船の守り手 後編
父の仕事場で話を立ち聞きした後、いつ移動したのかすらオデットは記憶がない。
しかし、日頃の習いはしっかりと顕れるようで、オデットは普通にリネンを宿舎の控え室に片付け、食堂の掃除を済ませ、庭にある畑の草を取り、そして野菜を収穫して、兵士達の食事を賄いの女性達と作り始めた。
その頃にはティーアも起きて、今日は宴会用の食事もと、いつもより多くの料理を作り上げたのだ。
しかし、そこまでやっていても、その間のオデットの記憶は曖昧だった。気が付いた時には自室の寝台で、ぼんやりと座り込んでいたのである。
きらきら輝く明かりは、義兄となったシリルが作り出した、光の珠。結婚式の日、夜にシリルが作りだしていた珠を、これがあれば油はいらないからと、家にあったカンテラに閉じ込めてくれた物。
蝋燭よりも明るいその光は、部屋の中をその色彩まで、しっかりと見せてくれる。
目の前にある大きな衣装箱は、小さなころに、ジゼルがオデットとソフィに好きな色を聞きながら塗ってくれたものだった。
昔、姉妹は、三人ともこの部屋で寝起きしていた。
女三人の衣装は、どんなに枚数を減らしてもやっぱりかさばってしまって、部屋にあった衣装箱はいつも溢れそうだった。両親に、もうひと箱増やして欲しいと何度もおねだりをしては、大きくなったらねと言われ続けていた。
今、その衣装箱は、オデット一人で使っている。いつも溢れていたはずの箱は、今は入れる物も無くてすかすかだった。
今まで、ずっとこらえていた。
その気持ちを、気付かないように、必死に誤魔化していたのに。
――周囲の、常に傍に居た人達がいなくなる。それを、寂しいと、思ってしまった。そして、失えない心に気付いてしまった。
ぼたぼたと膝に落ちる涙を、ぐいと腕で拭う。
すぐ近くの、母の寝室に聞こえそうな気がして、声は出せなかった。
唇を噛みながら、すかすかの衣装箱を開け、その中から一枚の布を取り出す。
ジゼルが、自分にと選んでくれた、手触りのいい艶やかな緑の布は、明かりに照らされて時折色を変える。染めだけでなく、地の糸自体が艶を持つ、最高級の証である。
今、自分が持っている中で、一番高級なのは、間違いなくこの布だった。それに躊躇いなく鋏を入れる。
騎士は、なりたいからと言って全員がなれるものではない。貴族として産まれたならば問題は無いが、それが平民だと途端に難しくなる。
実力も、人柄も、何もかもを何年も審査され、ようやく許されるその称号を得るために、生涯を費やす者も存在する。三十を前に平民がその称号を得られるのは、栄誉という他はない。
漁師の三男であるブレーズがこれを認められたというのなら、その栄誉を喜びこそすれ、その邪魔になる事など、オデット自身が許せない。
おめでとうと、言って別れなければならない。笑って、見送れるように。その日までに、覚悟をしなければならない。
切り出した布を木枠にセットし、オデットは選び出した色の糸で、ひと針目をゆっくり挿しはじめた。
レノーが砦に帰った翌日。
前日、大騒ぎを尻目に夜番を勤めたブレーズが、夜明けと共に部屋に戻ると、扉の前でオデットが所在無げに立っていた。
「オデット。どうした?」
ブレーズの気配に気付いていなかったらしいオデットが、ビクンと身体を竦ませ、そしてその視線をブレーズに向けた。その瞬間、ブレーズは眼を眇めた。
「……あの、あのね……こ、これ」
視線を下に向け、手に握っていた緑の布を、恐る恐るといったふうに持ち上げたオデットの顎をそっと持ち上げ、ブレーズは怪訝そうな表情を隠しもせずに、首を傾げた。
「……なにがあった?」
「な、なにがって……」
「目元が赤い。おまけに目も充血してる。なんだ、昨夜の宴会、ずっと参加でもしてたのか? でも、酒の匂いはしてないな……。となると昨夜から今朝にかけて何か泣くようなことがあったという事になるんだが?」
「!」
ブレーズの訝しむ視線を受けて、オデットは慌てて顔をそらした。
昔から、ブレーズに対して隠し事のできなかったオデットは、慌てたように手に持っていた布を押しつけるようにブレーズの手に持たせると、くるりと身を翻し、その場から走り去ろうと一歩足を踏み出した。
――が。
ブレーズは手に緑の布を持ったまま、無言でしっかりとオデットの腕をつかみ、そのまま自分の部屋の扉を開けると、ひょいとばかりにオデットごと部屋に滑り込んだ。
ほんの少し腕を引かれただけで、まるで踊りでも踊るようにくるりと体が回転させられ、気が付いたら部屋に入っていたオデットは、背後で聞こえた扉が閉まる音に驚き、慌てて振り返った。
目を丸くしているオデットの目の前で、ブレーズはその緑の布を大きく広げて見せた。
「……これ、正装用のストールか」
ブレーズは、刺繍の所に指をそわせ、苦笑した。そこに刺されていたのは、ブレーズにはどこの物より馴染みのある、この西砦の紋章。それを見た瞬間、ブレーズはこのストールの意味を理解した。
「聞いたのか? 騎士叙任の話」
「……ええ」
オデットが、この西砦で騎士の修行をする者が叙任を受ける際、毎回祝いの品としてこれと同じように西砦の紋章を刺繍したストールを渡すことは、この西砦で数年働いていた者ならばみんな知っている。当然ながら、ブレーズも何度も現物を見た事がある。
オデットは、カリエ家の女性達の中で、もっとも家庭的な仕事を得意としている。炊事や洗濯、そして針仕事も、今は母より多くこなしている。
西砦の紋章は、この砦の布製備品を新しくした時、規則で必ず入れていく。
その刺繍は、オデットが十を越えた時から、ずっと彼女の仕事だった。
ある意味、オデットにとっては他の花などの模様より、刺し慣れたモチーフだろう。オデットならば、たとえ夜でも、その時間が一晩しか無くとも、あっという間にこの刺繍は完成させることができる。
――だからこそ、気が付いた。
「なあ。なんでこれ、白で作らなかったんだ? いつもは、白い布で作ってただろう?」
いつもの穏やかな表情のまま、ブレーズはオデットに尋ねた。
「……そ、それは……ずっとお世話になったお礼! べつに、色はなんでもいいんでしょ。……何枚か換えがあった方がいいんだし、ちゃんと出発前には、騎士叙任のお祝いの白いストールも作るわよ……」
「お礼ねぇ……」
何かを言いたげにブレーズが呟くと、オデットはその気が強そうに見える大きなつり目をキッとブレーズに向けた。
しかし、どんなに睨んで見せたところで、一晩泣いていましたと言わんばかりの目元では、いつもの迫力も半減である。
「なあ、オデット。昔した約束、覚えてるか?」
「……」
「お前が十の時、年頃になった時にまだ俺が嫁をもらってなかったら、自分がなってやる、って啖呵切ったよな」
覚えている。忘れようが無い。
その時からずっと、オデットの心は変わらない。
歳が離れていて、子供扱いしかしてくれないブレーズの思いを、ほんの少しでも変化させたくて。だけどそう叫んだ態度は子供そのもので、後になってさんざん落ち込んだ。
その時の事を反省して、子供じみたわがままより、自分を女性として磨くことを選んだ事が、今のオデットを作り出したのだ。
十五の誕生日、初めて抱きしめてくれた。そして十六の誕生日、口付けをもらった。
ようやく、この人の中で、自分は女になったのだと、心の底から喜び震えたことを、今もしっかり覚えている。
問いの答えを口に上らせようとして、喉が詰まって唇が歪む。
その僅かな変化も、ブレーズは余さず見つけていた。
「オデット。俺はまだ、嫁をもらってないぞ? ……一緒に、王都に来るか?」
にい、と笑うブレーズの表情を見て、オデットは一瞬その表情に喜びを浮かべ、だが次の瞬間、それを消して、力なく首を振った。
「行けない……。私は……父さんと母さんの傍に居たい。この町から離れることを、考えられない」
「知ってるよ。お前は間違いなく、親父さんの子だ。この町と、この海が、お前の住まい。ここを守り、繋ぐ事が、お前の一番やりたいことだ。そうなんだろう?」
オデットは、ぐっと唇を噛みしめた。
「だからこれが、お前の代わりか?」
そう言うと、ブレーズは、オデットが一晩で作り上げた緑のストールを目の前に差し出した。
唇を噛みしめたまま、俯いてしまったオデットの顎を持ち上げ、顔を上げさせたブレーズは、俯いた拍子にこぼれ落ちた涙を舐め取って、にやりと笑う。
「……じゃあ、お前の替わりにこれを持っていく。花嫁衣装でも作りながらいい子で待ってろ。……どうせ三ヶ月で帰ってくるから」
その言葉を聞いた瞬間、オデットの中で何もかもが真っ白になった。
言われた言葉が、よく理解できず、呆然と呟いた。
「……さん?」
「おう。試験して、推薦人と一緒に挨拶回りして、ちょっと礼儀作法の勉強して、叙任されたら、あとは帰るだけだな。推薦人がやっかいだから、挨拶回りには時間がかかるだろうが、三ヶ月は超えないだろう」
「……さん!?」
がばりと顔を上げたオデットが、勢いよく腕を掴みゆさゆさと体を揺さぶるのを笑らいながらされるがままになっているブレーズは、やっぱりかとつぶやいた。
「勘違いしたんだろうなとは思ったが……。親父さんに聞けばすぐにそれを教えてもらえたはずだぞ?」
「だっ、だって、今までの兄さん達は、みんな帰って来たことがないじゃない!」
「そりゃそうだ。あいつらは、たとえ下級とは言え、貴族の子弟なんだぞ。みんな王都か自分ちの領地に行くに決まってんだろ。俺は別に、領地をもらうために王都に行くわけじゃないんだから、すぐにここに帰ってくるに決まってんだろうが」
「だ、だったら、ブレーズだって、そうじゃないの!?」
「俺は貴族じゃない。それに、領地や金が欲しくて、騎士になるわけでも無いしな」
「で、でででも!」
「俺の前に、前例がいるだろう。親父さんだって、俺と同じ条件で、同じように叙任を受けに行った。お前が九歳の頃だ。……ここは、国の施設だ。ここの隊長になるには、国に忠誠を誓ってこなきゃならん。だからちょっと行ってくる。そう言って、親父さんは王都に行って、騎士になって、ここに帰ってきただろうが」
オデットの記憶の中で、今ブレーズが口にした言葉をそのまま告げ、出張した父の姿が思い浮かんだ。
あの時、確かに父の服装が、行く前と後で替わっていた。
帰ってきた時の服装を改めて思い出し、初めて、あの時こそが、父が騎士になった時だったということに気が付いた。
ぽかんと口を開けたオデットに、ブレーズはなおも笑いながら言葉を繋ぐ。
「ここは、特殊な砦だ。入り組んだ無数の天然の港と岩礁があり、そのすべてを中央から一時派遣されただけの隊長では把握できない。これじゃあ、海を縄張りにする海賊の相手をするにも、常に後手に回る。それでは、ここにこの砦が有る意味が無い。ここの隊長だけは、地元出身で地理の明るい者を選ぶようにと、親父さんの前隊長が中央に進言したおかげで、親父さんの後も、やっぱりこっち出身の騎士が選ばれることになった。だが、今のところ、親父さんよりも相応しい騎士ってのは、なかなかいなくてな。結局、他の砦とは比べものにならんぐらい、親父さんの隊長就任期間が長くなっちまってる。だからそろそろ、親父さんの部下から、次の隊長候補として騎士になるやつを選んじゃどうかと、宰相が提言したらしい。それが今回の騎士叙任の内情なんだよ。……俺も、お前と同じだ。この町と、この海が、俺の守るすべてだ。国じゃない。ここを守るために必要だから、俺は騎士になるんだ」
ようやく、オデットの真っ白になっていた頭に、少しずつ色がつき始めた。
甦る記憶に、そしてそれに伴う感情も。
勘違いで、せめて自分の代わりにと縫い上げた緑の布が、ブレーズの手に握られたままなのも、その時ようやく気が付いたのである。
慌ててそれを取り上げようとして手を伸ばしたが、まるでそれを分かっていたかのようにブレーズはそれを高々と頭上に掲げ、にっこりと微笑んだ。
「かっ、返して!」
「俺のために作ってくれたんだろう。渡されたからには、俺の物だろ」
「ちゃんと白で作り直すから!」
「換えは何枚あってもいいだろ。ちゃんと王都に持って行くから」
羞恥で顔を真っ赤に染めて、オデットがぴょんぴょん跳びはねながら、ブレーズの手にある布を取ろうと頑張る姿は、今までの取り澄ました大人の表情を見せていたオデットのものではなく、素のまま、昔のままのオデットで。
ブレースは、思わず声を上げて笑いながら、身を寄せるようにして背伸びしていたオデットを、布を持っていないもう片方の腕で抱きしめた。
「オデット。それで、本当に嫁に来てくれるのか?」
懐かしい表情を見せた少女の耳元で、小さな声で囁くように尋ねる。
一瞬体を硬直させながらも、先程とは別の理由から目を潤ませたオデットは、見る間に耳まで赤く染め、その後小さく頷いた。
――その時、言い訳するならば、ブレーズは確かに浮かれて油断していた。
姉を気にして、父を気にして、母を気にして、ずっと頷かなかったオデットが、ようやく自分から、腕に飛び込んできたのだ。
多少頭の中が浮かれてお花畑になっていたとしても、仕方がないというものではないだろうか。
……つまり、端的に言うと、周囲への警戒を完全に怠ったのである。
「ブレーズさ~ん、起きてますか。すいません、申し送りの件で……あ……」
突然開かれた背後の扉から、兵士の一人が顔を出した。
扉の中では、抱き合う男女。
女性の方は、瞳を潤ませ顔を真っ赤にして、男にすがりついている状況。
互いの顔は今にも口付け寸前の親密さ。
これで、何をどう言い訳ができるだろうか。
「……ミッ……ミテナイヨー。オレ、ナンニモ、ミテナイデスヨー……」
表情を強ばらせ、そのまま兵士は静かに静かに扉を閉め始めた。
「ミテナイデスヨー……ホントダヨー」
最後まで片言の呟きを残し、静かに扉が閉まった音がした瞬間……。
オデットの前から、ブレーズが消えた。
「待ちやがれ!」
扉の向こうの彼方から、ブレーズの怒鳴り声が響く。
「ギャー!」
遠くから、間の悪い、かわいそうな兵士の声が聞こえてきたところで、オデットの、驚きのあまり止まっていた呼吸がようやく再開された。
その日の午後、訓練に出たブレーズの前には、今までに見たことが無いほど穏やかに微笑むレノーの姿があった。
ただし、その手には訓練用の大剣ではなく、しっかりと実戦用の、使い慣らされ黒光りする木槌が握られている。
「……あ、俺、死んだかも……」
ぼそりと呟いたブレーズの肩を、周囲の兵士達が慰めるように次々と軽く叩いていく。
その日の訓練で、ブレーズは、レノーの実戦さながらの木槌をすべて避けきった二人目の男となった。
もちろん一人目は、長女ジゼルの夫、シリルである。
その年のうちに、アルグラート王国には、ブレーズ=カリエという名の騎士が誕生した。
ガルダンの砦では、この地を守る新たなる騎士の誕生と、それに寄り添う見目麗しい花嫁のための祝宴が、三日三晩続けられたのだった。




