殻を破る時 10
「ほほほほほ」
「ははははは」
目の前で繰り広げられる、一見すると和やかなよくわからない戦いの前で、ジゼルは父と並んで座っているソファの隅で、どうしていいのかわからず必死で意識を逸らそうとしていた。
前日、夜会の後、そのまま王家の離宮で宿泊したジゼルの元へ、父が訪ねてきたのである。
ここには、ジゼルの保護責任者であったバゼーヌ公爵夫人も宿泊しており、丁度よいからと挨拶に来たらしい。
バゼーヌ公爵邸で会うよりも、こちらの方がいろいろ手続きが楽なのだという父の言い分に、それで良いのかと思いながらも頷いたわけだが、離宮の応接間で、父と公爵夫人は半刻ほど平行線な会話を続けているのである。
父が、珍しくもまともに騎士服をきっちりと身につけ、小柄な貴婦人に騎士の礼をしている姿は、ジゼルの目から見ても何かの冗談のように見えた。
なにせ、ジセルが知る父の姿は、常に服のボタンは留められておらず、タイもカラーもカフスも、息苦しいの一言で剥ぎ取られた、本来の姿をとどめていない服装である。夏ならそもそも、騎士らしさの欠片もない、船の船員のようなシャツとズボン姿である。かろうじて騎士の紋章が入った武装はしているが、それがなければ討伐される側の海賊と変わらない姿をしているのだ。
まともな礼服もあったのかと、まずそこで唖然とし、そしてちゃんと礼を取れるのかとそこでも驚いた。
もっとも、その姿は、借りてきた礼服を着込んだ熊にしか見えなかった。
いつも、騎士服は母が縫っていたように思うのだが、これもそうなのだろうかと、ジゼルは珍しい父の姿をはじめはぼんやりと眺めていた。
思えば、一応父も隊長職で年に一、二度は王都に出張していたのだから、こうして騎士の礼儀作法を心得ていて当たり前なのだが、普段の父の姿からすると冗談にしか見えなかった。
父と公爵夫人の交渉は、のらりくらりと続いていた。
ジゼルが一度ガルダンに帰るのは確定しているのだが、その後について二人が意見を交わしており、父はそのまま家にとどめる、公爵夫人は王都の公爵邸で正式に雇いたいと、お互いが主張し譲らないのである。
だからといって、この会話にジゼルが参加する事もできず、どうしようもない。
まず、公の場で父の決定に娘が口を挟む事は許されない。
そしてジゼルは、公爵夫人に口でかなうはずもない。
――ジゼルは、昨夜、戻ってくる事をシリルに約束した。
だが、戻る場所は公爵夫人の元ではない。バゼーヌではなく、シリルの元へ戻るのだ。
公爵夫人に雇われるという事は、バゼーヌ公爵家の使用人となる事を意味している。
それは、ジゼルの望む事ではない。
だが、それを今、この二人に告げる事はどうしても躊躇われた。
その為、どんどん時間だけが過ぎているのである。
公爵夫人相手に真っ向から意見し、相手の要求を突っぱね続ける父は、まったく苛立つ様子もなく、公爵夫人と共にふふふはははと笑いあっている。
まさかこの豪快な父に、腹芸ができるとは思わなかった。
今までの父とはまったく違う意外な姿を見て、ジゼルは困惑するばかりだった。
終わりどころの見つけられないその舌戦は、結局時間切れで幕切れとなった。
公爵夫人がここを出立する時間になったのだ。
バゼーヌ家の執事が、公爵夫人に時間を告げた時には、ジゼルは一言も話していなかったはずなのにぐったりと消耗していた。
「カリエ小隊長。またお会いしましょうね。ジゼル、あなたの荷物は、離れでそのままにしてあります。ガルダンに帰るまでに取りにおいでなさいね」
「はい。これまでのご厚意に感謝致します。ありがとうございました」
ベルトラン侯爵夫人とそしてバゼーヌ公爵夫人。二人の貴婦人に学んだ淑女の礼で感謝を示すジゼルを、公爵夫人は優しい笑みで頷き、この場から立ち去った。
「やれやれ。さすがディオーヌ様。一筋縄じゃいかねえなあ……」
「……父さん。あんなに遠慮なく公爵夫人に言ってしまって大丈夫なの?」
眉間に皺を寄せている娘に、その皺を大きな手で伸ばしながら、父はがははといつものように笑った。
「あの程度で首を切られるなら、とっくの昔に俺の首は城壁にでもぶら下がってる」
今まで、王都の貴族の方々相手に、いったいどんな態度を取ってきたのかと問いたかった。その答えは、きっとジゼルに教えてもらえるような事ではないが、少なくとも父はどこまでいっても父なのだというのはよくわかった。
父と並んで部屋に向かいながら、ジゼルはいつ言うべきか悩み続けた話題を、意を決して父に告げた。
「父さん。あの、お願いがあるの……」
立ち止まった娘に、父は怪訝な表情を向け、その話の先を促していた。
ジゼルは、事の次第を父に伝え、母にファーライズの誓約を受けてもらえるか父に尋ねた。
父は、その話を真剣な表情で聞いていた。
この話題が、父にとって愉快な物ではない事はジゼルにもよくわかっていた。
両親は、ジゼルにずっと言い聞かせてきた。
お前は自分達の子供だと、間違いないと、ずっと言い続けていた。
――しかし。
ジゼルにとって、強面だが優しい父と、美人で陽気な母は、自慢の両親だった。
だからこそ、自分の容姿のせいで、その二人にずっと不名誉な噂がつきまとうのが辛かった。
ここに来て、シリルに出会い、この髪と瞳に意味がある事を教えられた。
フランシーヌは、今まで諦めて受け入れるしかできなかった事を、はね返す機会を与えてくれた。
「神様の中で一番の、主神ファーライズが証明してくだされば、みんなに信じてもらえるわよね?」
父は、今にも泣きそうな娘の顔を見つめたまま、その表情を変えた。
野獣だ悪魔だとさんざんな評価をされるその顔が、涙で瞳を潤ませた娘を前にして、優しい父の顔に変わっていた。
「……あの噂で一番辛い思いをしたのは、なんにもしてねえお前だ。なんにもしてない、なんにもできないお前が、一番責められる事になっちまった。ティーアは、自分の行動を恥じた事なんざ一度もないだろうが、お前はなんにもわからねえまま、ただ噂の的にされて後ろ指指されてきた。そんなお前の頼みを、聞かねえ訳にはいかんだろう」
よしよしと大きな手がジゼルの頭をそっと撫でた。
「心配すんな。俺もティーアも、どんな神様の前でも堂々と宣言してやるぞ。お前は俺達の血を受け継いだ大事な娘だってな」
いつもは、遠慮も力加減も無しにぐいぐいと撫でるその手が、こんな時だけ、壊れ物を扱うように優しい手になる。
「せっかくの、お前の友達の厚意だ。ありがたく受ける。俺やティーアなら大丈夫だ。お前が望むなら、いくらでも神様の前に立ってやる」
「ありがとう、父さん」
ぎゅっと大きな父の体に抱きつくと、父は嬉しそうに相好を崩した。
「じゃあ、あっちに帰るのは、その神官様と一緒に行かないとな」
「そうなの?」
「どっちにしろ、ファーライズの神官様なら、ガルダンの港から船に乗って帰る事になる。それなら、そのついでにその誓約とやらもやってもう事になるだろう。となりゃ、一緒にいかねえと、こっちの都合に合わせて、時間をとらせるわけにはいかんだろうからな」
父は、そう言うと、その予定を合わせてくると言って、あっという間に姿を消した。
思いたったら即行動の父は、その日のうちに、出立日を二日後と決めてきていた。
それからの二日は、想像よりも早く、あっという間に過ぎていった。
父が出立日を決めたその日のうちに、ジゼルの居場所は、離宮から父が宿泊する王国軍の官舎の一室になった。
そこからバゼーヌ公爵邸に赴き、荷物を纏め、屋敷の世話になった人々に別れの挨拶を済ませる。
マリーは、ジゼルをぎゅっと抱きしめ別れを惜しみ、離れの当番をこなしていた侍女達は、急な別れで何もできないと悔しがりながら、屋敷の使用人全員が少しずつお金を出しあって買ったという猫のレリーフが入ったブローチを贈ってくれた。
バゼーヌ家での別れを済ませたその足で、今度はベルトラン侯爵邸に赴き、フランシーヌ宛の手紙を預けた。
現在、フランシーヌは、ベルトラン家の正式な婚約者になった事で多忙を極めていた。
今は、このために休暇まで取っているエルネストと共に、挨拶回りでほとんど屋敷にいない状態で、個人的な用件で時間を取ってもらおうにも、何日も待たなくてはいけない状態だった。
直接の挨拶もなしに王都を去るのを申し訳なく思う事を伝える言葉と共に、出立日と現在の宿泊先を手紙には書き添えた。
あの夜会の後、ジゼルの周囲から不審な影は消えていた。
あの会場で浮き彫りになったのは、王太子を侮り、次世代の権力を欲して他者を貶めることを平然と行う者達だった。
その中でも、特にその行いが目に余った一部の貴族を王太子があの会場で選定し、それぞれに調査が入った事を知らされた。
あの道中襲ってきた者達と、直接送り込まれた刺客は、それに繋がる貴族が判明し、罰せられた。
クレール家は、謹慎中にベルトラン家に直接剣を向けた事により、修道院に入った娘を除き、皆が断罪され、家は取りつぶしとなった。
会場でジゼルにからんだダントリク侯爵家は、その行動に監視がつけられる事とはなったが、その行いは罪とはならず、処分はされなかった。
クレール家は言いがかりでジゼルを追い詰め、さらに手を出した事が断罪された元となったが、ダントリク家はあくまで聞いた噂を話していただけであり、それは決定的な罪とはならなかったのである。
そのすべての裁決が、王太子主導で行われていた調査を元にしており、これによって王太子の手腕と、即位後の治世の安泰が囁かれる事となった。
結局その後、シリルはまったく姿を見せなかった。
ただでさえ舞踏会の後始末で慌ただしい中、エルネストが二日ほど休みである故に、王太子の側近としてシリルはずっと王宮に詰め、それこそ寝る間もなく働きづめなのだと、官舎に住まう騎士達はジゼルに説明した。
最後、馬車で出立する寸前に、フランシーヌが駆けつけ、再会の約束をして馬車に乗り込む。
最後まで手を振るフランシーヌに、ジゼルもその姿が見えなくなるまで、馬車から手を降り続けた。
王都での暢気な侍女生活と怒濤のような特訓の日々に別れを告げ、ジゼルは父とともに帰路につく。
箱馬車の屋根には、侍女として生活した間の報酬として贈られた衣服と布。そして最終日に父を駆り立て、慌てて買い求めた妹たちへの土産が山と積まれている。
その荷物の隙間から、するりと延びていた白銀の尻尾に誰も気付く事のないまま、旅は平穏無事に続いたのだった。




