30.
アルロは暗い表情で続けた。
「——申し訳ありません。僕、そんなこともわからなくて・・・。姫様がお怒りなのに、僕——」
「待って、怒るって?私、何も怒ってないわ」
「で——あ、はい」
アルロは口を閉じてしまった。
でも、って言おうとしたはずなのに。マリーヴェルに反論はできない、というように。
マリーヴェルはそれが悲しかった。
「思っていることを、言って欲しいのに・・・」
「え・・・」
「あっ、言いたくないことをね、言ってほしいわけじゃないの。その・・・私に遠慮して、言葉を飲みこんじゃうのが・・・悲しいの」
少し、沈黙。
2時の鐘が聞こえてくる。
少しお行儀は悪いが、マリーヴェルは床に座った。
ここで隠れるから、しばらくはこのままで過ごすつもりで。
「その、お怒——避けてらっしゃるかと・・・」
アルロもマリーヴェルの前で膝をついて、目線を合わせた。
「その・・・僕が、何かしてしまったんですよね。僕が自分でもわかっていない所で、姫様にご不快な思いを——」
「するわけないでしょう!?アルロが私にそんなこと、するわけないし、そんな風に思った事なんて今まで一度だってなかったわ。私がそう思うって、思う・・・?」
それが悲しい。でもそれは自分が悪いとマリーヴェルは思った。
「あ、も、申し訳ありません・・・!」
「ああっ、違うの。責めてるわけじゃ・・・」
なんて難しいんだろう。
マリーヴェルは視線を落とした。
「そうじゃなくって・・・」
マリーヴェルだって、こんな気持ちは初めてだった。どうしていいかわからず、ただ戸惑って、普通にしようと努力したけど、難しくて。
マリーヴェルが困っているのをアルロは感じ取った。
マリーヴェルを困らせるわけにはいかない、説明しなくてはとアルロは焦った。
「姫様が、僕を、その・・・避けてらっしゃるように思って」
「ああ!」
マリーヴェルは顔を覆った。
馬鹿だ。
アルロがものすごく繊細で、自分に自信がなくって、そんな風に思ってしまうのは当然の事だ。
知っていたのに。
自分の恥ずかしさとか、そんな事言ってる場合じゃない。
マリーヴェルはアルロを見つめた。
自分の顔は赤くなっているかもしれない。いや、この熱さは確実に赤くなっている。胸もドキドキとうるさい。
アルロの、少し不健康そうに思える程透き通った白い肌、サラサラの漆黒の髪、マリーヴェルを見つめる、夜空のようにきれいな瞳。
見れば見る程、かあっと頭に血がのぼるようで、どうしたらいいのかわからなくなる。
「姫様・・・大丈夫ですか」
アルロが不安そうに聞いてくる。
アルロはいつもそうだ。自分が大丈夫じゃないのに、いつもマリーヴェルを気遣ってくれる。
思い出せないくらい幼いころに出会ったアルロは、真夏でも長袖を着て、細くて倒れそうだった。そんなアルロが、家族より、この世の誰よりもマリーヴェルを大切にしてくれるんじゃないかって、そんな風に思ってしまった時期がある。ちょうどソフィアが産まれた頃だったからか。
だからマリーヴェルはアルロにべったりとくっついた。そしてアルロは一度だってマリーヴェルを拒絶したことはない。いつも受け止めてくれた。
「私じゃないでしょ?アルロが傷ついたんでしょう?」
アルロは微かに首を傾げた。
自分の傷には鈍感だから、言われてもピンとこないと言うように。
そんなアルロが、どうして人の痛みには。
「どうして私に大丈夫って聞くの・・・」
「——姫様が、泣きそうな顔をされていますので」
「・・・・・!!」
マリーヴェルは固まった。
そう、マリーヴェルは泣き出しそうだった。
感情がぐちゃぐちゃで、どうしていいのかわからなくて。
マリーヴェルは膝を抱えて、その上に顔を埋めた。
もうこれ以上顔を見せられない。じわ、と膝のあたりの布が涙で滲む。
自分でも何の涙かわからない。とにかくぐちゃぐちゃになってしまった。わからないけど、アルロを悲しませた、心配させたのは事実で。まだそこまでの信頼がなかったのかと思う自分と、それも当然だと思うのと。
「姫様・・・泣いてますか」
「泣いてないわ。悲しくないもの」
泣いてるってなったら、心配をかけてしまう。
だからこのままやり過ごして、アルロに出ていってもらおうと思った。
アルロは出ていかなかった。
しばらく沈黙が流れ、ごそ、と衣擦れの音がして。
次の瞬間、マリーヴェルをアルロの腕がふわりと抱きしめた。
少し遠慮がちに、そっと触れる。優しく包み込まれるようだった。
以前は何ともなかったアルロの香りだ。大好きなアルロの匂いだな、くらいにしか思っていなかった。
アルロはいつもシャツとズボンだけの簡単な装いで、それは他の使用人と変わらないのに。石鹸の香りと混ざって、アルロの香りがする。
今ではこの匂いを嗅ぐだけで、何かがこみあげてくる。一気に体温が上がってしまう。
同時に胸が温かくなって、切なくて、悲しくないのにまた涙があふれそうだった。
「僕がお嫌でないのなら、少し、こうさせて下さい」
アルロは必死で記憶を辿った。アルロはこうしてマリーヴェルから癒してもらったから。それだけがアルロの記憶にあった、慰めの手段だった。
「僕に姫様のような力はありませんが・・・」
今まで恥ずかしいとか胸が痛いばかりだったのが、アルロの声が響いてきたら。
じわりとその声を聞くと、居心地の悪かった胸の高鳴りが、今度は温かくてたまらなく幸せな気持ちに変わった。
「・・・アルロ」
「はい」
「ずっと、側にいてね」
「はい」
「アルロ・・・すき、大好き」
「はい。ありがとうございます」
あまりにいつも言っていた台詞だったから、マリーヴェルも自然にそれを伝えた。
そしていつもの事のようにアルロは受け取った。
マリーヴェルの中では今までと少し意味の違う好きだったが、それでも、その言葉を吐き出せただけで、少し気持ちは楽になった気がした。
数分間そうしていた二人だったが、突然開かれた扉にはっとしてそちらを見る。
エイダンが眉を吊り上げて2人を見下ろしていた。
「これは・・・どういう状況?」
「あ、その・・・これは」
侍従としてあるまじき姿勢だった。アルロが慌てて立ち上がろうとして、マリーヴェルがその身体にしがみついた。
シャツ一枚を隔てて、また育った腹筋を感じる。
「お兄様、じゃましないでくれる」
「なっ・・・マリー!?」
エイダンは自分を落ち着けるために大きく深呼吸をした。
「——アルロ。一体どういう事?」
「そ、その・・・申し訳——」
マリーヴェルがしがみついているから、アルロは固まったままだ。
「謝らなくていいわ」
そうだな、アルロを責めてもしょうがない。
そう思いエイダンはマリーヴェルを見据える。
「マリー。その距離は貴族令嬢としてふさわしくないよね。分かってるよね」
「アルロ、融通が利かなくてカチカチのやつ、なんて言うんだっけ」
「杓子定規ですか?」
「そう、それ。お兄様、杓子定規なことを言わないで頂戴」
仲良く——エイダンにはそう見えた——自分を邪険にするような話をされて、エイダンは低い声を絞り出した。
「お前達・・・侍従を外すように、父上に進言するからな!」
「私の侍従はアルロにしか務まらないって言ってたのは誰よ」
「そうだな、だからもう侍従なしだ」
「嫌よ。アルロがいないと勉強できないもん」
それだけ言って、さて、とマリーヴェルはようやくアルロから離れた。
「マリー。どうして僕がこんなことを言うのか、わかってるだろう?」
「わからないわ。どうしてアルロとくっついたらいけないの?」
マリーヴェルが倉庫の中にあった椅子に座った。
「いいか、マリー。僕たちは——」
「あ、待って。長くなりそうだから、アルロ出てていいわよ」
「え、でも・・・」
「お兄様の言おうとしていること、アルロはわかってるでしょ?いいわ、行って」
「は、い・・・」
「私はちっともわからないから、お兄様から一応一通り聞いておくわ」
だからその間に。
アルロはマリーヴェルの目線とその意図するところを、正確に受け取った。こくりと頷いていつものように存在感を消しつつ、部屋から去っていく。
「この際だからしっかり聞いてあげる。話して?」
マリーヴェルは腕を組んでエイダンを見上げた。
「マリー・・・そもそも何で上から目線なの」
そう言いながらも、エイダンのとてつもなく長い説教が始まった。
普段少しも聞いてくれないマリーヴェルが珍しく聞いてくれているから、つい熱が入って語り続けてしまった。
そうしてしばらく経って。
廊下の向こうから、ソフィアを抱いたアルロが歩いてきた。
マリーヴェルは勝利の笑みを浮かべた。




