達はその音で沖に船を出す。
しかし、今日は、どの船も港に停泊したまま、動く気配がなかった。
その船の主達は、皆、この町ではじめて起こる神の奇跡を目にするために、祠に詰めかけていたのだ。
今、祭壇の前に、一人の女性が立つ。
彼女は胸を張り、神像を見上げていた。
水の女神ヒューペリルの、人の背ほどの立派な神像の前には、ファーライズの聖神官が立ち、その隣には、この祠の管理者である水神の神官が、聖神官の補佐として書類を手にして立ち会っていた。
「汝、ティーア=カリエ。主神ファーライズの降臨に際し、己を偽ることなく誠実なる心にて誓約すべし」
静寂の中、聖神官の口から、誓約の文言と、教典の一部が読み上げられ、そして神の降臨を願う祈りが始まった。
聖神官は、祭壇の上で杖を振り、緩やかな足取りの舞いを奉納する。
静かな中で、聖神官が降る杖につけられた飾りがさらさらと微かな音が響く中、シリルは突然、神像の上に目を向け、呟いた。
「……ファーライズが見ている」
「……え、本当に、神様がいらしているんですか?」
「今、道が開いてる。そこから見てるんだ」
シリルの視線の先を見ても、変化は全くない。神の姿を描いた壁画があるばかりである。
直後、聖神官がその舞いを止め、高らかに宣言した。
「神の降臨は成されり。汝の誓約の文言を述べよ」
聖神官に促され、母は顔を上げ、にこりと微笑むと、祠の隅々にまで響き渡る声を発した。
「私は、私の子供達の血筋について、嘘偽りを申しません」
母の言葉に答えるように、聖神官の持つ杖の先が、淡く光り輝きはじめた。
「誓約は神に届けられた。汝、神と見届け人の前にて宣誓せよ」
光る杖をそっと額に当て、聖神官がそう告げると、母は笑みを消し、神像の顔を見つめた。
「神の御前にて、嘘偽りなく宣誓致します。私、ティーア=カリエは、夫レノー=カリエと結婚したその時、夫の手により純潔を散らし、そして今に至るまで、一度たりとも他の男を受け入れたことはございません。ですから、私の子供は、上のジゼルから、今お腹にいる子まで、すべて間違いなく、夫レノー=カリエの実子です!」
かつて歌姫と呼ばれた母の声が、歌うように滑らかに、言葉の一節に至るまで明瞭に祠中に響き渡る。
娘達は、その宣言の内容に、全員が目を剥き、勢いよく立ち上がっていた。
母の誇らしげな笑顔に、娘達は全員気が抜けたように、再び椅子にへたり込んだ。
「オデット……変わりないって言ったじゃない!」
「私も知らなかったもの!」
長女と次女が小声で言い合いをしているその横で、三女はぽかんと母を見つめていた。
「そういえば、最近、ちょっと丸いかなとは……思ってたけど……」
その視線の先で、母は聖神官に、にこやかに告げていた。
「以上、宣誓致します」
聖神官は、母の言葉に、頷きを返す。
「今、宣誓は成された」
聖神官が、手に持つ杖を神像に向けて捧げ持つ。
淡く輝く杖から、光が帯状に天に向かって登っていく。それはまさに、奇跡の光だった。
神像のちょうど上あたり、先程シリルが見つめていたその場所に、光は吸い込まれるように消え、そしてその一瞬後、そこから、鮮烈な、目を焼くような光があふれ出した。
視界が光に奪われ、そして目を開くと、その場で母は、そのままの姿で変わりなく立っており、聖神官は先程まで光っていた杖を、両手でしっかり握っていた。
「汝、ティーア=カリエ。その宣誓、神の元に受諾されたものなり。この宣誓に異議在りし者、神の御前にてそれを唱えるべし」
祠の中にゆっくり視線を廻らせ、聖神官は人々を見渡した。
祠の中で、一連の儀式を見守っていた全員が、呆然と胸を張る一人の女性を見つめていた。
誰もすぐに異議を唱えることもできず、顔色を悪くする中、ただ一人、立ち上がった人物がいた。
「……この儀式は、本当に意味があるものなのか?」
立ち上がったその人物を見て、父は顔を顰め、唸った。
「兄貴……」
オデットとよく似た焦げ茶の髪と、緑混じりの茶色の瞳を持ったその人物は、確かにレノーに似た容姿をしていた。父にとっては実の兄であり、そして娘達にとっては伯父に当たるその人は、ジゼルを見て、何度も首を振りながら、聖神官に質問を繰り返す。
「水神の誓約は、我々とてよく目にするものだ。だが、かつてその誓約が破られたからと言って、神罰が下る姿など、見たこともない。たとえ主神とて、そうなのではないのか。今、あなたは杖を光らせ、この場に閃光をもたらしたが、それが神が与えたもうた物だと、我々にわかるようにご説明いただきたい」
その人が母と娘に向ける視線は、昔からまったく変わらず、今も冷たいままだった。つい先程まで行われていた儀式を信じることができずにいるようで、その懐疑的な視線を祭壇に向けていた。
周囲にいる人々も、その姿に習ったように頷く者もあり、そこから祠にざわめきが広がっていた。
「……おやめになった方がいいですよ?」
そのざわめきを一瞬で再び静めた暢気な声は、家族の傍に立っていたシリルの口からもたらされたものだった。
「異議を唱えるなら、あなたは宣誓をファーライズに向けてしなければなりません。あなたは、自信を持ってその宣誓ができますか?」
神像の上に視線を向けたまま、シリルは暢気な口調で説明した。
「……君は何者だ?」
「シリルと申します。魔法技師をしています」
「魔法技師?」
「魔法が使える者なら、今この場に神の眼があることは、寸前まで意識を失っていた者でもわかります。今のところ、神はお怒りではないようですが、元々ファーライズ神は、破壊と創造の両方の顔を持つ荒神でもある。ご機嫌を損ねれば、聖神官殿が命をもってお鎮めするしかありません。ご機嫌を損ねない方法はただひとつ。正式な誓約と宣誓にて、信を問う事。聖神官殿にお尋ねします。もう一度、宣誓をこの場で行うことは可能ですか?」
シリルの問いに、聖神官は頷いた。
「神はまだこちらにいらっしゃいます。召喚の必要もなく、そのまま儀式をしていただけますよ」
「カリエ夫人は、同じことを何度宣誓しようと、神罰が下されることはないでしょう。それはあの方の言葉が真実だと、過去から現在まで全て見ることができる神の眼が認めたからです。あなたの宣誓はいかがでしょうか。もしお試しになるならば、あなたの命を掛けて行ってくださいね」
「命だと?」
「ファーライズの誓約は、それが果たされない場合、己の身の一部で償わなければなりません。婚約の不履行ならば、その対価は腕一本。不履行が認められた瞬間に、利き腕が突然消え去るのだそうです。そしてファーライズは、その不履行を行った人物の命には無頓着です。その痛みや出血でその人が亡くなろうと、まったく構わないのですよ。……ジゼル嬢が産まれてから今に至るまで、カリエ夫人が受け続けた侮辱への対価は、いかほどでしょうね?」
シリルは首を傾げながら、レノーの兄を視線で射る。
その視線で縫い止められたように、その口が開く事はなく、ただ忌々しそうな視線が、シリルとその側にいた母娘に向けられていた。
「私は、何度でも言うわよ。私の男はレノーだけ! それ以外の男との間に関係なんか無い。子供達はみんなレノーの子よ! ……私とレノーの子供達を、これ以上侮辱しないでちょうだい」
母は、ゆっくりと祠の人々を見渡した。
そして、娘をその腕に抱きしめた。
腕に抱く娘を守るように、しっかりとその顔を胸で受け止め、周囲を強い視線で威嚇する。
「兄貴。……昔から、俺は言ってたはずだ。もう構ってくれるなと。家ならとっくに縁を切った。ただ妻と子を傷つけるだけの家ならいらんと言っただろう。今、ティーアは身の潔白を証明した。これ以上何が望みだ」
「この儀式自体の正当性だ。ファーライズの誓約などという、貴族達が行うような事を、どうしてただの女の、身の潔白を証明する手段に使えたりなどするのか。そんなの、できるはずもないだろう。いざ見てみたら、ただの魔法で事足りるような事を見せられただけで、どうやってこの儀式が真実神の前で行われているのかわかりかねるものだった。儀式自体がまがい物なら、その女の身の潔白とて、証明された事になりはしないだろう」
その言葉が告げられたと同時に、聖神官とシリルは、慌てたように同時に、神像の顔部分に視線を向けた。
「……あなたのその言葉に、神が反応しました」
聖神官の言葉に、全員が、その二人に習うように神像の顔部分に視線を向けた。
「怒り……ではないですね。むしろ……呆れてる?」
「そうですね。お怒りではないようだ……」
安堵の表情を浮かべた聖神官とシリルが、同じように首を傾げた。
その時だった。
祠の外から、突然、鐘の音が響きはじめた。
「誰です、鐘を鳴らすのは。まだ時間ではないはずですが」
慌てたように、水神の神官が外に飛び出していく。しかし、鐘の音は、傍から鳴り響くだけでは済まなかった。
街中にある鐘が、同じように鳴り始めたのである。
時を告げる祠の鐘楼の鐘。灯台にある、船に合図を送るための鐘。港で客船が出航を告げるための鐘。そして、来客を告げるために家々につけられた小さな鐘。
それらが、まるで呼応するかのように、一斉に街中に鳴り響いた。
「これは……」
唖然とした聖神官は、言葉すら発する事ができず、ただ神像の顔を見つめていた。
シリルは、しばらくそちらを見て、そしてくすくす笑いはじめた。
「わかりやすい奇跡だろう、そう神が仰ってますよ」
シリルがそう告げると、祠の人々は、揃って愕然とした。
「分からず屋にもわかるように、見せてあげる、だそうです」
そうシリルが告げたとたんに、祠の中は、突然濃厚な花の香りに包まれた。
そして、ひらりと、何かが降り注ぐ。
「なっ……」
それは小さな花びらだった。
それが、静かな雪のように、祠中に舞い降りている。
そして、その小さな花びらに紛れるように、花冠がひとつ、神像から現われた。
それはくるくると回転しながら、過たずに母娘の元へと舞い降りた。
手にした花冠は、見た事もない不思議な植物でで作られた物だった。
その花びら一枚一枚が、まるで真珠のように七色に輝き、硝子細工のように透明な、それでいて触れると赤ん坊の肌のような柔らかな手触りの不思議な蔦植物で、その花冠は織り込まれていた。
「……まあ。こんな花、見た事がないわ」
「それは、ファーライズの国花。精霊の女王ルシスの御座所となる、人の世には無い花樹ルシスの花。手折る事を許されぬ、神聖な花です」
聖神官が、花冠を確認して、厳かにそう告げた。
「それを手折るのが許されるのは、神と、神に認められた御使いであらせられる、陽と月の巫女のみです。それはおそらく、どちらかの巫女の手によるものでしょう」
「……そんな立派な花冠が、どうしてここに?」
「神から、あなたとあなたの子への慰めにと授けられたのです。この、枯れぬ花を宣誓の証とせよとの神託が下されました」
その間、誰もそこを動かなかった。
先程まで、疑念も露わだった伯父の表情は驚きで固まっており、ただ神の像を見上げていた。
呼吸すら憚られる静寂の中、聖神官は高らかに宣言した。
「この誓約の成立を、主神ファーライズの御前にて宣言する」
それは、母の言葉がすべて正しいことを、すべてに認められた瞬間だった。
「……母さん」
「ほら、ジゼル。母さんの言ってたことは正しかったでしょう? あんたの父親はレノーよ。神様も認めてくれたわよ!」
「……母さん、ありがとう。……こんな事をさせて、ごめんなさい」
「まあ、こんなこと何でもないわ、ジゼル。今まで、真実は私にしか言えなかった。だけど、本当は神様も見ていてくださって、それを教えてくださった。ただそれだけでしょう?」
娘の銀の髪を、愛おしげに撫でながら、母は微笑んだ。




