これからの日常 4
妖精の彫像が飾られた噴水の前に、青年と少年が木剣を手に、対峙していた。
肩から少し下まで伸びたまっすぐな金糸の髪を後ろで黒い組紐を使い無造作にひとつに纏め、こんな陽の下にいることが信じられないような白磁の肌を惜しげもなく晒した、二十ほどの歳に見える青年は、金眼を目の前の少年に向け、その顔に笑みを浮かべた。
そしてそれに相対する十くらいの歳に見える少年は、母譲りの銀糸の髪を、目の前の青年と同じように、こちらは青の組紐でひとつに纏め、その紫水晶の瞳で青年を真剣な眼差しで睨み付けている。
その外見は、誰が見てもすぐさまこの少年がシリル=ラムゼンの子供であるとわかるほどに父の幼い頃に瓜二つだった。それこそ、色は母から、外見は父から受け継いだ少年は、その存在だけで、かつて母が受けたという謂われない不貞の疑惑を払拭できる存在だった。
金と銀の対のような二人は、互いに向けて、その手に持っている木剣を構えた。
水音が響く中で、その噴水の外枠に寝そべる黒猫は、尻尾をゆらゆら揺らしながら、それを見守る。
先に仕掛けたのは、少年の方だった。
風を切る音が、青年の正面で空を裂く。それを僅かな動作で避けた青年は、その後剣が繰り出されるだろう方向にみずからの木剣を向け、それを受け流した。
二人は、幾度もその剣を打ち合わせ、そして受け流し、少年の息が切れるまで、二人は剣を合わせ続けた。
「……ずるい。シグルドはずるいよ」
息を切らせながら、噴水にもたれ掛かる少年は、その目に涙を溜めて、正面にいる金狼を睨み付ける。
「しょうがないだろ。僕はこういう種族なんだし」
シグルドは、すでに聞き飽きた少年の愚痴を、苦笑して受け流す。
「だって、ふたつ違いだろ? それがどうして、この違い……」
シグルドは、シリルの元に来て、二年ほどで十歳程度の少年の姿に変身できるほどに成長した。
それからは普通に一年にひとつずつくらい成長し、今はすでに、成人男性と同程度の体格になっていた。
”年齢はそれほど違わないはずなのに、この差はずるい。”
産まれた時から兄弟のように傍にいた少年のこの愚痴は、シグルドの歳を聞くたびに繰り返されたものだった。
「良いじゃないか。お前は、その年のわりに強いよ。やっぱり、あの野獣様の血が強いんだな」
「それでも、シグルドには一度も勝てないじゃないか」
「それはほら、だから、種族の違い。お前のひとつ違いの叔父さんとはいい勝負じゃないか。年の頃としては強いってことだろ?」
元々金狼は、魔としての力をすべて身体能力に換えている。それに加え、シグルドは、シリルの魔力も与えられているのだ。
おそらく、種としてもかなり強いことは間違いないと、聖神官は頭を抱えつつも断言していた。
「僕は、素手を封じられてるだけでも、種としては弱くなってるんだぞ。勘弁してくれよ」
実際、シグルドが本来の力を発揮するのは、徒手での戦闘である。見えない爪で相手を切り裂き、その牙で相手の喉を噛みちぎる。
もっとも、幼い頃から血を苦手としているシグルドは、相変らずのリンゴ好きで、自力の狩りはやったことがなかった。狩りの師匠でもあるノルは、子ネズミすら捕るのを躊躇する狼姿のシグルドに、獣の闘いではなく、武器を使う人の闘いを学ぶように指導したほどだった。
おまけに、こちらの世界に来た時からつけられていた黒の首輪は、人の姿に変わっても首についたままである。これは、シグルドの戦闘能力を大幅に削っているらしく、少なくとも爪が一家を傷つけたことは一度もない。
ノルは、言い合う二人の弟を見守りながら、眠たそうにあくびをしていた。
そしてその瞬間、ノルと、そしてシグルドは、同時にその顔を、噴水向こうの母屋に向けた。
「どうした?」
「あー。ミレイユが……」
双子の妹の名を出され、少年も思わずそちらに顔を向けた。
はしたなくもドレスをたくしあげた妹が、猛然と土煙を立てそうな勢いでこちらに走ってきている姿を目にして、思わず空を仰ぐ。
「フェリクス!」
「ミレイユ。ドレスたくし上げるなよ。お前は女だろ。足を見せることを恥じらえ」
「うにゃあぅ」
「大丈夫。下は乗馬ズボン」
「そういう問題じゃない」
おそらく祖母が着せたのだろう、繊細なレースで縁取られた薄紅色のドレスが台無しである。
亜麻色の頭の上に、耳だけを見せて同化したような亜麻色の猫をぺったりと張り付かせたミレイユは、父が魔を開眼して初めて得られた真の色をそのまま受け継いだ翡翠の瞳を大きく見開き、それどころじゃないときょろきょろと何かを探し始めたのである。
「なんだ?」
「母様は?」
「……父さんを探しに行ったよ。また飛んだ」
「うっ……。今日は外なの?」
「そうらしい。母さんに、何の用なんだ?」
「ソレーヌ様が、グレース様を伴われてここにいらっしゃるそうなの。グレース様が立太子されることが決まったから、お祖母様にご挨拶にいらっしゃるんですって。ノル姉、母様と父様はどこ?」
ノルは、そう声をかけられ、シグルドを見た。
シグルドも、傍の木立に視線を向け、すん、と鼻を動かした。
「みぁーん?」
昔から変わらぬ甘い声で、ノルはミレイユの頭上にいる猫に声をかけた。
ぱちりと目を開いたその猫は、その翡翠の瞳をノルに向け、首を傾げた。
それは、昔、ジゼルにずっとついて回っていたリスだった。
シリルの色が変わった後、じわじわと毛色を変えたリスは、今は全身を亜麻色に変え、自分とまったく同じ色をしているミレイユの守りをしているのである。
「なぁう。なぁん」
「リス。方向は大体こっち。匂いから感じる距離だと……大樫のあたりかな。正確な方角は、力で辿れるだろ?」
「なぁう!」
苦笑しながらシグルドが大体の方角を指し示すと、リスはひょいとミレイユの頭から飛び降り、きりりとした表情でミレイユに「みゃう!」と鳴いて見せた。
ミレイユはその声に応えるように、再びがばりとドレスをたくし上げ、勢いよく駆け出した。
「だからそれ、やめろって!」
フェリクスがそう叫ぶより早く、ミレイユは木立に姿を消した。
たくし上げられた裾から覗く真っ白で細い足も、そして母譲りの、繊細で、妖精にもたとえられる可愛らしい容姿も、すべてがその性格と行動で台無しになっている。
猛然と走り去る、目的に一直線の妹を見送りながら、兄はがっくりと肩を落とした。
「あれはほんと、誰に似たんだろう?」
「決まってる。シリル父さんだ。ジゼル母さんはあそこまではやらない」
「なうん」
使い魔達が、うんうんと頷きながらそれを肯定する姿を見て、フェリクスは、はあと息を吐いた。
「あれで、癒し姫とか言われてるなんて、詐欺だよなあ」
「しょうがない。まさか、ミレイユまで、『畏怖』様と契約させるわけにいかないし。そうなると、魔力を発散させるには、癒しの術を学ぶのが手っ取り早い」
ミレイユは、父からその魔術の才能を引き継いでいたらしく、基礎を学んだのみで、とんでもない威力の癒しの術を使えるようになっている。
現在は、癒しの術をより効果的に使うため、医療に関する勉強をしているのだが、そこでも才能を発揮していた。なにより、本人が興味を持ちさえすれば、見たこと聞いたことを一切忘れることがないらしい頭の中身は、ここで大いにその力を発揮した。
色だけでなく、頭の中身も父似だったらしい双子の妹に、勉強よりも体を動かすのを好む双子の兄としては、そんなばかなと首を振るしかなかった。
そんなフェリクスは、神に無二とまで言わせた母の体質を、そっくりそのまま受け継いでいる。完全な銀と紫水晶は、母の腹の中にいる時から、ずっと妹の力の暴走を押さえ続けているらしい。
おかげで、父と並ぶ力を持ちながら、ミレイユは生まれてこの方、力が暴走したことはない。
母が、フェリクス達が産まれる前に神から授けられたという祝福は、おそらく無二であるその力を継がせるためのものだろうと聖神官は話していた。
――フェリクスは、その神様というのに、少しだけ心当たりがある。
もっとずっと小さな頃に、夢の中で、おかしな竜に会ったのだ。
金色に光るその小さな竜は、こくんと首を傾げながらこう言った。
『寂しい?』
その時は、なぜそんな事を尋ねられたのかよくわからないままに、まったく寂しくないと答えた。
父さんも母さんもいるし、双子の妹はいつも賑やかだ。そしてずっと一緒に居てくれる、兄弟のように育った父の使い魔達もいる。その時も、そして今も、フェリクスの傍には誰かがいてくれた。だから、答えに迷うこともなかった。
その小さな竜は、フェリクスの答えに、満足そうに頷いて、微笑んだのだ。
その時は、それがなんなのか、わからなかった。
両親の結婚式での出来事は、その後、何かのきっかけでミレイユが尋ねたことで知る事になった。そしてようやく、その夢の意味を知ったのだ。
もし、それが本当に母を祝福してくれた神様だったのなら、そのおかげで自分達は産まれたのだし、お礼を言えばよかったなと、後にフェリクスは考えた。
あれから、その竜は一度も夢には出てきてくれない。
出てきてくれたら言うのになと、いつも夢から覚めてから、少しだけ残念に思っていた。
「さあてと。じゃあ、僕はそろそろ出かけてくる」
「え? 許可はあるの?」
「もちろん。今日はソフィの仕事が休みなんだよ。前もって、申請しておいたに決まってるじゃないか」
にっこりと微笑んだシグルドは、後は頼むとノルに告げると、身を翻した。
離れに入り、しばらくして、金色の毛皮に覆われた狼に姿を変えたシグルドが、勢いよく飛び出したのである。
尻尾をふりふり、あっという間に姿を消したシグルドをノルと見送りながら、フェリクスは思わず呟いた。
「……毎回、シグルドはあれをデートだって言うけどさ。ぜったいソフィ叔母さんは、散歩だと思ってるよな」
「なうん」
こくりと頷くノルに思わず苦笑したフェリクスは、いつまでも勝てない兄に少しでも追いつくべく、木剣を手に再び素振りをはじめたのだった。
庭の大樫は、相も変わらず立派な枝ぶりで、少し開けたその場所に、柔らかな影を作り出していた。
シリルは、本当に疲れを覚えた時、ジゼルを独占するために、寝台から消えるようになった。
そういう時、ジゼルは子供達を使い魔達に預け、素直にシリルの元へ向かうことにしている。
シリルの魔法技師としての技は、結局他には受け継がれることがなかった。
もしかしたら、魔術師として修行すれば、ミレイユが受け継げたのかもしれない。しかしミレイユは、そもそも魔との契約が不可能だった。
父であるシリルの魔力は、『畏怖』の力を纏っている。その力を受けて産まれたミレイユには、どうやら『畏怖』の力の名残があるらしく、他の魔が寄りつけなかったのだ。
結局シリルは、受け継がれることがなかったその技術を、ファーライズに預けることにしたらしい。そのためにここ最近は、自らの技術を本にするため、王宮魔術師長としての勤めを果たしながら、家に居る間、ずっと机に向かっていた。
膝枕でぐっすり眠るシリルを、穏やかな眼差しで見守りながら、ジゼルはすっかり見慣れた亜麻色の髪を、指先でそっと梳いていた。
子供達が産まれても、そして大きく育った後も、ジゼルがこうしてシリルの傍でやることは変わらない。
ただ穏やかに、安らかに。この人の心が安心して休める場所を作るのが、ジゼルの役目。
ふと、視界の隅で、夫と同じ亜麻色の髪の毛が揺れるのを捕らえたジゼルは、そちらに顔を向け、ふっと微笑む。
ミレイユが、越えられない結界の外で、ぱたぱたと手を振り、壁を叩いている姿を見て、ジゼルは膝の上のシリルの顔をのぞき込んだ。
「シリル様。お目覚めの時間ですよ」
その目蓋が震えるまであと少し。
いつも、いつまでも、ジゼルはそれを見守っていた。




