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蜜色の幸福 前編

 街の中を、一頭の金色狼が悠然と歩む。

 優美な白の外壁で覆われた王宮を背後に従えるように、世に在らざる生きた芸術品は、その長い尾をゆらりゆらりと振りながら、本来馬車が通るための道を移動する。

 本来、王都にこのような獣が存在することはありえない。王の住まう城のすぐ傍で、こんな生き物が人に繋がれること無く悠々と歩いていることは、許されるべき事でも無い。だが、この狼に関しては、道行く人々も、それぞれの屋敷の門番達も、一切慌てることもなく、それどころかにこやかに見送っている。

 狼が口に咥えている引き綱につけられた、金と翡翠の紋章が誰の物であるのか、この街で知らぬ者は無い。この街を守護する偉大なる魔術師。その魔法を凝縮したその紋章は、今日も狼自身の、陽の光で輝く体毛に勝るとも劣らない輝きを湛えている。

 街の人々はその事を、その人の逸話と共に理解していたのである。


「しつこいなあ」


 うんざり、という感情がこれでもかと込められている女の声が聞こえてきたのは、金色の狼が、勝手についてくる子供達を追い払うことなく引きつれて、一軒のパン屋の軒先に到着したときだった。

 店の裏から聞こえた、その聞き慣れている声に、狼は首を傾けた。


「私は、粉屋の女将になるつもりはこれっぽっちもないって、ずっと言ってるでしょうが」

「こっちは、行き遅れをもらってやろうって言ってんだぞ! しかも店を持たせてやるって言ってんのに、なんの文句があるんだよ!」

「行き遅れだあ? その言葉はね、行く気がある女に使うもんだ。行く気が無いのに、遅れるもなにもあるか! それに、あんたは人のこと言えないでしょ。三十になるまで、嫁の来てが無かったんだから!」


 どうやら、この言い争いは、始まってからしつこいという言葉が出る程度の時間は経過しているらしい。

 周囲は商店が並ぶ通りではあるが、今は時間が中途半端だからか、人通りもまばらで、その店先や二階の窓から、暇らしいご近所の商店主達が顔を覗かせ、経過を見守っている。

 双方、頭に血が上っているらしく、どんどん声が大きくなっている。隣の雑貨屋の女将が、ため息交じりに向かいの靴屋の女将に呟いた。


「ソフィちゃん、これで何人目かね。全員おなじ理由で断ってるのに、みんな懲りないねえ」

「もう数え切れないよ。誰とも結婚する気はないって毎回言ってるのにねえ。お貴族様は、街の噂なんか聞いてないのも分かるけど、粉屋は毎日ここに通ってるじゃないか。あの粉屋のせがれ、店を作ってやれば結婚できるだなんて、一番嫌われる方に勘違いしたもんだね」

「ソフィちゃん、別に王都に店を持つことにこだわっちゃいないんだろう? 店がほしいなんて言ってやしないのにねえ……」


 狼は、その会話に耳を傾けつつ、そっと路地から店の裏側をのぞき込む。

 その大きな頭の下に、子供の小さな顔が、ぴょこぴょこと飛び出した。


「シグルド。これ、ソフィさん出かけられないんじゃないか? なあ、俺らと遊ぼうよ」

「時間もかかりそうだよ。ねえ遊ぼ」

「くぅん……」


 子供達の顔を見下ろしたシグルドは、引き留めようとする小さな手を鼻先であしらい、僅かに首を振ると、そのまま路地に進み出た。

 シグルドは、森だろうが街だろうが、目立つ体にそぐわないほど静かに行動する。今まさに、頭に血が上っているらしい男の背後に、気配を悟られる事無く静かに移動すると、ゆらりと後ろ足だけで立ち上がり、その頭上にぽんと大きな前足を乗せた。


「ひっ!」


 驚いたように身を竦ませ、振り返った男はその姿を目にして、ほっとしたように強ばらせていた肩の力を抜いた。


「なんだよ、シグルドか。今、大事な話をしてるんだ。ちょっとあっちに行ってろ!」


 男は大きく手を振ってシグルドを追い払おうとしたが、シグルドは意に介さず男の頭に乗せていた前足に体重をかけると、店の裏庭から男を引きずり出した。そしてそのまま入れ替わるように庭に足を踏み入れる。

 その姿を目にした途端、ソフィーナの今まで顰められていた表情が、瞬きの間に笑顔に変わっていた。


「シグルド。もうそんな時間だったの? ごめんね。すぐ仕度するから!」

「あ、おい! まだ話は終わってないんだぞ!」

「もう終わってるわよ!」


 追い出された門の外で、男は大きな声でソフィーナを呼び止めた。しかし、彼女は振り返ることすらせずに男に言葉をぶつけ、扉の奥に姿を消した。


「……ちっ!」


 忌々しげに舌打ちした男は、目の前にいる金色の狼の背中にひとつ蹴りを入れると、足早にその場を立ち去った。

 その姿に、周囲の人々は男のその様子に一斉に冷たい視線を向けた。

 しかし、蹴られたシグルド自身は、小石がぶつかったほどの痛みも感じていない。頑強な金狼の体が、普通の人間の蹴りひとつでどうなるわけでもない。むしろ、蹴った男の方が、痛みは大きかっただろう。

 なにせシグルドの体は、この国一番の騎士であるベルトラン侯爵をして、毛の一筋すら傷つけることは叶わない強さを誇っている。

 シグルドは、ちらりと蹴られた場所に目を向けただけで、再び元のようにソフィーナが姿を消した扉に向き直り、おとなしく座ってソフィーナが出てくるのを待っていた。

   

「ごめんね、シグルド。変なことに巻き込んじゃって。あいつ、今度顔を見たら、私がかわりに蹴っとばしておくから」


 ソフィーナは、ギリ、と悔しそうに歯を食いしばり、怒りが収まらぬとばかりに握り拳をぶんぶんと振り回した。

 怒りを露わにしながらずんずんと前を行くソフィーナに、シグルドは心配そうな表情をして、半歩下がって後をついて行く。

 シグルドには、先程まではシグルドが咥えていた引き綱がつけられており、その綱の先はソフィーナが握っている。

 つい先程、街の中を一頭で移動している時は咥えていたというのにおかしな話だが、シグルドが外門を出る場合、この引き綱が必要なのだ。

 この引き綱は、シグルドの通行証。そして、引き綱と言うからには、それを手にする人が必要となる。

 今日、こう見えて、シグルドは仕事に行くのである。

 王都の周囲にある森を縄張りとして見回りすることが、シグルドのここ十年ほどの仕事なのだ。

 事の始まりは、シグルドが王都で暮らすようになってすぐの事だった。公爵家には広い庭もあるが、やはり自然の森も見せた方がいいかと、まだ抱えられる大きさだったシグルドを、王都を囲む森のうち、バゼーヌ家が管理していた場所を歩かせたところ、そこから害獣の気配が無くなったのである。

 バゼーヌの森と呼ばれるその場所が、シグルドの縄張りになったと聞けたのは、シグルドが三歳になり、それまで片言だった魔術言語の語彙がようやく増え始めた頃。その話をシリルから聞いたエルネストが、それならいっそ王都周囲の森すべてを縄張りにすれば、森の害獣による被害も減るのではと王家に提案し、ここでシグルドが役目を負っている間という限定をつけ、森をシグルドの縄張りにする許可を得たのである。

 森に行くためには、当然外門を越えなければならないが、金狼として街に受け入れられたシグルドは、単体で外に出る事は許されていない。そもそも獣は、街の誰かの所有物で無い限り、この門をくぐることが許されていないのだ。

 誰かの所有物が、単体で門を越えることはすなわち脱走となる。

 たとえどんなにシグルドが賢かろうが、シグルドの存在がこの町で狼として認識されている限り付き添いが必要なのだ。

 付き添いとしてシグルドと共に門を越えたソフィーナは、門のすぐ傍でひょいとシグルドに跨がった。


「じゃ、シグルド行こうか」

「ワゥン!」

 門のところで、金色の狼を初めて見た人々はその姿に驚き、そしてそれに跨がる女性を見て、二度驚く。

 人一人分の重さを感じさせない軽やかな足取りで、静かに森に駆け出す狼を唖然と見送るその光景は、ここ十年、この門の裏の名物とまで呼ばれるようになっていた。


 真っ赤に熟れた木苺を籠に摘み取りながら、ソフィーナはシグルドが見回りを終えて帰ってくるのを待つ。

 王都の周囲にある森は、それぞれ王家と三公爵家によって管理されている。森の入り口には、見張りの小屋が設けられ、立ち入りを常に監視されている。

 当然ながら、森の実りはそれぞれの家の財産であり、許可無く立ち入りも、当然ながらその森から何かを持ち出すことも許されない。

 だが、シグルドと共にソフィーナが森にいる間、彼女にのみその収穫が許されている。

 これは、シグルドの給金代りなのである。

 魔族に何かを望む時は、その対価が必要となる。それは、魔術師たちの知る、魔族とつきあうための最低限の常識である。

 シグルドは、シリルの監視という役割を与えられ、主人の命でこの世界に存在している。

 すでに役割を負っている存在に、それとは別の願いを訴える場合は、対価が必要となる。

 だが、シグルドは、報酬としての金銭に、一切の興味を示さなかった。

 そもそも魔族は、生きていくのに、人の間に流通している金銭はあまり必要としていない。特にシグルドは狼である。金銭を使うこと自体がない。

 幼い頃ならまだしも、成長してしまえば、食糧などなくても問題が無い。シグルドの食料である魔力は、それこそ森の中の植物たちも作り出しているありふれたものだ。わざわざ金銭を使用せずとも、飢えることがない。

 衣服にしても、本来の姿が狼であることに加え、シリルのお下がりで間に合ってしまうため、それに金銭を使うという発想が無い。

 困った人々は、それならばと、シグルド自身に対価を決めさせたのである。


 ――そして、シグルドが望んだ対価は、ソフィーナの菓子だった。

 ソフィーナと共に森に入り、森の実りを見て、それを使った菓子を望む。それが、金狼シグルドの望みだった。

 この望みを人々が耳にした時、彼女はまだ見習いだった。ようやく下積みを終え、菓子作りの道具を与えられたばかりの頃だった。

 その職人としての成長を、辿って行く成功も失敗もすべて知りたい。それをシグルドが望んでいるとシリルから聞かされたソフィーナは、それを喜んで受け入れた。


 それ以来、シグルドがこの仕事の時は必ずソフィーナが手綱を握り、シグルドはその鼻で見つけた実りの場所にソフィーナを連れて行くのだ。

 ソフィーナにとって、菓子職人としての道の傍に、ずっといてくれる存在は、他の誰でも無く、シグルドだった。


「シグルドは、いつ大人になるのかなぁ」


 黄色、黒色、赤色の、綺麗な実を選んで摘み取りながら、ソフィーナはつぶやいた。

 その顔に浮かぶのは、穏やかな笑み。少女の時とは違う、そして先程まで街で見せていたものとはあきらかに違う暖かさを持つ、大人の女性のそれだった。

 ソフィーナの夢は、菓子職人として独り立ちすることだ。だが、ただ独り立ちするだけではだめなのだ。

 他の誰かと居たいわけではない。シグルドとともに、シグルドのための菓子を作り出せる職人となりたい。

 その望みが、ソフィーナの中に大きな目標として刻まれたのは、シグルドの望みを、義兄のシリルから告げられたその時だった。そして同時に、それを叶えるためにどうすればいいのかも、その時知った。

 だからソフィーナは、シグルドが大人になるのを待っていた。遙か昔、姉が、ほんのわずかに油断したときにつぶやいた一言に、一縷の望みをかけた。

 それもおそらく、もうまもなく。

 他の世界の狼が、どれくらいで大人になるのかはわからないが、体つきでいえば、もうとうの昔に大人であっておかしくない。こちらの世界の犬ならば、体ができれば、もう子を産むのだ。

 その日をひたすら待っているソフィーナにとって、シグルドと二人きりで出かける、この見回りの日は、それを知ることができるかもしれない絶好の機会でもある。自然と鼻歌が出てしまうくらい浮かれても仕方がない。


 だが、そんな浮かれ気分に、冷水を浴びせるような瞬間は、突然やってきたのである。



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