ひだまりの先
このお話の途中までは、動物たちが普通に会話をしている表現になっています。
その知らせを受けた時、シグルドは畏怖の城にある父の執務室で、姉に囲まれてすやすやと昼寝をしていた。
母は、二度の出産で二度とも双子を産み落としたのだが、三度目の出産の時、一人でシグルドは産まれた。
時を同じくした相方のいないシグルドが寂しがらないようにと、すぐ上の姉達は、シグルドが産まれてからずっと狼の姿で寄り添い続けていてくれた。
シグルドのあちらでの最後の記憶は、そんな家族の愛情に溢れたものだった。
人の姿になった姉達にブラシで身繕いをされ、母に背負い袋をつけられ、父に抱かれて『畏怖』の元へと向かう。
上の世界ではなんと言われていようと、シグルドにとって『畏怖』は優しい主人である。
父の手から『畏怖』にその身を預けられ、その腕の中で頭を撫でられながら、これから自分が行うべきことを伝えられ、家族と『畏怖』に見送られて、シグルドは上の世界に旅立ったのである。
――結論から言うと、シグルドはあちらの世界の家族の心配も余所に、上の世界にあっさりと馴染んだ。
命じられた仕事はそれほど苦にならなかった。
魔術師のシリルは権力欲がなく、知識欲が旺盛なだけであったし、魔力制御も、傍にいる妻ジゼルの存在もあり、安定していたので、力を悪用したり暴発させるようなこともない。
おかげで、シグルドはただ遊んでいれば良かったのである。
優しい夫妻は、シグルドを実の子のように可愛がってくれたし、使い魔である黒猫は、狼と猫の体格差をものともせず寄り添っていてくれた。
少々体は小さかったが、その黒猫をこちらの世界での姉として慕うのは、常に狼姿の姉に囲まれてその温もりに包まれていたシグルドにとっては、ごく自然なことだった。
こちらの世界に来てはじめての冬、いつものように庭にでて、黒猫ノルと、四肢の先と尻尾の先だけが亜麻色に染まった白銀のリス、そしてシグルドの三匹は、並んでひなたぼっこをしていた。
寒い季節だが、今日はいい天気で外がとても温かい。
転がりながら、全身くまなく暖まっていると、家からこちらでの母であるジゼルが作る、リンゴのケーキの匂いがふわりと鼻をくすぐっていく。
思わずくんくんと鼻を動かしていると、黒猫のノルが、わからないとばかりに首を振る。
「肉の方が美味しいと思うけどなぁ。確かにケーキも良いけど、私はやっぱり、肉が好きだな」
シグルドに言葉を覚えさせるために、ゆっくりとノルはしゃべる。そのおかげか、シグルドはようやく語彙が増え、明確に話せるようになってきていた。
元々、知能は高い種族らしく、言葉の意味自体は、すでに理解しているらしい。
シグルドは、明確に自身の意思を言葉で伝えていた。
「にくキライ。リンゴすき!」
「そんな調子だから、狩りができないんだよ? ちゃんと肉の味を覚えて、獲物の仕留め方を覚えなさい。あなたは魔族で、寿命はとても永い。ずっと人に仕えているわけじゃないなら、自分で獲物を仕留める方法を覚えないと、死んでしまうよ」
「森いく! リンゴある!」
ぱたぱたと尻尾を振りながら胸を張ってそう言ったシグルドに、ノルはしょうがないなとばかりに首を振った。
「果物は季節にならないと採れないよ。そんなことだと、冬の寒い時期にはなんにも食べ物がなくて、飢えちゃうよ」
「……さむい、リンゴない?」
首を傾げたシグルドに、ノルはこくりと頷いた。
「ケーキ……リンゴ?」
「あれは秋のはじめに採れたリンゴで焼いてるの。リンゴは、今は普通には取れないよ。人間の畑ならまだしも、森のリンゴは小さな動物達も食べるし、冬になると落ちるんだよ」
ノルの説明を聞いたシグルドは、その耳をぺたりと倒してしょんぼりと項垂れた。
ノルもまだ産まれて二年ほどしかたっていないため、それほど知識があるわけではないが、それでも冬を越えたことによる差は大きかった。ガルダンの森に食料を求めてたびたび入っていた記憶を思い起こせば、冬に果物がなかったことくらいはわかるのだ。
シグルドは、産まれた場所が『畏怖』の城。そして、その城を出たのは、シリルの元へ来た時がはじめてだった。
城では、その周囲の環境を一年中『畏怖』が整えているため季節がなく、城の果樹はいつでも実をつけている。シグルドにとって、リンゴは常に樹に実っているはずのものだった。
ノルが、そのあたりのことをどう教えたものか一瞬思い悩んでいた間に、リスは項垂れたノルにあっけらかんと告げたのである。
「でも、人の姿になれるなら、人の店に行けばいいよ」
「リス!」
思わず声を上げたノルに、リスは大丈夫だからと言わんばかりの視線を向けた。
「シグルドは人の姿になれるんだから、人の中でお金を稼ぐこともできる。お金があれば、人からリンゴが買えるよ」
リスの言葉に、シグルドはうーんと首を傾げた。
「……街、きらい」
しゅんと項垂れたまま、シグルドは呟いた。
「街いや。くさい、うるさい」
上目遣いのシグルドに、ノルはやれやれと首を振り、そしてリスは、面白いとばかりににいと笑った。
「それなら、ちゃんと鍛えなきゃ。ひとつの匂い、ひとつの音を追いかける練習をすれば、周囲の音ばっかりに気を取られることもないかもしれないよ」
ノルは、リスの言葉にしばらく唖然としていたが、ふと、その力を見て、口を噤んだ。
シグルドは、ひとつの匂い、と言われ、んーと唸り始めた。
「シグルドが一番好きな匂いはなに? リンゴ?」
リスが尋ねると、シグルドはしばらく悩んだあと、何かを思いついたように、ぱっと表情を明るくした。
ぱたぱたと尻尾を振りながら、シグルドは断言した。
「ソフィ!」
きらきらとした目で見つめられた猫二匹は、ぽかんと口を開け、しばらく動けなかった。
「……ソフィ?」
「甘い。ソフィ、いいにおい!」
唖然となっていた二匹に、シグルドは尻尾をぱたぱた振りながら、笑顔でソフィの名前を連呼した。
『シグルド、どうしたの。何を鳴いているの?』
中から鳴き声を聞きつけたらしいジゼルが、慌てたように小走りで三匹の元に来たのは、それからすぐのことだった。
「おやつ!」
すぐさまじゃれついたシグルドを抱き上げ、ジゼルは猫二匹に顔を向け、おや、という表情になった。
『ノルもおやつにする?』
笑顔で尋ねるジゼルに、ノルはぽかんと開けていた口を閉じて首を振った。
「もう少し、ひなたぼっこしてる」
『そう。中に入ったら声をかけてね』
それだけ言うと、ジゼルはシグルドを抱えて家の中に入っていった。
人の血が混ざった金狼は、まだ前例が少なく、どれほどの早さで、どれくらいまで成長するのかがはっきりとわからない。
第三聖神官の話では、シグルドの父親は、小型の馬ほどもある体躯を誇る、一族の中でも特別大きくて立派な狼らしい。
シグルドはまだ小さいが、その父親に成長の速度が似ているらしく、成人すればとても大きくなるだろうと予想されていた。
そのためか、幼くとも必要とする食事は多いらしく、食事を一日に何度も与えてほしいと、母親から持たされていた手紙には書かれていたのである。
それに従い、いつもジゼルは、朝晩の食事と、さらに食事代わりにおやつを数回、シグルドに与えていた。
シグルドは、まだ赤ん坊である。ゆえに、食べたらすぐに眠くなってしまう。
耳が良いシグルドは、自分の名が呼ばれれば、それがどこから発せられたものだろうがそちらに意識を向けてしまうが、食事のあとは、その限りではない。
そのことを知っていたノルは、シグルドが家の中に入り、しばらく待ってから、隣で毛繕いをしていたリスに問いかけた。
「……お師匠様は、シグルドを街に出したいの?」
「……出したい、というよりも、あの子はたぶん、人の世界に出なければいけないんだ」
先程までの無邪気な表情を消したリスに、ノルはやっぱりそうかと納得した。
ノルの師匠であるシリルは、たまにこうして、リスを通してシグルドを見ていることがある。
いつの間に変わっていたのかノルにもわからなかったが、少なくとも会話に口を出した時には、すでに中身はシリルだったらしい。
元々シリルの力によって作り出されたリスは、たとえ中身が変わってもその気配が変わることがないため、たとえ鼻の利くシグルドでも、その変化は見破ることができない。
「あの子がこちらの世界に送られたのは、それが種族の総意だったからだろう。でなければ、今まで一切こちらの世界に話も伝わらなかった、あちらの世界でのみ生きてきた一族を、わざわざ送り込んでくるとは思えない」
シグルドの一族は、女性が一度滅んでいる。今いる女性達は、皆シグルドの親族なのだと聞いていた。
それならば、シグルドがこちらに送られた理由など、容易に想像がつく。
シリルは、シグルドが入っていった扉を見ながら、緩やかに首を振った。
「元々こちらに送り出す予定があったのを、少し早めに出したんだろう。それなら、あの子はどちらにせよ、街に慣れなければいけない。あの子の花嫁は、人の世界で見つけなければいけないのだから。そのための、街に出る修業をさせるのも、私の役目なんだろう」
穏やかな目差しで、先程シグルドとジゼルが姿を消した扉を見つめるリスの横で、ノルは納得したようなそうでないような、どうにも落ち着かない気持ちで目を閉じ、首を傾げた。
シグルドから見れば年長のノルも、人から見ればまだたった二年ほどしか生きていないのだ。たとえ猫としては成熟していても、経験とそれに伴う思考の成熟は、まだまだ子供のものと変わらない。
思い悩むように首を傾げているノルを見て、リスはその表情を、いつもの微笑んだような表情に変えた。
「それにしてもまさか、ソフィの名前があそこで出るとは思わなかったな。甘い匂いって、まさか血の臭いかな。……もう少し、金狼について調べた方が良さそうだ」
苦手と言っているもののはずはないとは思うのだが、それでも金狼という種族についての特性がわからない以上、その不安は拭えるものではない。その不安を払拭するには、それこそ知るしかないだろう。
シリルの言葉に、ノルはふとあの時のことを思い出した。
「あの時、あの女の子は、お菓子のすごく甘い匂いがしてた。それじゃないかな?」
ノルの言葉に、納得したようにリスは頷いた。
「……あれ、じゃあ、お菓子の匂いが好きって言っただけなのか?」
「わからない。シグルドはまだ赤ちゃんだし、話はできても、言葉はとても少ないから」
ノルとリスの中にいるシリルは、顔を見合わせて首を傾げた。
シグルドが人の世界で産まれてはじめての冬を越し、春が来て、そして時はあっという間に廻る。
シグルドは、その日そわそわと落ち着かない様子で過ごしていた。
こちらの世界に来て二年が経ち、すっかりと丸みはなくなったシグルドだが、まだまだ子供っぽい仕草は抜けることがない。
シグルドは、産まれた双子の子供達を自分の兄弟だと思っているらしく、ジゼルが「しばらく見ていてね」と言うと、片時も離れることがない。
シリルは双子を入れた籠の横で、そんなシグルドの様子を朝からずっと。
「シグルド。そんなに気になるなら、迎えに行ったジゼルと一緒に外門近くで待っていてもいいんだよ?」
それを聞いて素早く立ち上がり、うろうろしてまた結局双子の傍に座り込むシグルドに、さすがのシリルも苦笑していた。
金狼は、人の姿に変わると言うが、シグルドは今もまだ人の姿を見せたことがなかった。
ジゼルも見たことはないと言うので、本当に変化をしていないのだろう。
本人は、「必要がないから」狼の姿のままでいるらしい。元来、金狼は、狼の姿こそが本性であるから、その方が本人も楽なのだ。
そのシグルドが、人の姿を必要としたのは、ほんの数刻後。
将来を夢見て、大人の女性としての一歩を踏み出したソフィーナに再会し、それに慌てたシグルドが、彼女に伝えたい言葉を自覚した瞬間のことだった。




