殻を破る時 7
会場を連れ出されたジゼルが初めに見たのは、庭のあちこちで忙しく立ち回る兵士達の姿だった。
王太子が近くにいた兵士を捕まえて尋ねると、どうやら数人の侵入者が確認されたらしく、異常がないか、調べていたということだった。ついでにとばかりにシリルの居場所を尋ねると、中庭の噴水付近で、警護の指揮をしているという答えがあり、そのままそこに手を引かれながら移動することになった。
「あの、殿下。私はもう部屋に戻ります。侵入者がいたようですし、危ないですから、どうぞ広間にお戻りください」
「いや。侵入者がいたのならなおのこと、ちゃんとシリルの元に送る。ここでお前を置いていくと、ただでさえ今は機嫌が悪いだろうに、次に会った瞬間八つ当たりされかねん」
まるで何か、恐ろしいものの話でもするように、顔をしかめて身を震わせた王太子に首を傾げながら、手を引かれて素直に歩く。
「先程は、すまなかった。会場でも、あそこまで離れるつもりはなかったが、どうやら親子それぞれの集団で口裏を合わせ、連携して私達を引き離したようだな」
「そうなのですか?」
「ああ。お前に話しかけていた令嬢は、ダントリク侯爵家の次女だ。ダントリク侯爵も、それいがいの取り巻きの親たちも、見たところ全員私の所にいたようだ。あの親の集団は、以前は互いに啀み合ってばかりだったが、どうやら私の妃候補の座を空にするという目的においてのみ、手を組むことにしたようだな」
忌々しそうに王太子が告げるのを聞いて、ジゼルは首を傾げた。
「……あのご令嬢は、殿下のお妃候補ですか」
「いや、あれの姉が、私の妃候補に入っていた。ダントリクには、十八と十五の令嬢がいて、あれは妹のほうだ」
ジゼルは、その答えに納得して頷いた。
王太子のお相手としては、少々年若すぎると感じていたのだ。
そのわりに、あの集団の中では代表だったのが、気になっていた。
「じゃあ、お姉様のために、私に話しかけたんでしょうか」
「どうかな。あそこの姉妹の仲は、あまり良くないと聞いている。やらせたとしたら父親だろうが、ああやってお前に当たれば、ダントリク家自体が窮地に陥る可能性があるのを、気が付かないほど愚かな娘というわけではない。おそらく自身が何らかの目的があるからこそ、引き受けたのだと思うがな」
その令嬢自身の目的とやらは、ジゼルにはわかりようもない。
だが、もう一つの目的に関しては、簡単に推測できるものだった。
「……ですが、あれは、私が本当に殿下の婚約者候補だとしたら、有効だったと思いますよ」
「そうか?」
「ええ。私との会話で、私からガルダンという地名が出さえすれば、あとはおのおの誰が調べても、ガルダンのジゼル=カリエというだけで、あの噂は出てきます。だからあの場でその噂を匂わせさえすれば、私が肯定しようと否定しようとあの令嬢の目的は達せたのだと思います。あの噂の真偽は、今まで誰も確かめようがなかったんです。ただ予想外だったのが、フランの言葉だったというだけです」
ファーライズ神の誓約は、高位貴族や王族、国家間のやり取りで、互いの信頼を表すために使われる物だが、一般にはその詳細な使い方など、ほとんど知られていない。
ジゼルも、その知識は、故郷にあった水の女神の祠で、ほんの少し学んだ程度だった。
「あの、殿下。先程フランが言っていた、ファーライズの誓約というのは、本当にあのような使い方ができるのですか?」
「……できる。まあ、誰もそんな事を試そうとは思ったこともないだろうが」
王太子は、一瞬の沈黙の後、きっぱりと言い切った。
ファーライズの聖神官は、すべての神々の頂である主神ファーライズの御座所がある、ファーライズ神聖公国にしか存在しない。
その国は、世界の中央にある小さな島国であり、周囲は荒れた海で覆われている。
その海を渡るためには、その国にしか存在しない竜騎士の手を借り空を飛ぶか、神から認められ、その海を越える許しをもらった特殊な船でしか出入国できないとされている。
そんな特殊な手段を使わないと行き来できない国から神官を派遣してもらい、その誓約を見届けてもらうことは、そもそもそう簡単にできることではない。普通の神殿でも、他の神を信奉する神官を見届け人として、婚約や結婚の誓約は受け付けているのだ。
ただ、ファーライズ神の誓約は、他のどの神の物より、厳格であるだけだ。
故に、結婚の場合、婚約の誓約はファーライズで、結婚の誓約はそれ以外の神の元で、というのが、最も多い形となっている。
しかしジゼルは、目に見える形の神罰まであるとは、知らなかった。
「本来、絶対破ることが許されない、神への誓いだ。それをまさか、子供の父親が誰なのかを尋ねるために使うなどという発想が出来るはずもない」
「……その誓いは、一度してしまうと、一生破れないのですか?」
「その誓いを破棄したい場合、再びファーライズの聖神官を召喚し、神への神託を乞う。それで認められなければ、破棄はできない。もちろん、神が認めず、破棄ができなかった状態でも、それが果たせない場合は、神罰だ」
だからこそ、国家間のやり取りに使われるのだと、王太子は真剣な表情でジゼルに説明した。
「……もし本当にベルトラン家から申請が出るならば、王家からも一筆出そう。連名となれば、侯爵家だけで出すよりも、あちらも融通を利かせてくれるだろう」
ジゼルは、王太子に手を引かれたまま、戸惑いも露わな表情で、その後ろ頭を見つめていた。
「本当に、そのご厚意に甘えてもよろしいのでしょうか。神聖な誓約を、個人のために利用してもいいのですか……?」
「聖神官が認めてくれるなら、なんの問題もない。こんな事では、お前への償いにはならないしな」
「殿下……」
「これは償いではなく、お前の身の潔白を証明する手段でしかない。それを受け、潔白を証明したあかつきには、改めて償おう」
王太子の言葉に、慌ててジゼルは首を振った。
「そ、そんな、償いなど、必要ありません! ……むしろ、殿下は、なぜあの噂について、怪しまれないのでしょうか。その方が、私にすれば不思議なのですが」
「西砦の名物隊長なら、よく知ってるからだ。この国には王子にも従軍義務がある。今も私は軍事演習には顔を出すし、あの容姿は一度見れば忘れん。泣く子は気絶し笑う子は泣きわめく野獣隊長だからな。見た瞬間なるほどと深く納得したものだぞ」
「ならばなおのこと……」
「よく知っていると言っただろう。お前と父親の噂なら、今日言われるまでもなく、その禁句と共にいやというほど将軍から聞いている。それと同時に、誰に対しても態度を変えぬ野獣が、唯一その牙を自らすべて引っこ抜くと言われる相手が、溺愛している妻であることも知っている。妻が浮気を疑われた時点で、お前の父親が何も動いていないことが、お前の母親の身の潔白を証明しているようなものだ」
ぽかんと口を開け、ただ引っ張られるだけになっていたジゼルは、はっと気が付き、王太子に思わず尋ねていた。
「そ、そんなに、父は、有名なのですか?」
「有名だとも。妻可愛さに絶対に西砦から出てこない野獣様だぞ。東砦のは、隣国への牽制として置いているが、お前の父は、本人の希望で動かないんだぞ」
「……そうなのですか?」
「お前からも父に言ってやれ。そろそろ将軍の召還に応じて昇格しろと。ずっと手元に呼び寄せようと声をかけているのに、一向に靡かないといつもぼやいているんだぞ」
「それは、存じ上げませんでした……」
「その理由が、都に出て嫁や娘に悪い虫がつくといけないからだと聞いた瞬間、盛大に気が抜けたぞ」
思わず絶句し、次第に顔を赤く染めたジゼルに、なおも王太子は言い放った。
「ガルダンなら、もう、嫁や娘に色目を使う男はいないから、動きたくないと言い放ったと聞いた。そんな理由で希望が叶うのは、この国ではお前の父くらいなものだ。なまじ海賊討伐で実績を上げてくる分、こちらはそれ以上口が出せないからな」
すでに、穴があったら深く深く潜りたいほどの羞恥を覚えたジゼルは、真っ赤になってうつむいたまま、ひたすら王太子に手を引かれていた。
両手が使えるなら、少なくとも顔は覆って隠したい。
しかし、王太子に引かれている手は、簡単に外れそうにないほどしっかりと握られていた。
――だが、次の瞬間、その手はぱっと外された。
うつむいていたジゼルは、すでにその場所が中庭であることに、気が付いていなかった。
疑問に思い、顔を上げるよりも先に、その腕が引かれ、白い背中に視線を遮られる。
そろりと顔を上げれば、眼に入るのは白銀の後頭部。
「……シリル様?」
その表情は見えないが、その正面にいる王太子の表情は、シリルの肩越しに半分ほど見えていた。
王太子は、あきらかに青くなって、許されるならすぐにでも立ち去りたいとその全身で訴えているかのごとくに逃げ腰だった。
その状況で、一番はじめに動いたのは、すぐさま逃げる体勢をした王太子ではなく、シリルだった。
シリルは、一瞬で王太子との間合いを詰めると、その拳を王太子の腹に、叩き込んでいた。
「……守ると……言っただろうが!」
「ぐっ」
初めて聞いた、シリルの荒げた声と、王太子の姿に驚き、思わず上げそうになった悲鳴を、ジゼルはその手で口を覆うことで防いだ。
どちらになんと声をかけるべきかわからず、おろおろと手を彷徨わせるジゼルに、手出し無用と声をかけて手を止めさせたのは、殴られた王太子の方だった。
「大丈夫だ。十分手加減してある。これくらいなら、問題はない」
殴られた方が言う台詞とは思えないが、実際王太子は、殴られた場所を押さえ、少し咽せながらも、殴られて崩れた体勢を立て直していた。
「お前が守ると言うから、会場は任せたんだぞ。なにを暢気に雑魚に絡まれてる!」
「ああ、悪かった。悪かったから、ちょっと落ち着け」
シリルの肩を押さえながら、必死で宥める王太子は、さりげなくちらちらと、ジゼルに視線を向けてきていた。
「それより、相手はすべて記録できたか?」
「当たり前だろう」
「侵入者の確保は」
「生かして捕らえた。ベルトランではなく、王宮警備隊に引き渡してある」
「よし、上々だ」
「上々じゃない! ジゼルがどうしてあんな目にあわなきゃならないんだ!」
「ああ、だからちょっと……」
再び声を荒げはじめたシリルに、慌ててジゼルはその腕に取りすがった。
「シリル様、大丈夫です」
「なにが!」
ジゼルは、ようやく振り返ったシリルの顔を見て、その目の虹彩が変化していることに気が付いた。
シリルの眼は、感情によって変化する。
開放するのもジゼル。収束するのもジゼル。それならば、この目は、自分のためにこうなっているのだと、ジゼルは自然と理解した。
その顔にそっと手を当て、ジゼルは微笑んだ。
「あのご令嬢のおかげで、私が産まれて十七年間、ガルダン砦最大の謎と言われ続けた私の父親が、神によって証明されます。それを考えれば、あの会場にいたことは、私にとっては人生最大の幸運です」
「……」
「……」
なぜか王太子までぽかんと口を開け、ジゼルを凝視した。
男二人の呆気にとられた表情にも怯まず、ジゼルは言い放った。
「すべて、大成功です。だから、シリル様がお怒りになるようなことは、なにもありません」
そこまで言って、ふと気が付いたように、ジゼルは今まで自分が歩いてきた通路を振り返った。
「むしろ、怒っているのは、エルネスト様ではないですか? せっかくの婚約披露なのに、気まずい空気のままで出てきてしまいました。フランにも、すごく申し訳ないです」
ジゼルがそう告げると、ついに我慢できぬとばかりに、王太子は吹き出した。
しばらく笑い続け、ようやく笑いの発作が治まると、王太子は、ジゼルににっこりと微笑みかけた。
「あちらのことなら、私が戻ろう。本当はこのまま抜け出したいところだが、今日はエルネストとシリルと、そしてジゼルにも、借りを返さねばならないしな。あちらは任せろ。だからジゼル、お前はその毛を逆立てている大猫を頼む」
「……大猫?」
そろりと見上げると、いつのまにやらシリルは顔を真っ赤にして、なにやら視線を逸らしていた。
「では、ジゼルは確かにお前に返したぞ」
それだけ言うと、王太子は素早く身を翻し、元来た通路を戻っていった。
ジゼルは、その背中を見送っていたが、突然手を引かれ、その場を離れた。
先程まで王太子に握られていた手は、今度はしっかりとシリルが握り、ジゼルはその手の感触と白い背中に、心からの安堵を覚え、穏やかな笑みを浮かべていた。




