健やかな成長は優しい眼差しに守られる
それは、いつか聞いた破壊音だった。
あきらかに、何かが何かを豪快に破壊した音である。それが、家中に響いたのだ。
ジゼルはそれを聞いた瞬間、とっさに体が動いた。そして駆けこんだそこは、夫婦の寝室だった。
正面に、見慣れた大きなベッドがある。夫は、そこで相変わらずの寝相で、生きているのか不安になるほど静かに寝ている。
「……あら?」
この家で、一番何かを壊すのはこの夫だった。
あ、とか、う、とかの一言とともに、壁を吹っ飛ばすこともある。
今回の音も、当然この人が原因だと思ったら、どう見ても、自身が抜け出した時から一切の変化が見当たらなかった。
首を傾げたジゼルの耳に、破壊音ではない何かが聞こえたのはその時だった。
「……きゅぅ~ん」
『……ぬけないよう』
養い子の、その泣きそうな声に、ジゼルは夫の寝ているベッドをすり抜け、テラスに飛び出した。
「きゃう~ん。きゅ~ん」
『ジゼルまま、うごけない~。たすけてぇ』
屋根の上に、金色の狼がいた。やんちゃ盛りの養い子は、屋根を踏み抜き、下半身を埋もれさせ、もがもがと暴れている。
目を丸くして、ぽかんと口を開けたジゼルは、こうしてはいられないと再びテラスから部屋に駆けこんだ。
養い子が埋もれているのは、ちょうどこの真上である。
あの破壊音は、調理場にいたジゼルの体が飛び上がりそうな大きな音だったと言うのに、その真下にいる夫は、びくともしていないようだった。
ついでに言うなら、子供達の部屋はこのすぐ隣にあるが、そちらもまったく物音がしない。間違いなく寝ているのだろう。子供達はまだ赤ん坊だし、寝るのと食べるのと出すのが仕事だが、さすがに、あの大きな音の中、二人揃って泣き声ひとつあげずに寝ているのもどうだろうか。
いろんな意味で、若干のいやな予感から目をそらし、ひとまず、ジゼルはがしっと夫の体にかかっている掛け布団を手に取ると、勢いよくそれをはぎ取った。
「シリル様! 起きてください! 一大事ですよ!!」
「……」
ジゼルも、こんなことでこの人が起きるわけがないのは理解している。だが、今日は養い子の一大事である。起きてもらわなくてはならないのだ。
「シ、リ、ル、さ、ま! 起きて! ください!」
シリルの身につけていた薄いシャツを手にとって、その体をゆっさゆっさと揺さぶる。
「シグルドが屋根を踏み抜いてるんです! 私ではもう、あの子を抱えられないんです! お、き、て、く、だ、さ、いぃぃ!」
「……うぅ」
「寝ぼけている暇はありませんよ! さあ、起きて!」
シリルの目が、うっすら開いている。よし、と頷いて、ジゼルは手を離した。
「シリル様。シグルドが、屋根を踏み抜いて、下半身を埋もれさせて身動きが取れなくなっています。なんとかしてください」
「……やね?」
「そう、屋根。ここのだいたい真上です」
「まうえ……」
あきらかに寝ぼけた目差しで、シリルは天井を見つめると、指を一本そちらに向けた。
くるりと輪を描き、それを指で弾いた瞬間、部屋に先程とは比べものにならない轟音が響く。
小さな悲鳴をあげ、頭を抱えてうずくまったジゼルは、その音が収まったあとに恐る恐る天井を見上げ、そしてがくりと両手を床について項垂れた。
天井から、空が見えている。
――そらが、そのまま、みえている。
「わうん!」
『ぬけた!』
嬉しそうな、シグルドの声が、天井の穴から聞こえた。
隣の部屋から、さすがに今の音は響いたのか、微かに子供の泣き声も聞こえてきた。
すぐ傍のベッドでは、腕をぱたりと落としたシリルが再び目を閉じている。
――全員無事だが、ジゼルはとても喜べる状況ではなかった。
「……屋根を踏み抜いた子を助けるのに、天井をすべてぶち抜く人がありますか……」
外からは、数人の人の声が聞こえている。おそらく、本邸の使用人にも、先程の音が聞こえたのだろう。
何をどう説明すればいいのか。ジゼルはただひたすら、頭を抱えるしかなかった。
屋根は結局、バゼーヌ家に常駐する大工に見てもらうこととなった。
さすが大きな屋敷には、大工仕事を専門にこなす使用人もいる。壮年のその使用人は、普段は母屋の修繕作業を行っているのだが、今日は寝室を外から見て、ぽかんと口を開けていた。
「ああ……これはもう、全部変えた方がいいですなぁ。修繕を何回も行いましたし、そろそろだとは思っていたんですが。また、豪快に開けましたなぁ……」
しみじみと呟く使用人に、ジゼルと、その隣で神妙な表情でふせをしていたシグルドが、うう、と唸る。
豪快にとどめをさしたのはシリルだが、そのきっかけになったのはシグルドであり、寝ぼけたシリルに指示をしたのはジゼルである。
穴を開けたシリルより、むしろ二人の方が泣きそうな顔で、大工を見守っていた。
「日数はどれくらいかかる?」
「……確か以前、梁も一本、折ってましたな。……私一人だと難しいので、職人の都合をつけねばなりません。二週間、いや、材料の入手もありますから、ひと月は見ていただいた方がいいかと」
「わかった。職人については、王宮からまわしてもらうよ。執事には、私から伝えておく。材料の見積もりと、日程の調整を頼む」
「かしこまりました」
頭を下げ、母屋に帰っていく大工を見守りながら、ジゼルとシグルドはがくりと項垂れていた。
「……二人とも、そんなに落ち込まなくても」
苦笑しながらそういうのが、この大穴を開けたシリルなのだが、この状態をおかしいと思うものは、今ここにはいない。
「……寝ぼけたシリル様が、あらゆる過程をめんどくさがるのがわかっていたのに、真上なんて説明をした私がいけなかったんです……」
「くぅーん……」
さすがに年単位のつきあいになると、ジゼルにも理解できることが増えている。
シリルは、普段からどちらかと言うとめんどくさがりだが、寝ぼけているとそれが顕著になる。
今日のような事態なら、屋根と部屋との間には、天井がある。真上にいるなら天井をぶち抜けばいいと、簡単に結論づけてしまう。
わかっていたのにやってしまったのは、やはり屋根の上でもがく養い子を見て、ジゼルも冷静ではなかったと言うことだろう。
「……シグルド。そういえば、怪我はなかった?」
とても丈夫な種族とはいえ、踏み抜いて鋭くなった木片に体があたっていたのだし、そのあとはシリルに吹っ飛ばされたようなものである。
シリルが体や足を撫でてやりながらそう尋ねると、『大丈夫』と頷いた。
「今度の屋根は、シグルドが乗っても大丈夫なように、丈夫に作ってもらうから。……今回はたぶん、梁が一本折れてたから、支えきれなかったんだろうなぁ」
苦笑しながら、最後にシグルドの頭をわしわしと撫でる。
シリルもジゼルも、シグルドに屋根に登るなとは言わない。はじめて、それを見た時に相談して、止めないでおこうと決めていたのだ。
シグルドの種族は、魔力を身体能力に変える。当然、それは跳躍力にもなっている。
軽く、ひょいと跳んであがってしまうのだ。それならばこれは、成長の証でもあるのだろうと、二人は考えたのである。
「シグルドは、どれくらい大きくなるかな。今度の屋根は、大きくなっても壊れないように、私も防御の魔法で補強しておくから、心配することはないよ」
「わう!」
ようやく、尻尾を振り始めた養い子にほっと胸をなで下ろした二人は、揃って屋根を見上げ、うーんと唸った。
「……でも、今日は、ここでは遊ばせられないなぁ」
「今日は、じゃなく、しばらくそうですね。ノルにも伝えておかないと……」
その黒猫のノルは、二度目の破壊音で子供達が泣き始めた瞬間目覚めたらしく、大工が来る前に確認してみたら、子供部屋で子供達を寝かしつけ、そのまま一緒に昼寝をはじめていた。
それに関して、親の出る幕はまったくなかった。優秀すぎる子守である。
「……そうだ。そろそろ、シグルドに外の森を見せてやろうか」
「外の森、ですか?」
「王都外壁のすぐ傍にある森だけど、バゼーヌが預かる場所がある。今日は、そこに連れて行って、遊ばせてやろう」
「シリル様が連れて行ってくださるんですか? それなら、二人分のお弁当を用意しますね」
「いやいや、たまの休みなんだし、家族全員で行けばいい。馬車で行けば、すぐだよ」
「……子供達は、まだ馬車に乗せたことがないんですが、揺れは大丈夫でしょうか?」
そのジゼルの疑問に、シリルは胸をたたいて答えた。
「私が一緒に乗るんだよ? 普通に走らせたりしないよ。馬車が飛んでいれば、揺れはしないんだよ」
「……いや、それは、ちょっと……」
馬車を飛ばすと聞き、かつてシリルが空に浮かせた最大の乗り物である船を思い出したジゼルは、表情を陰らせて首を振った。
シリルも、ジゼルのその表情を見て、何を思い浮かべたのかを察したのだろう。慌てたように首を振った。
「大丈夫。飛ばせると言っても、地面から人差し指の長さほどだし、そのまま馬に牽かせていくだけだから!」
「それでしたら、中の人間だけ、浮かせておいてもいいんじゃないんですか? 子供達だけ浮かせてもらえればかまわないんですけど」
元々、バゼーヌ家の馬車は、高級なものなので、ジゼルが知るどんな馬車より乗り心地がいい。何度乗っても、ジゼルはそれほど苦に感じないのだ。
ただ、はじめて乗る子供は、たいがい酔うものなので、その点を心配しただけだった。
「……それだと、揺れた時に衝撃で天井にはね飛ばされかねないし……いや待てよ、それなら、いっそ覆うように防御を……泣き声が聞こえないのは困るし、網状に……籠の取っ手より、ゆりかごのカバー……うーん、それより猫のベッドの丸い形の方が……」
突然ぶつぶつと思考をはじめたシリルをあっさりと放置して、「お弁当を作ってきます」とつげてジゼルは家に入った。それをシグルドも追いかける。
――庭にいたシリルがようやく結論を出し、呪文を纏めた時には、すでにジゼルの手によって、全員の支度は調えられ、外出許可まで下りていたのだった。
その森は、ちょうど王宮の裏にあたる場所に広がっていた。
王宮警護の観点から、普段から人の出入りを制限されている場所らしい。
森の傍でバゼーヌの管理人が常に小屋から監視しているのだが、もちろん森に入るための許可も、ジゼルはぬかりなくもらってきていた。
公爵夫人からもらった許可証を管理人に見せて森に入ると、一家を乗せた馬車はそのまま森に入り、少し開けた場所でその馬車を止めた。
一家は、それから少しだけ奥に入った平地に防水の布を敷くと、双子の子供達が眠る籠をそこに置いた。
「シグルド、ノル。私達はここにいるから、遊んでおいで」
シリルがそう言うと、シグルドは首を傾げた。
「ノル。この森の周囲には、私の防御の陣がある。そこからは出ないように、シグルドを見ておいて」
「みゃ」
「森に実るものは、かってに食べないように。毒があるかも知れないからね。まず、リスに食べられるか聞いてから、口に入れるように」
「わうん」
揃って頷いた姿を見て、シリルは頷いた。
「さて、じゃあ、いってらっしゃい」
「気をつけてね」
見送るシリルとジゼルに向かって元気よく鳴いてみせた二匹は、くるりと森の奥に体を向けると、すかさずノルがシグルドに飛び乗った。そのあとリスも飛び乗り、シグルドはノルを頭に、リスを背中に貼り付かせて、颯爽と走り去った。
「……あれはいったい?」
ぴょんとノルが飛び乗った時点で、目を見開いていたシリルに、ジゼルはクスクス笑いながら説明した。
「最近、シグルドが走る速さに、ノルが追いつけないんだそうです。だから、二匹が出かける時は、最近はいつもあの姿勢です」
「そ、そうなんだ……」
日ごろ、二匹が遊ぶ場にあまり顔を出さない、と言うか、その時間ほぼ寝ていたシリルには、知ることもできなかった姿である。
困惑したその表情を、ジゼルはクスクス笑いながら眺めていた。
森の中は、穏やかな光が降り注いでいる。
春先の風は、たまに冷たいこともあるが、ここにいるのはその風を操ることを専門にしている魔術師である。穏やかな風で体を冷やすこともなく、双子達もご機嫌でひなたぼっこを堪能した一家は、そろそろ食事にしようと支度をはじめた。
料理を温めるのは、シリルの役目だ。お湯を沸かすために、火を起こす必要すらなく、そして水すらシリルが魔法で作り出すので用意する必要もなく、ジゼルはただ渡されたポットを使って、温かいお茶を入れる。
「そろそろ、ノル達にも声をかけてやろうか」
「そうですね」
ジゼルが二匹のための皿を用意する間に、シリルがリスを通じて二匹に声をかける。
「……うわっ」
そんな中、突然あがった夫の声に、ジゼルはえ、と振り返った。
「どうかしましたか? あの子達に、何か……」
「あ、いや、そういうことではなく……ああ、まずい。全部きてる……」
「え?」
ジゼルが疑問に思う間もなく、どこからともなく、なにやら地響きが聞こえてきた。
「え!?」
慌てて周囲を見渡せば、森の奥から、なにやらわさわさとこちらに向かって走る集団が目に入った。
「え、あ、あれ、何ですか!?」
慌てて子供達が入った籠を抱えたジゼルに、シリルは頭を抱えながら、大丈夫とつげた。
その集団の先頭に、とても目立つ金色がある。
それを目にした瞬間、ジゼルは、なんとなくだが、それが何なのか、理解してしまった。
その集団がわさわさと目の前に並ぶ様は、壮観だった。
兎、鼠、栗鼠、穴熊、モモンガ。大きなものだと、鹿もいる。少し離れたところには、狐の姿もある。この森にいた動物達が、ここに大集合しているかのようだった。
その先頭で、養い子のシグルドが、嬉しそうに尻尾を振りながら、大きな声で宣言した。
『ともだちできた!』
シリルとジゼルは、その宣言を聞き、二人揃って笑顔のまま、くらりと体を傾けた。
シグルドの頭には、ノルがしがみついている。ノルも、若干遠い目差しのまま、固まっているようだった。
「……ジゼル。この場合、父親はいったい何を言えばいいのかな……」
途方に暮れたような声で尋ねた夫に、やはりジゼルは途方に暮れて答えた。
「……お友達ができたことを、褒めて喜んであげればいいんじゃないでしょうか?」
「……少し、うん、ちょっとだけ、多すぎないかな?」
「……人徳……狼徳? というものでは、ないでしょうか?」
ひとまず夫婦で意見を合わせ、おめでとう、よかったね、という言葉を伝えると、シグルドは嬉しそうに尻尾を振った。
「……ごめんね、シグルド。あなたのご飯は用意したけど、お友達の分はないの……」
さすがのジゼルも、この事態は想定外だった。
『ママ、お水でいいよ。お水、飲ませてあげて』
困っていたジゼルに助け船を出したのは、シグルドの頭の上で固まっていた、ノルだった。
『お水を、お皿に入れてあげればいいよ』
ノルに言われたとおり、ジゼルは予備として用意していたお皿を、ひたすら動物達の間に並べていった。
もちろん、その中には、水など入っていない。それをなんとかするのは、シリルの役目だ。
「ノル。ちゃんと見てるんだよ」
衝撃からようやく立ち直ったシリルは、動物達に向かって指を伸ばし、わずかに指を動かした。
それだけで、みるみる皿には水が満たされ、動物達は大喜びでそれを口にしていた。
「……ノルは、もう魔法を使えるんですか?」
「まだだね。水を出すくらいはできそうなんだけど……。ノルは、風よりも、水と相性がいいみたいだからね」
そう言うと、シリルが渡したコップに向かって、うーと唸るノルに視線を向けた。
確かに、空だったコップに、少し水が入っている。
「すごいわ、ノル。頑張ったのね」
『まだまだなの。いつか、私も空を飛ぶの!』
「そう」
にっこり笑ったジゼルに、ノルは雄々しく宣言した。
『いつか、自分で飛べるようになったら、空の上で私を笑ってたカラスをぶちのめすの!』
――ジゼルは、固まった笑顔のまま、ギギギとぎこちなく夫に視線を向けた。
「ま、まあ、目標があるのは、いいことじゃないかな。たとえどんなことだろうと、成長を促すものだし?」
たとえそれが、カラスに一発、猫パンチを食らわせるためだとしても。
夫の言葉を聞きながら、ジゼルはこれから、この二匹を兄姉として育つはずの双子の子供達に視線を向けた。
養い子達の成長を感じながら、ジゼルはこれからの育児について、もう一度しっかり夫と相談しようと心に決めたのだった。




