長い日々の、始まりの一歩
「そういえばジゼル」
実家から王都へ帰ってきたその翌々日。ほぼ一日惰眠をむさぼりようやく起き上がったシリルが、ジゼルを見て挨拶の言葉より先に口に出したのは、なぜこれが唐突に出てきたのかと思うような疑問だった。
「普段、どこに買い物に行ってるの?」
「……買い物、ですか?」
しばし沈黙したあと、首を傾げたジゼルの態度は、ある意味当然だった。
買い物もなにも、ジゼルが以前ここにいたときは、外出は禁止されていたのである。買い物どころか、この屋敷の敷地内から出たのは、それこそフランシーヌに関わることくらいで、それらもすべて馬車で屋敷から屋敷へ移動した。
買い物と言えるのは、この屋敷を出て実家に帰る寸前、僅かに許された自由な時間に父とともに駆けこんだ、軍の官舎近くにある土産物屋だけである。
日ごろ、父からもらっていた土産がすべて揃っているのを見て、ジゼルは納得した。
ここが、国中から集まってくる軍人達を目当てとした店であることは一目瞭然だった。
当然、その店で、王都の店や流行がわかるとはとても言えない場所である。
そのことを正直に告げたジゼルは、聞いた瞬間真顔になったシリルの表情を見て、とても嫌な予感に襲われた。
つまり、それはあまりよろしくないことを考えているときの表情だったのだ。
「……シリル様。お買い物は、特別欲しいものがあるわけではありませんから、マリーさんにお店を……」
教えてもらいますから、と、みなまで言う前に、ジゼルの身体はふわりと浮きあがった。
「シリル様!?」
「じゃあ、出かけようか」
「や、ちょ、話を聞いてましたか!?」
ふわりと浮きあがったジゼルの身体を、シリルが嬉しそうに抱き留めた。それだけで、ジゼルは、このあと自身がどうなるのかあっさり予想をつけた。
「シリル様!」
ジゼルの悲鳴もよそに、ジゼルを抱えたシリルは、そのままテラスの窓から外に向かう。
外に出て、シリルのローブがふわりと風をはらみ、まるで翼のようにたなびいた。
危険な兆候である。
「シリル様! で、出かけるなら、門からですよ!!」
その瞬間、シリルの笑顔が、ほんの僅かにしかめられた。
「……」
沈黙したままのシリルは、まだ風をはらんだままだ。
ジゼルは、猛然と頭を回転させ、この意外と面倒くさがりでおおざっぱな人を止める手段をはじき出した。
「ノルはまだ寝てるんですよ? 置いていくわけには……」
「大丈夫だよ。リスがいる。側に置いていくから、状態はすぐわかるし、リスを起点に魔法もかけられる」
あっさり返され、ジゼルは慌てて言葉を重ねた。
「あ、歩いていきたいです!」
「……飛んだほうが、楽だよ?」
シリルが向けた、いい笑顔もすぱっと切り捨て、ジゼルは叫ぶように訴えた。
「私は飛べないんですから、普段買い物に行くのに、飛んでいく方向を覚えたってしかたがないです! そ、それに、私、シリル様と並んで歩きたい、です!」
少しずつ浮きあがる身体は、すでに、落ちたらただではすまない高さになっている。
たとえ指輪で身を守られていようと、屋根から落ちる経験など誰もしたくはない。その高さに心の中では震え上がりながら、ジゼルはシリルにしがみつき、訴えた。
「て、手を繋ぎましょう、そして歩いて出かけましょう。それじゃだめですか!」
ぴたり、と、シリルのすべての動作が止まる。
驚いたことに、ローブまで、はためくのが止まっている。
――ジゼルは、その結果が出るまで、生きた心地がしなかった。
どうやら、手を繋いでお出かけ、という点に、シリルの心は傾いたらしい。
さすがに転移をするのは細かすぎて面倒だったらしく、シリルは、ジゼルを抱えて飛んだまま、あっさりと門に向かったのだった。
思えば、実家に来たとき、シリルが手にしていたのは、実に庶民的な紙袋に入った菓子だった。それを、特に疑問にも思わず、と言うか、受け取ったときはそんなことを考えている場合でもなかったために気づかなかったが、あの紙袋の菓子は、もしかしなくてもシリル自身が買い求めたものだったらしい。
貴族の子弟であることも、魔術師であることも、どちらにしても街歩きなどしていそうにないのに、シリルはなぜか、商店について詳しかった。
魔法に関わりがある店に詳しいと言うならまだわかるが、日用雑貨である女性用の小物に詳しいのは、いったいなぜなのか。
店先で、シリルに三つ編みをほどかれて、お試しくださいとつぎつぎ差し出されるブラシで髪を梳かれながら、ぼんやりと考えた。
「綺麗な色ですね! こんな美しい銀色の髪は、長くこちらで商売をしておりますけど初めてかも知れませんわ」
「ジゼルが持っていたのは、木でできた櫛が一つだったから、一本買おうか」
「お買い上げありがとうございます!」
実に元気な店員の声が店先にまで響く。店員が、恭しく扱うブラシが一本いくらかと聞きたかったが、さすがのジゼルも今この店先で、それを聞くのは躊躇った。
ブラシを一本買い求め、上機嫌なシリルと、ジゼルは初めての王都を興味深く見て回った。
「シリル様は、ご自身でお店に買い物に行かれるんですか?」
ジゼルが興味を持つたびに、それについて解説をしてくれるシリルに視線を向け、ジゼルは朝、シリルが質問をしてきたときから思っていたことを口にする。
シリルの母である公爵夫人は、自身で買い物に行くことはない。むしろ、出向いて買い物をする、という考えがまったくないのだ。服や宝石などはもちろん、日常使用する細々としたものまで、大半は職人が夫人のために作る一点もの。たとえ既製の品が欲しい場合でも、出入りの商会の店主が、公爵家に相応しい品を持って屋敷に出向くのだ。夫人にとっての買い物とは、商品を見せに来る商人達から買い付けることを言うのであって、自身が店に出向くことではない。
見習いとはいえ、侍女としてしばらく夫人のそばにいたジゼルは、そのことを学んでいたし、それが貴族というものなのだと、マリーや侍従長からも聞いていた。
だから朝、どこに買い物に……と問われ、不思議に思ったのである。
「まあ、街の中にある結界を点検することもあるし、よく出歩きはするかな。それに、道具を作る材料も必要だし、道具を作るためには、その道具について知る必要がある。庶民の日常を見るのは、私にとっては仕事の種だよ。……まあ、今まではほとんど、夕方の仕事を終えた時間からしか、見られなかったんだけどね」
嬉しそうな笑顔になったシリルを見て、ジゼルはようやく、そのことに思い至った。
ジゼルも、王都見学は初めてだが、シリルにとっても、昼の王都見学はあまりないことなのだ。
確かに以前、午前中に起きて動いていたのは、早朝の会議のときくらいで、それ以外はすべて、寝ていたはずだ。ジゼルの仕事は午後からだったが、それ以前は完全に寝ているため、仕事がないことがわかっているからこそ、その時間からの仕事だったのだ。
昼の、誰もが働き、活動している時間は、シリルにとっても珍しいものに違いない。
ずっと繋がれている手を、改めてジゼルはしっかりと握ると、僅かな驚きを見せたシリルを見上げて、微笑んだ。
「これからも、時々でいいので、こうして一緒に出かけられますか?」
「……もちろん。ジゼルが望むなら、いつでも何度でも」
そう言って、シリルもまた、にっこりと微笑んだ。
二人の外出の最終地点は、見たことのない門だった。
普段使うものとはあきらかに違う、厳めしい軍人達がたくさん待機している場所に来て、ジゼルは目を瞬かせた。
軍人を怖いと思うことはないのだが、シリルがここに案内してきた理由がわからない。
不思議に思い、シリルを見上げると、シリルの表情は若干厳しいものに変わっていた。
「さすがに多すぎないか?」
誰に向けての言葉かはわからなかったが、シリルがそう告げると、そばにいた軍人の一人がようやくその存在に気づき、慌てたように敬礼した。
周囲の軍人達にも、それが伝播しているのだが、その敬礼とともに、驚きも広がっているようだった。
ただし、なにに驚いているのかは、それぞれ若干ずれがあるようだった。
「あれ、髪……え?」
「お、女連れ?」
ざわつく周囲をよそに、門の側にあった小さな詰め所から、壮年の軍人が姿を見せ、シリルに敬礼をして見せた。
「ずいぶん集めたんだな」
「なにせ相手は、提督閣下ですからな。海軍閥の方々からの妨害があってはなりませんので、まあ、はったり程度には集めさせました。……ところでシリル殿。そちらは噂の、奥方ですかな?」
「噂?」
「昨日から、城は大騒ぎでしたが。なにせエルネスト殿が鬼気迫る表情で、ここ最近結婚準備のために必ず取っていた休日を返上して働いていらっしゃいますからな。その姿が格好の噂の種になりました」
「子グマの再来かなにかかな、それ」
「まあ、似ておりましたな」
どうやら、この人物は、この部隊の隊長らしい、ということと、シリルの知己であることはわかった。
そして、その会話の内容から、ジゼルは重要なことに気がついた。
「来たぞ!」
見張り台からの声に、その場の全員が、門の外に目を向けた。
道の向こうから、ジゼルにも見慣れた護送用馬車が、周囲を騎兵に囲まれて姿を見せる。
その人物を見て、ジゼルは目を見張った。
「ブレイズさん?」
ブレイズも、ジゼルに気がついたらしく、騎馬の上から手を振ってくれていた。
「あの、シリル様、ブレイズさんが……」
「うん。予定では今日あたり到着だろうと聞いてたから、様子を見に来たんだ。それに、一緒に、あの子がいるはずだからね」
あの子という言葉に、ジゼルは慌てて視線を馬車に向けた。
よくよく見てみれば、護送用の大きな馬車のうしろに、小型の馬車がついてきている。
「この王都には、守護のための結界が大きく張り巡らされている。あの子を通すためには、誰か魔術師が見張っている必要があるからね」
にっこりと微笑むシリルを、ほんの僅かに視線を厳しくしてにらみつけたのもしかたがないだろう。
「そういうことなら、先に言ってください。それなら飛んでいくのも、納得したのに」
「間に合わないなら、飛ぼうと思ってたんだけどね。時間があるみたいだったし、ジゼルと一緒に買い物もいいかと思ったんだ」
邪気のない笑顔だが、ジゼルの冷たい視線を受けて、若干ひるんでいる。
そんな二人の前に、ようやく馬車が到着し、ゆっくりと静止した。
ブレイズは、すでに手続きのためか、先程の隊長とともに詰め所に入っている。
残された馬車を、待ち構えていた軍人達が取り囲んでいる。その中を、小さなほうの馬車の扉がゆっくりと開き、三位聖神官がゆっくりと姿を現す。あの日姿を変えた、長い黒髪のままの三位聖神官は、視線を巡らせ、シリルの姿を認めると、手を挙げてシリルに手招きをした。
「三位様、あの子は?」
シリルが挨拶するのももどかしいとばかりに尋ねると、三位聖神官はなぜかふうと吐息をつき、馬車の中からなにかのかたまりをよいしょと取りだした。
「……なんですか、それ」
「……昨日の宿のベッドにあった上掛けですよ」
その布のかたまりを、聖神官はジゼルに手渡した。
そして、そのかたまりを抱いたジゼルは、ようやく気づいた。このかたまりの中から、うなり声がする。そして、身じろぎなのか、それとも怯えなのか、ぶるぶると震えているような感触がある。
「……シグルド? いったいなにがあったんですか?」
思わず三位聖神官に問うと、三位は静かに首を振った。
「王都に近づくにつれ、怯えるようになりました。結界に反応しているのかとも思ったのですが、それならそれで、結界に対してもっと能動的に拒否を示してもおかしくないのですが、その子はそうやって、布に潜り込んで動かなくなってしまったんですよ」
そっと、布をめくって中を確認すると、シグルドは敏感に、光に向かってうなっている。
ジゼルは、思わずシリルに視線を向けた。なにも言わなくても、シリルはジゼルの腕の中にいるシグルドに、手をさしのべた。
「……だめだな。子供だからか、恐怖感しか伝えてこない。具体的になにを恐れているのかわからない」
「私も何度か試したんですけどね。まだ赤子の言葉ですから、明確な意思が読み取れないんです」
「え、あの、魔術師でも、だめなんですか?」
「ええ。人間と一緒ですよ。人間も、赤子の間は言葉にならないでしょう? 魔の言葉も、それと似たようなものです。言語として成り立っていませんので、当然ながら意思は伝わりません」
この二人にわからないものが、他の誰にわかるのか。ジゼルは、少しでも安心感を与えようと、抱えていた布のかたまりをぎゅっと抱きしめた。
「そうだ、ジゼルだ」
「……え?」
「ジゼルは、この子が言っていることはわからない?」
「え、あの、でも……」
ジゼルに、魔術師の言葉は理解できるはずもない。その言葉は、シリルから告げられた事実にかき消えた。
「ジゼル、この子は、うちの養い子だ。もう、私達の子だ。君の子だ。ジゼルが授かった祝福は、家族の言葉がわかる、というものだ。それなら、子供の声は、何より君に届くはずだ」
言われて、慌ててジゼルはシグルドを覆っていた布を、僅かに緩めた。
抱きしめたまま、改めて、ジゼルはシグルドのうなり声に耳を傾けた。
この子は、自分が育てる子供。金狼のお母さんから預かった、大切な子。真剣な表情で、ジゼルはシグルドのことを思う。
そして、ふと微かな声に気づく。
「……匂い……と、音……?」
「え?」
「あの、くさい、らしいです……。あと、音が……耳が痛いって」
明確な言葉ではない。だけど、その意思がわかる。強烈な不快感を感じているのもわかる。
驚きの感覚に、ジゼルも戸惑った。
「お母さんのお手紙に、この子は鼻がいい子だと……刺激物を与えないでくださいとも書かれてありましたし、もしかして、音や匂いは、この子にとって刺激物なんじゃないでしょうか」
それを聞いたシリルは、一瞬虚をつかれたように目を瞬かせたが、すぐさま指を動かしはじめた。
「匂いや音なら、風の専門だよ」
そう言うと、親指と人差し指を、ぽんとはじいた。
ジゼルは、はっきりとその瞬間を感じた。それまで周囲を取り巻いていたすべての音が、まるで水滴が池に落ちるがごとくにすべて空に消えた。
一気に静寂に包まれ、先程まで感じていた風の香りも消えた空間で、シリルはジゼルが抱いていた布を大きくまくり、シグルドの顔を表に出した。
「これでどうかな?」
どうやら、シグルドにも、この変化は感じられたらしい。
愛らしいとがった耳をぴんと立て、顔を上げてきょろきょろと周囲に視線を巡らせている。
「……まずは、シグルドの周囲に、この結界を発生させる道具を作らないとね。今は調整せずにすべてはじいているけど、もっとちゃんと調整して、少しずつ慣れていけるように作らないとね」
シグルドの頭をそっと撫でると、シグルドはようやく状況を理解したらしく、嬉しそうに「きゃん」と鳴いていた。
シグルドもつれて帰宅したジゼル達を、起きたばかりらしいノルが出迎えた。
ノルが寝床にしてしまった、玄関横の控え室に、シグルドまで連れて行っている。
本来客人を入れるはずのそこは、その日以来、シグルドとノルの部屋として整えられることとなった。
ジゼルは、贈られたブラシで髪を梳きながら、その日のシリルとの外出を思い出す。
「……そういえば、どうしてシリル様は、私が木製の櫛を一本しか持っていないことを知っていたの……?」
楽しく思い出していた一日の行程のうちで、まず気がついてはいけない事実に気がついてしまった。
手に持った、今日の贈り物をじっとりと睨みながら、それでもこれに罪はないかと、再び髪を梳く。
――もちろん、次にジゼルがシリルと顔を合わせたとき、これについて追求を忘れることはなかったのである。




