いにしえの愛の歌
見事な月だった。
閉めていたはずのカーテンからこぼれる光を受け、普段熟睡しているはずの時間に目覚めたジゼルは、光と共に意識に触れた音に誘われるように窓辺に足を向けた。
空にある月は、明るさに相応しいほど大きく、外の様子を照らし出していた。
月の光を受け、己の毛を輝かせた一頭の狼が、空に向かって遠吠えを響かせている。
その光景は、この家ではありふれたものなのに、大きな月の下で見るその姿は、まるでそこに降り注ぐ月の光をすべて集めたように、幻想的な輝きに溢れていた。
この家には、狼がいる。
狼と言っても、普通の存在ではない。人に姿を変える狼である。
その人狼を我が子のように育てて来たジゼルは、養い子のはじめて見る姿に息を飲んだ。
狼として、遠吠えをすることは知っていた。
しかし、今聞いているそれは、いつもの雄々しいものではなく、まるで節をつけて歌っているような、語りかけるような、そんな印象を与える声だった。
切なく、何かを訴えているようにも聞こえ、胸が締め付けられる。
「……起きてたんだ」
ぼんやりとしていたジゼルは、突然背後からかけられた声に、思わず肩を跳ね上げた。
「シリル様」
振り返り、微笑む夫の姿を目にして、思わず吐息が漏れる。そうなってようやく、ジゼルは自分が今まで、息をするのも忘れていたことに気が付いた。
「お仕事、今日は終わりですか?」
「いや、ちょっと休憩だよ。ノルが、そろそろ子供達が布団を蹴飛ばす時間だからって、様子を見に行っちゃってね」
「あら」
子供達が産まれてから、夜に二人の様子を見に行くのはノルの役目だった。
親である二人がなんと言おうと、頑としてその役割を譲らない黒猫は、子供達が十をすぎた今もまだ、深夜いそいそと子供部屋に足を運ぶ。
「私も、久しぶりに見に行ってみようかと思ったんだけど……ジゼルが動く気配を感じたから、こっちに来てみた。今日は、ノルの勉強を見ていたからね。他の仕事はないんだ」
「そうですか」
お互い、穏やかに微笑むと、揃ってその視線を庭に向けた。
ガラス越しにもはっきりと見える黄金は、今もまるで歌っているような遠吠えを響かせている。
その様子を見ていたシリルが、突然腕を伸ばし、窓に手を当てる。
その場所から、まるで水面の波紋のように、目に見える力が広がってゆく。
「……シリル様?」
「あー……。奥さんに、報告と謝罪しなければいけないことが……あるんですが」
突然の言葉に、ジゼルはシリルの顔に目を向けた。
その表情は、なにやら困惑も見て取れて、ジゼルは首を傾げ、視線で話を促した。
「……その話の前に、ひとつ聞いても良いかな。シグルドの今の遠吠え、ジゼルにはどんな風に聞こえてた?」
突然の質問に、思わず窓の外を見る。
先ほどシリルが魔法でなにやらやったせいか、今は音が聞こえなくなっているが、外にいるシグルドが、まだ先ほどと同じように月に向かって吼えている姿ははっきりと見えていた。
「……もの悲しい感じを受けますね。いつもはもっと雄々しく吼えていたようなのに、何かあったのかと……」
「あ、ごめん、そう言う意味じゃないんだ。……何か、言葉の意味は聞き取れる?」
「え?」
ジゼルは、神の恩恵によって、家族の声を聞き取ることができる。
養い子の金狼シグルドが狼の姿であっても、その言葉を知ることができる。
その時、シリルに問われ、ジゼルははじめてそのことに思い至った。
「……いえ、遠吠えはそう言うものだと思っていましたから……。特に言葉が聞こえるようなことはありません」
「ジゼルにとっても遠吠えは遠吠えか。……じゃあ、やっぱりどうしようもなかったか」
ジゼルの肩に軽く頭を乗せ、深くため息を吐いたシリルは呟く。
常にない夫の様子に、首を傾げていた。
「あれね、シグルドが五歳くらいの時から、春か秋の、月が一番大きい晴れの日にだけ、ああやって鳴いているんだ」
「五歳、ですか」
「もちろん、私もシグルドの正確な誕生日はわからないんだけど……シグルドは、秋にこちらに来た時には生後半年だとは聞いてたから。大体五歳くらいの、春からかな」
今、シグルドは、大体十四歳となる。五歳からならば、かれこれ九年はこうやって定期的に鳴いていることになる。
「そんな昔から……」
「……それでね。はじめて聞いた時は、ずいぶん悲しげな鳴き声だと思って。あの時期のシグルドは、どちらかと言うと子供らしくてやんちゃな印象だったから、何事かと思ったんだ」
ふう、とため息を吐き、シリルは改めて窓の外に目を向けた。
「ちょうどそれをはじめて聞いた時、ミレイユがずっと私について回ってて、姿が見えなくなった途端に泣き叫んでた時期だったから、もしかしてシグルドも、里心がついたかなって、そう思ったんだよ」
三歳のころのミレイユは、熱こそ出すことはなかったが、やはりふとしたことで魔力が不安定になることがあり、その不安からか、片時もシリルから離れようとしなかった。
その時期、シリルは、出かける時も家にいる間も、背中にフェリクスを背負い、前にはミレイユを抱き、それこそ子供達が眠るまで、ずっと二人を傍に置いていた。
子守りを雇おうにも、ミレイユが泣き叫ぶと同時に魔力を大放出してしまうため、ジゼルやフェリクスのような特殊体質でもない限り、その力に当てられて倒れてしまう。
父親にぴったりとくっついていさえすれば大人しかったので、結局仕事の時も子供二人を連れて行くことになり、その時期、シリルは、よほどのことがない限り、王宮に行くことも免除されていた。
忘れようにも忘れられないその時の苦労を思い出し、ジゼルも思わずため息がこぼれる。
「確かに、シグルドは、生後半年でこちらに来てから、一度も家族には会えていませんね」
「そうそう。だから、家族に会いたいんだろうと、そう思ってね。はじめは手紙で、ファーライズに問い合わせたんだ」
「……え?」
「まだ子供のシグルドを、ずっと家族に会わせないままなのはかわいそうだから、なんとか家族との面会ができるように取り計らってもらえないかって」
「まあ。……でも、一度も、そんなお話は聞いていませんよね?」
「うん。あちらからの返信は、一族に問い合わせてみますの一辺倒でね。何回か問い合わせても結局返事はもらえなかったから、もう、こうなったらあれを聞かせてやるしかないと思って。……去年かな。あの音をようやく記録できたから、それを一族の人に聞かせてやってくれとお願いしたんだ」
「去年ですか」
「数回、雨で鳴かなかった日もあったし、うまく私が仕事がない時、家にいる間しか記録できないから、時間がかかってね。それでまあ、送ってみたんだけど……」
がくりと肩を落とした夫に、ジゼルは疑問も露わな視線を向けた。
その視線を受け、なにやら気まずそうに、シリルは窓の外のシグルドに視線を向ける。
「私が送ったあの声を、ファーライズの人たちはちゃんと金狼の一族に聞かせてくれたらしい。そしてその答えとして、これが届いた」
これ、と差し出されたのは、見たことがないほど真っ白な、薄く透けている紙でできた、封筒だった。
中に手紙が入っているのが、蓋をしている状態からでもわかる。
蝋封がされていたようだが、それはすでに切られていた。
封筒から手紙を出し、ざっと目を通したジゼルは、首を傾げた。
「……あの、シリル様。申し訳ないのですが、これは何語でしょうか?」
「あー。そうか。文字はあまり一般的ではなかったな。これは、ファーライズ語だよ」
驚きに目を瞬かせたジゼルに、シリルは苦笑した。
「港では、ファーライズ語での会話は一般的だろう。ジゼルもガルダンで聞いていただろうし、会話なら理解できるんじゃない?」
「はい……むしろ、文字なんてあったんですね」
「あるんだよ。ファーライズの公式文書は、全部この言語で書かれている。他国に送る場合、ファーライズ語の文章と、同じ内容の現地語で書かれた文章が送られてくるものなんだけど、これの場合、それに当てはまらないんだ。……だから、封筒にはこれしか入ってない」
シリルは今、ファーライズに送るための本を書いている。なるほどこんな文字で書いているのかと一瞬のんきなことを考え、そしてジゼルはあれ、と首を傾げた。
「……これは、つまり、公式文書ではない?」
「うん。普通の手紙なんだ。……ただしこれは、金狼一族の族長、つまり、シグルドのお父さんからの手紙なんだよ」
言葉にならず、そのまま視線を落としたジゼルの目に、その読めない文字が躍る手紙が飛び込んでくる。
読めなくとも、それがとても流麗な文字だというのがわかる。規則的に、流れるような筆致で、文字として読めないジゼルにしてみたら、はじめからこういう模様が描かれていると言われたら納得できそうなほどに書面が調っているのである。
金狼の族長と言うなら、これは狼が書いたものと言うことになる。驚くなという方が無理だった。
「あれね、金狼が、意中の相手に向けてだけやる、求愛行動なんだって」
「求愛……ですか?」
「そう。ほら、シグルドが体を向けている方向……わかる?」
そう尋ねられ、改めてその姿を見てみる。
月に向かって吼えているのかと思っていたが、よくよく考えてみて、ふと気が付いた。
「……もしかして、ソフィの……下宿先ですか?」
「うん。そうなんだよね。本人がいないところでやっても、相手は狼じゃない。聞こえはしてないだろうけど……けなげだね」
シグルドにとって特別なただ一人、それがソフィーナであることは、子供達も知っている。
シグルドには、他の誰にも、家族と思う人に対しても許可できない一線がある。体への触れ方もあるし、強引に体を拘束したりすることは許さない。種族の本能とも言えるその部分を越えることを許されているのは、一家の知る限り、ただ一人。
そこまで露骨な姿を見せられれば、言葉を話し始めたばかりの子でも、朧気ながらでも理解するというものだ。
いつから、シグルドがその思いを抱えていたのか、ジゼルやシリルにはわからない。それこそ、出会った瞬間から、あの二人は仲良く寄り添っているように見えたのだ。
「まず、金狼は、他者に向けて意味のある遠吠えができれば一人前と見なされ、成体として扱われる。つまり、息子シグルドは、すでに成体として扱うべきである、と書かれてる」
シリルは、手紙の文字を指で追いながら、説明した。
ジゼルはそれを聞き、目を皿のようにして手紙をにらみつけたが、やはり規則性がわからない。
慌てて、シリルに話の先を促した。
「その上で……シグルドは、ソフィ、ソフィーナ、ソフィーリァ、そのような名前の女性に対し、求愛している。シグルドの周囲に、その名の女性がいるならば、知らせていただきたい、と書かれているんだよね……」
「……あの遠吠えで、一族の方に、名前が……わかったとおっしゃるんですか?」
「そう。そうなんだよ。しかも、かなり特定されている。……でも、私には、あの遠吠えが言語となっていることすらわからなかった。私もまだまだだな」
肩をすくめたシリルに、ジゼルはゆるゆると首を振った。
「私も、母親としてまだまだです。シグルドの気持ちはなんとなく察してはいても、あの子がすでに成体だとは、思っていませんでしたもの」
シグルドの思いは察しても、それがどこまでの気持ちなのかは、ジゼルは特別考えはしなかった。
なにせ、まだ子供だと思っていたのだ。
「……あの、それで、シリル様。なぜ謝罪なんですか?」
「あー。なんと言うか……たぶんこの手紙で、ほぼ決まったと思われる、から」
「……何がですか」
「あちらに、シグルドにとって特別な女性が、ソフィであるということがわかってしまった。たぶん、ソフィーナは将来、あちらに招かれる」
「……」
「どういう手段で連れて行かれるのかはわからなくても、おそらく行ったらもう、帰ってはこない。私の行為が、そのきっかけとなったかも知れない」
まだ、窓の外で、シグルドは遠吠えを続けているようだった。空に向かって、高く響くように、鳴いている。
それを見ながら、ジゼルは苦笑した。
「謝罪は、必要ありませんよ」
「なぜ? ……会えなく、なるよ?」
気まずそうなシリルの頬に、ジゼルはそっと手を当てた。
シリルに力を与えている、『畏怖』にも聞こえるだろうかと思いながら、ジゼルははっきりと告げる。
「それを選ぶのは、私達でも、あちらの世界にいるシグルドのご両親でも、神ですらありません。ソフィ自身が選ぶはずです。ソフィが選択したことなら、私達家族に、異論があるはずがありません。……お別れの時間を用意して欲しいと言うくらいのわがままは、聞いていただけるでしょうか?」
「……それはなにがなんでも交渉するよ」
「シグルドは、私とシリル様が育てた子です。ソフィは、私の血を分けた大切な妹です。どこに、悲観する必要がありますか?」
ただし、と、ジゼルは強い視線でシリルを見つめた。
「勝手に連れて行くのは、認めません。もしもソフィが突然消えたなら、私は命を削っても、探しに行きます。おそらく父も母も、そう言うはずです」
紫水晶の強い視線が、シリルの翡翠の瞳を、奥の奥まで貫く。まるでそこにいる何かにその意思を伝えるように。
そして次の瞬間、ふわりとシリルの力が身の内から溢れ出た。
一瞬でシリルの髪は漆黒に染まり、長く長く床に流れた。
「え、うわ……。あ?」
突然伸びたその髪を、驚きの表情で見つめていたジゼルに、確かな音が響いた。
『わが畏怖の名にその誓約と宣誓を認めん』
二人で、唖然としたまま、固まった。
「……え?」
「え、誓約?」
『汝が子と妹の意思によって、その契約は為されり』
ぽかんと二人して口を開けている間に、あっという間にシリルの髪は空に消え、色も元の亜麻色に戻っていた。
二人とも、しばらく身動きすらできなかった。
「……あの、シリル、様?」
「え、う、うん?」
「い、今、のは?」
ジゼルに問われ、シリルの視線が宙を彷徨った。
「神の誓約の形式は知ってるんだけど……畏怖の誓約の形式は知らない。……から、今のが何なのか私にもわからない」
だけど、とシリルは一瞬考え、そして苦笑した。
「ジゼルは今、ソフィの意思を守ったよ。『畏怖』がソフィの意思を尊重すると、そう言う意味のはずだ。少なくとも、選択の自由はもらえたらしい」
「シリル様」
「子と妹の意思によって、だから、両方の意思が揃ってはじめて、契約がされる。つまり、あちらに行けるということになる。シグルドの意向を無視して、魔族はあちらにソフィを連れて行けないし、ソフィの了承なしに連れて行くこともできない。神と畏怖で、誓約の方法は違っても、その辺の違いはないはずだ。良かった」
「あああのシリル様」
「……ん?」
「今さっきのは、本当に、『畏怖』の言葉なんですか?」
「たぶん。私の中から聞こえてたから間違いない。今、『畏怖』が使うことができる、上に通じている場所は、私の契約の円環だけだ。『畏怖』が意思を伝えるには、そこを経由するしかない。髪は、声を伝えるための力の余波だったんだろうね。私も驚いた」
「た、確かに私、あちらに少しでも伝わればと思いましたけど、まさか本当に繋がるなんて……あ! シリル様、お体に変化はありませんか? 魔力を溢れさせて、お体は疲れていませんか?」
「大丈夫」
腕をあげて見せたシリルは、クスクス笑いながら、ジゼルを抱きしめた。
「ジゼル、二人の心を守ってくれてありがとう。ついでにこれから、シグルドにそれとなーく人攫いはいけないことと、女性の口説き方を勉強するように伝えてくれるかな」
シリルの、すっかり体になじんだ腕の中で、その背中をぽんぽんとたたかれてようやく落ち着いたジゼルは、シリルの言葉を聞き、ん? と首を傾げた。
「……シリル様。それはお父さんの仕事ですよ。そう約束したじゃないですか」
「……そうだったっけ?」
「人攫いはだめというのはまあ私でもかまいませんが、女性の口説き方というのは、私では教えられません。子供達が年頃になったら、女性の扱い方を含めてそれとなく教えるからとシリル様自身がおっしゃいましたよ」
「え、あれはフェリクスについてだろう?」
「子供達というくくりでした。シグルドもですよ」
ようやく普段の調子に戻ったジゼルに、シリルは微笑む。
「……シグルドが大人になっているなら、急いで教えなきゃいけないなぁ」
「……また、フェリクスがすねるでしょうか?」
「まあ、すねるだろうなあ」
はじめのころ、父親と呼ばれることにも不安を見せていたシリルは、子供の成長とともに、自然とそれを受け入れた。
すっかり父の顔となったシリルが、扉に姿を見せた黒猫を見つけて、あ、と声をあげた。
『……まだかかるなら、もうちょっと子供部屋にいるけど』
申し訳なさそうなノルに、夫婦は慌ててお互いの体を離した。
ある意味、一家の長女でもある黒猫を抱いて、再び書斎に向かう夫の背中を見送ると、ジゼルは再び、窓の外に目を向けた。
いつ、シグルドの求愛の遠吠えはソフィに届くのか。そんなことを思いながら、ジゼルはしばし、養い子の姿を見守っていたのだった。




