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蜜色の幸福 後編

 枯れ草を踏む音がして、ソフィーナは驚き振り返った。

 シグルドの足音にしては大きすぎ、そして今、立ち入り禁止であるここでシグルド以外の足音がすること自体、危険を知らせることに他ならない。

 少し離れた場所にある低木がかすかに揺れた後、姿を現したのは、つい先ほど町の中で、ソフィーナの神経をこれでもかと逆なでした男だった。

 その姿を目にした瞬間、ソフィーナは毛を逆立てた猫のように怒りをあらわにした。


「あんたさっき、シグルドを蹴飛ばしたって? それで私の前に顔を出すなんて、いい度胸じゃない。その尻思い切り蹴飛ばしてやるから、こっちに向けな!」

「おまっ……女が尻とか言うな! そもそもあいつは蹴っ飛ばしたところで全くこれっぽっちも堪えてなかっただろうが! むしろ俺の方が痛かったぞ!」

「八つ当たりで足を向けた時点で、あんたが悪い!」


 ずばりと言い切られ、男はたじろぎ、一歩後ずさった。


「……あんた……何しに来たの」

「な、なにって話に決まってんだろ。さっき、俺は納得なんかしてないぞ」


 そう尋ねたソフィーナの声は、普段からは全く想像もできないような、抑揚のない聞いただけですくみ上がりそうな怒りを感じる声だった。


「話だって、もう終わってる。私は、あんたの嫁にはならない」

「だから、どうしてだよ!」

「どうしてもこうしても。好きでも何でもない相手と、何で結婚なんかしなきゃならないのよ」

「おまえ、もう二十九だろ。親だって、嫁に行けとか言ってるだろうが」

「うちの親が、そんなこと言うわけがない。毎年、もし相手ができたらすぐに言えとは言われているけど、早く行けとか言われたことないわよ」


 事実、父は腕の力こぶを誇示しながらそれを話したのである。明らかに、殺る気だった。姉二人の夫は、二人ともその試練を超えたのだ。多少、歳を重ねたからといって、あの父が手加減などする気があるわけもなく。

 本当に娘を早く嫁にやりたい親なら、そもそもそんな風に待ち構えているはずもない。己の意に沿う男を、娶せているはずだろう。

 それが今もって一切話がないあたりで、父の意思がうかがい知れる。


「そもそも、うちの親だって、好きあって結婚したのよ。姉二人もそう。それなのに、私だけ、相手かまわず嫁に行けなんて言うはずがないでしょ」

「相手かまわずってどういうことだ」

「自分が好きでもない相手ってことよ」

「なっ」


 男の絶句もかまわず、ソフィーナは肩をすくめて言い放った。


「結婚は、する気はある。でも、相手が誰でもいいわけじゃない。結婚がしたいから相手を探すんじゃない。一緒になりたい相手が居るから、結婚する気になるの。あんたは私が好きなのかもしれない。でもそれはあんただけの話でしょう。私は好きじゃない。ずっと一緒に居たいとは思えない。だから、あんたとは結婚しない」

「店は……いつまでも、親方のところにいても、おまえの名前が売れるわけじゃない。俺と一緒になれば、店だって持たせてやれる。おまえの名前で、おまえの店を作りゃいい。あの狼と一緒に暮らしたいなら、そこで暮らせばいいだろ。これだけ用意してやるっていってるのに、何でだめなんだよ」


 肩を落とし、呆然とした風につぶやく男に、ソフィーナは容赦などしなかった。


「自分の店は自分で作る。誰かの名前で、誰かに頼って持つ店では、私にとって意味がない。それが自分の力でできないのなら、私の腕はその程度だということだもの」


 きっぱりと言い切ったソフィーナの態度が、それ以上男の入り込む隙など与えない。

 呆然としながらそれを見ていた男は、それをようやく理解したとばかりに、がっくりと肩を落とした。


「早く街に帰りなよ。ここ、本当は立ち入り禁止なのよ。今なら、見なかったふりしてあげるから、早く出ていって」


 動かない男に、ひらひらと手を振って行動を促す。

 そうでもしなければ、この男は延々この場所で落ち込んでいそうに見えたのだ。


「……おまえだって、そうじゃないのか」

「私は、許可があるからここに居るの。ほら、帰った帰った」


 まるで子供を追い払うように、来た方向に体を回転させられ、ぐいと押された男は、慌てたように踏みとどまろうとしてたたらを踏む。


「もう、話はないでしょ。何回言ったって、私の気持ちは変わらないから」


 男から視線を外し、くるりと身を翻したソフィーナは、そのまま森の奥に行こうとした。一刻も早く、この男から離れたかったのだ。

 だが、ソフィーナが一歩駆けだした瞬間、男はソフィーナの手を掴み、その体を自分の方に引き寄せた。


「ちょっ!」

「なあ、頼む。これで終わりだなんて、言わないでくれ。好きじゃないってなら、それでもいい。これから、好きになってくれりゃいいんだ」

「しつこい!」


 背後から抱き込まれ、腕を振り上げてもたいした攻撃は加えられず、頭突きを狙おうにも、ソフィーナは小柄すぎて男に痛みを与えられる位置に攻撃が入りそうにない。

 何度も何度も恨んだ己の小柄な体を、今再び忌々しく感じたその時だった。

 ぐいと横から腕に力がかかり、男が引きはがされた。

 男もソフィーナも、何が起こったのかわからぬまま、視線を同じ方向に向けていた。

 そこに、もう一人男が立っている。

 ソフィーナと抱きついていた男のすぐ横。現れればわからぬはずはないその位置に、その男は静かにたたずんで、腕一本で自身よりも体格のいい粉屋の息子をつり上げていたのである。


 白皙の、こんな場所にそぐわない美貌だった。切れ長の金色の眼差しは、今、凍り付きそうな冷ややかさで男に向けられている。

 薄い唇も、きゅっと結ばれ、この美貌の主が大変気分を害していることを、ありありと感じさせる。

 その人は、なぜかこの森の中、ざっくりとした革製のズボンと、慌てて羽織ったような貫頭衣をベルトでいかにもてきとうに止めていた。足下は裸足で、明らかに大慌てで着込んだような、おおざっぱな服装だった。

 衣装も場所もその表情も、何一つ森にそぐわないその人は、まるでうなるように唇の端をひきあげると、低い声で男に告げた。


「……この森は、許可なき立ち入りは禁じているはずだ」

「ひっ」


 襟足でつり上げられた男は、慌てたように足をばたつかせ、その手から逃れようともがいていた。

 だが、横にいる男は、あがきをものともせず、軽々とさらに男を高く吊り上げると軽く腕を振り、男を遠くへ投げ飛ばした。


「ソフィーナの顔を立て、今日は見逃す。二度はない」


 ソフィーナは、慌てふためいて逃げていく男の姿を見ることはできなかった。

 その視線をふさぐように、後から来た男が立っていたからだ。

 ソフィーナには、この背中に見覚えはない。しっかりと鍛えられた四肢にもだ。

 だが、そんなものを吹き飛ばすほどに覚えのあるものが、いや、色がそこにある。

 肩を覆う長さの髪。その、まばゆい輝きを秘めた色。上質な蜜を光に透かし見たときの、ソフィーナにとっては何より幸せを運ぶ色。

 それを一つにまとめている紐も、ソフィーナには見慣れたものだ。

 小柄なソフィーナが、軽々と抱き上げていた小さな頃から、ずっと首についていた、切れ目のわからない大切な首輪。

 どうやってほどくのかわからなかったそれが、リボンとなってその髪をひとまとめにしているのだ。


 ――ようやく、その時が来た。

 ソフィーナは、それを、体の奥底からわき上がる、歓喜の震えで理解した。


『シグルドは人狼だから、大人になれば人の言葉も話せる』


 シグルドは、金狼という名前の種類だとは聞いていた。ずっとそう説明され、魔術師が使役する違う世界の生き物なのだという話だけはされていた。

 どんな話の流れだったのかは覚えていない。ただ、シグルドと話ができる姉がうらやましくて、少し愚痴をこぼしたことは覚えている。

 その愚痴に対する姉の返答が、それだった。

 人狼がなんなのか、王都にある図書館で調べたのはそのすぐ後。それが人から狼に姿を変える魔族の名前だと知って、ソフィーナは快哉を叫ぶのを、場所柄を考えて必死にこらえなければならなかった。


 おとぎ話で、魔族の誘惑として書かれるそれが現実にもあることを、ソフィーナはあの時知った。

 だけど、その対価を知ることが、言葉がわからないソフィーナには不可能だった。

 もし、シグルドが人の姿になれるのならば。もし、話ができるなら。

 ソフィーナはその日から、ただ待つことを決めたのだ。


「……シグルド」


 感極まってこぼれたソフィーナのつぶやきに、今まで男からソフィーナを守るように立ちふさがっていた体がびくりと揺れた。

 ちらっと肩越しに、その人はソフィーナへ視線を向け、そして慌てたように再び正面を向いた。

 あまりにも見慣れた仕草だった。

 それは、シグルドが、何か隠し事をしているときの姿だった。

 見上げるほど大きな男性になっても、仕草は同じなのだと思うと、ソフィーナの口元にも自然と笑みがこぼれる。


「シグルド?」


 今度は振り向かない。だが、こちらを意識しているのはわかる。

 幻の狼が、その姿に重なって見えた。

 金色の耳は、しっかりこちらを向いていた。それなのに、尻尾がしょんぼりと力なく垂れ下がっている。

 見えないはずのその姿が、ありありと目に浮かぶ。

 必死でこらえていた笑い声が、思わず口から漏れた。

 ソフィーナは、あっさり我慢をやめ、その手を伸ばす。


「シグルド。こっちを向いて?」


 腕を軽く引くと、気まずそうな表情で、ゆっくりとシグルドは振り返った。


「すごい。大きいね。父さんより大きいかな」

「……野獣様よりは小さいよ。ソフィ」


 初めて自分に向けて放たれたシグルドの言葉に、ソフィーナはにっこりとほほえみを返した。


「今までも、ソフィって呼んでくれていたの?」

「……うん」

「そっか。……うん、うれしい。やっと、シグルドの言葉がわかったよ」


 背伸びをして、腕を上に伸ばし、シグルドの頬を両手で挟む。そうしてやっと、シグルドの顔を正面から見ることができた。

 不安定になったソフィーナの姿勢を、シグルドが不安そうに見守っている。そっと、壊れ物にでも触れるかのようにソフィーナの腰に手を回し、不安定な姿勢を支えてくれた。

 その瞳は、狼の姿の時と寸分変わらない。金色で、いつもおおざっぱなソフィーナを、心配そうに見守っているときの眼差しである。


「狼でも人でも、やっぱりシグルドはシグルドだね。表情が一緒だもの。わかるもんだね」


 にこにこと、喜びを全く隠さないソフィーナの表情を、不安そうなシグルドはひたと見つめていた。

 そして、ようやく口から出たのは、純粋な疑問だった。


「どうして……すぐにわかったの? ソフィには、僕が人の姿になることは、知らせないようにしていたのに」


 その疑問を聞いて、ソフィーナはようやく納得したとばかりにうなずいた。


「やっぱり、あれは姉さんのうっかりだったのかぁ。一度だけ、シグルドが人狼だって、ジゼル姉さんがこぼしたの。だから、大人になればシグルドは人の姿になるんだろうって、ずっと待ってたのよ」

「いつから?」


 その質問に、ソフィーナはしばし考えた。


「この森に、見回りに来るようになってすぐかな?」

「そんなに……前から?」


 驚いた様子のシグルドに、うなずいて答えたソフィーナは、シグルドの頬から手を離し、その体にぎゅっと抱きついた。


「森の見回りの契約についての話を聞いたとき、シグルドはちゃんと言葉を話していることを知った。じゃあ、いつも私に向かって鳴き声を出しているのも、ちゃんと意味のある言葉なんだろうなと思ったら、その言葉がちゃんと聞こえてる姉さんやシリル義兄さんがうらやましかった。言いたいことは何となくわかってたし、こっちの話をちゃんと聞いてくれているのもわかってたけど……それでもうらやましかった」

「ソフィ……」


 困ったように眉を下げているシグルドに、ソフィーナは今抱きついている体がまとっている服を引っ張りながら訪ねた。


「この服は、どうしたの? 狼から人に変わると、服も出てくるの?」

「ううん。これは、この森にある見張り小屋にあるものを適当に借りたんだ。この森は、狩猟の季節になると人が入る。その人たちが雨に降られたときのために、服や保存食が用意されてるんだ。それを借りた」

「……自分で用意していたわけじゃ、ないんだ」


 ほんの少しだけ、ソフィーナの声の調子が下がったのを、シグルドは聞き逃さなかった。そして、ソフィーナが何を期待していたのかも、それでわかってしまった。


「どうして、人の姿になって出てきたの?」


 あの男を撃退するだけなら、狼の姿でも問題はなかった。それなのに、わざわざ隠していたはずの人の姿をさらしても出てきたのはなぜなのか。

 服も借り物で、慌てて着付けた様子を見れば、それが予定していた行動でないことがわかってしまった。

 ソフィーナがそれで気落ちしたのを察したシグルドは、苦笑して、肩をすくめて見せた。


「僕は、狼の姿より、こちらの方が手加減ができるんだ」

「……手加減?」

「何せ、この姿の間は、フェリクスたちの剣の相手をしていたから。子守には、爪も牙も必要ない。何があってもそれが出ないように、ずっと訓練したんだよ」


 ジゼルの息子フェリクスは、母親の体質をすべて受け継いでいる。銀の髪も紫の瞳も、魔を寄せ付けないし、魔力の関わることは、フェリクスには才能が一切ない。当然ながら、父や双子の妹であるミレイユが何もしなくても理解できるシグルドの言葉も、フェリクスには理解できない。

 だから、シグルドは人の姿になることを覚え、そして狼の姿であろうが人の姿であろうが効果を及ぼすはずの爪や牙などの武器を、すべて押さえることをまず覚えた。


「こちらの世界で、僕は人を殺めないと約束している。できるなら、血もあまり見たくはない。だけど、本来の、狼の姿のまま、無傷であの男を取り押さえる自信がなかったんだ。あの男と、ソフィの会話を聞いてたら……。その、助けるのが遅れて、ごめん」


 大丈夫だと言おうとしたソフィの前で、シグルドは突然なにやら言いよどむと、意を決したように口を開いた。


「ソフィは、あの、結婚、するの?」

「へ?」

「あの男と、話してたとき、その……結婚する気はあるって。相手は、だれ?」

「……あいつじゃないことだけは確かね」


 しばらくあっけにとられながら、ソフィーナはそれだけを答えた。

 シグルドはその答えに納得できないとばかりに、首を振った。

 けれど、シグルドの話を聞き、ソフィーナはようやく本来、シグルドがこの姿になったときにしなければならないことを思い出したのである。


「シグルド! 私あなたに、聞きたいことがあるの」

「なに?」


 シグルドは、まだなにやら納得できないようなそぶりを見せながらも、ちゃんと話を聞いてくれるようだった。

 ソフィーナは、シグルドに抱きついたまま、にっこりほほえみ、尋ねたのである。


「あなたとずっと一緒にいるために必要な対価は何?」

「……え?」


 よほどその質問が意外だったのか、シグルドはきょとんとした表情でソフィーナを見下ろしていた。


「あなたは、ここに仕事でいるんでしょう? その仕事が終われば、元の世界に帰るって聞いたの。だけど、私はあなたと一緒にいたい。どんな対価があれば、あなたはこの世界にずっといられるの?」 

「そ、ソフィ。ちょっと、待って。落ち着いて……」

「落ち着いてるわ。ずっと、それを聞きたかった。これを聞きたくて、ずっとあなたと会話ができる日を待ってたの。あなたが魔族で、対価があれば願いを叶えると知ったとき、これだと思った。どんな対価があれば、あなたは私と一緒にいてくれる?」


 シグルドの沈黙に、ソフィーナは、あ、と何かに気がついたように顔を上げた。


「あなたにそのつもりがないなら、もちろんそう言って? 無理矢理、つなぎ止めたいわけじゃないから」


 でも、と一瞬ためらいながらほほえんだソフィーナの表情に、シグルドの視線は釘付けになっていた。

 ほんの少し潤んだ目も、薔薇色に染まった頬もすべてが初めて見るものだった。日頃は屈託なく笑うソフィーナの、日頃見せることのない別の面を、初めて見たその衝撃は、大変なものだった。

 ソフィーナの頬も染まっていたが、それ以上にシグルドの顔は真っ赤に色づいたのである。

 だが、幸か不幸か、ソフィーナはすぐさま視線をシグルドからそらしており、そのリンゴより赤く色づいていそうなシグルドの顔は、ソフィーナの目には入らなかった。


「菓子職人としての私を、初めて認めてくれたのはシグルドだった。どんな菓子も、成功も失敗も、ずっと見ていてくれたのもシグルドだった。うれしかったの。だから、私はあなたに認めてもらいたくて、あなたに食べてもらうための菓子を作ってきた。これから先も、私はあなたのための菓子を作りたい。だから、一緒にいさせてほしい」


 ソフィーナは、今も視線をそらしたまま、顔をシグルドの胸元にすりつけることで、恥じらいを隠す。

 そんなソフィーナの体を、シグルドははじめよりも力を入れず、そっと手を添えて引きはがした。

 これ以上、ソフィーナに体を密着されると、若い男性としてはどうしようもない我慢を強いられることとなる。

 少しうわずったような声で、シグルドは決死の覚悟だったソフィーナの疑問に答えた。


「ソフィは、この王都に店を構えたいの?」

「……え? ううん。店の場所にこだわりはない」

「ずっとこちらの世界に僕をとどめたいというなら、ソフィはどこに店を作るの?」

「……まだ、決めてない。シグルド、本当は、王都が嫌いでしょう?」


 あっさりとした言葉に、今度は別の意味でシグルドは驚かされた。


「いつも、すこし大きな音がすると、体を竦ませてた。強い臭いのする場所には近寄らなかったし、そういう場所が多い王都は嫌いなんだなって思って。だから、あなたが王都にいたくないなら、少し離れた森の中にでも、店を作ろうと思ってた」


「……それじゃあ、店の場所は、僕が決めてもいい? それなら、対価を教えるよ」


 シグルドの問いに、ソフィーナは少しも迷わずうなずいた。


「もちろんよ!」


 その返答に苦笑したシグルドは、そっとソフィーナの右手を握ると、それを口元に運んだ。

 やけどや切り傷、水仕事で荒れているが、ソフィーナにとっては今までの修行を支えてきた、大切な宝である。それに恭しく口付けたシグルドは、歌うような口調でソフィーナに問いかける。


「……ファーライズ。場所は、ファーライズに。対価はソフィーナ・カリエ」

「ファーライズ? って、聖神官様の? 神様がいる島? そんなところに、店を出せるの?」


「返答を」


 その言葉に、ソフィーナは雄々しくうなずき、胸をたたいた。


「なせばなる! わかった。ファーライズに行ってみせる。対価は……私? 私でいいの?」

「ソフィがいい。ソフィがほしい。ソフィのすべてをくれるなら、どんな願いも叶えてみせる。金狼の長でありファーライズ大公の嗣子ダレルの子にして大公の剣シグルド、その名を懸けて」


 その、あまりに長い名乗りに一瞬呆けながら、それでもソフィーナはうなずいて見せた。


「ずっと、一緒にいてくれる?」

「……望みのままに」


 シグルドがそう答えた瞬間、ソフィーナの足下に、金色の円環が浮かび上がる。

 思わず息をのんだソフィーナの周囲を取り巻くように、その円環は文字を躍らせながらソフィーナに向かって少しずつ収縮していった。

 シグルドの口から、聞いたことのない言葉が紡ぎ出され、躍る文字がそれに呼応するように光をまとう。

 光が少しずつ収まるごとに、その文字は一つずつソフィーナの中に飛び込んでいく。気がついたときにはすべての円環がソフィーナの体に吸い込まれるように消えていた。 

 呆然としたままだったソフィーナの体を、シグルドが掻き抱く。その耳元で、ほんの少し困惑気味にささやく声が響いた。


「……だめだよ、ソフィ。魔族にそんな簡単に、約束なんかしたら。ちゃんと契約を確認しないと」

「あなたがそれを言うの!?」

「ファーライズにも、二つあるんだよ。こちらの世界のファーライズは、確かにソフィの言った通りだけど、もう一つのファーライズは、僕らの世界にあるんだ」

「へ?」


 きょとんとした表情のソフィーナに、シグルドがクスクス笑いながら、その首筋に顔を埋めた。


「僕らの世界のファーライズは、こちらのファーライズのちょうど真下にあるんだよ。そこには、あちらの世界の神様である、大公、畏怖様がいらっしゃるんだ」


 しばらくシグルドの説明を頭にとどめ、先ほどの了承の時より長く考えたソフィーナは、ようやく口を開いた。


「……私が店を開くのは、そっちのファーライズ?」

「うん」


 再び考え込んだソフィーナから、次に出た疑問は、至極簡単なものだった。


「……魔族の人たちって、パンとかお菓子、食べる?」


 それなら全然問題ないんだけど、というソフィーナの言葉に、シグルドはついに耐えられなくなり、声を上げて笑い始めた。


「大丈夫だよ。だって、里には人間の母さんたちもいる。それに、僕はソフィーナの作る菓子は大好きだから。少なくとも、金狼の口には合うんだよ」

「それならいいや。食べてくれさえすれば、後はその口に合うものを作ればいいだけだもの」


 にっこりほほえむソフィーナの瞳に、迷いなどは一切見られない。 

 その後、シグルドがソフィーナの手を引きながら、服を返すために小屋に向かう。

 人の姿で森を出るわけにはいかないので、そこで元の狼の姿に戻るのだ。 


「僕も、野獣様に、お嬢さんをもらいますって挨拶をした方がいいのかな」

「……あれをやってくれるの?」

「やらないと、野獣様は世界を超えてきそうだよ」


 狼の姿では叶わないその感触を確かめるように、シグルドはしっかりとその指を絡めて握りしめていた。




 ファーライズへの移住が決まったのは、それから半年後。まず、修行していたパン屋を辞めて故郷に帰ったソフィーナは、シグルドの仕事を引き継ぐファーライズの聖神官と騎士を迎え、その二人を送ってきた船を使い、引き継ぎを済ませたシグルドとともにあっさりとファーライズに渡ったのである。


 ソフィーナのその後の消息がカリエ一家に伝わったのは、その三年後。

 再びやってきた金色の仔狼が背負う袋の中に入っていた、この子の好物はリンゴと私の作ったケーキですと書かれた、懐かしい筆跡の手紙によってだった。

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