24.
もっと勉強していれば、こんな時、気の利いた事が言えるのだろうか。
マリーヴェルは横に座ったアルロの顔を見て、そんなことを思っていた。
長い沈黙はマリーヴェルにとってはかなり試練の時だった。
この重い空気に耐えかねて何かを話したくなるものの、下手なことを言ってアルロを傷つけたくない。
結局、重い沈黙をただ受け止めるしかなかった。
この沈黙を受け止めると言うのが、かなり忍耐のいることだった。
そうしてかなり長い間、アルロは黙っていた。
「・・・あ、すみません、手を」
突然アルロが、今初めて気がついたように手を見て言った。
手を握っている事を言っているのだろう。
離そうとするアルロの手を、マリーヴェルは力を込めてさらに握った。
「せっかく繋いでたのに、離しちゃうの?」
「いけません、こんなこと」
「どうして?」
「どうして・・・」
以前なら、身分の違いだとかマナーだとか、色々とアルロは言っただろうが。近頃のアルロはあまり思考が働いていないので、少し迷ったように考えている。
「アルロと手を繋ぐと、私が幸せな気持ちになるの。だから、お願い」
マリーヴェルは離す気はなかった。アルロの顔色が戻るまでは、せめて手だけでも繋ぎとめておきたかったのかもしれない。
「・・・・はい」
アルロも結局言いくるめられて、そのまま手を繋いでいる。
小さなマリーヴェルの手は、ふわふわしていて、壊れそうで少し怖い。けれどアルロにとって触れているだけで安らぐ感触でもあった。
「ねえ、アルロ。何があったの?」
マリーヴェルは耐えかねて、結局聞いた。
意外とあっさりと、アルロは答えた。
「公爵様と、奥様に呼ばれて・・・」
「何か言われた?」
「——父との面会を禁じられました」
思いがけない言葉にマリーヴェルは目を丸めた。
父。
あの時の、恐ろしい人の事だ。アルロを怒鳴りつける男の声が頭に響いた。
「アルロのお父様・・・と、会ってたの」
「はい」
当然の事のように言うのは、アルロがそれを特別な事と思っていないからだろう。
あんな暴力を振るう父親に会うのに?
マリーヴェルはごくりと唾を飲み込んだ。
アルロの父親の声をあれほど怖いと感じたのは、もしかすると。
自分の中で何か覚えているものがあるとしたら。
やはりアルロは——。
「姫様?」
繋いだ手に力がこもっていたようだ。アルロの不思議そうな声にマリーヴェルははっとした。
「・・・アルロを殴るお父様でしょう」
「それは、僕が悪いからです」
「アルロは悪くない」
キッパリと言い放ち、マリーヴェルはアルロを見つめた。
こんなに大好きなアルロがいつも自信がないのは、自分なんかっていうのは。
きっと全部、その父親のせいなんだ。
マリーヴェルだったら、ライアスやシンシアからもし駄目な子だとか言われたら、きっと耐えられない。二人はいつも、どんなに落ちこぼれてもそんな風にマリーヴェルを評価しなかった。
ましてや殴るだなんて。
「私はもう会ってほしくない。アルロ、傷だらけでうちに来たじゃない。あんなのはもう、絶対嫌」
あんな暴力的な父親、会う必要なんでない。
では、今まで外出と言っていたのは父親への面会だったんだ。前回の外出で急激に調子が悪くなったのも、そのせいだった。
どうして会わせたりなんてしたんだろう。——いや、アルロはそれを望んだのだろうけど・・・。
「——僕のせいで、父はああなったんです」
アルロは淡々と話した。
「僕が、あの能力のせいで父の足を駄目にしたんです」
「闇の・・・?」
闇の魔力が人に向けられると、操るだけじゃないんだろうか。マリーヴェルが不思議そうに言うと、アルロは慌てて言った。
「あ、その・・・幼い頃に無理に使った反動で、暴走して。今まで力がなかったのもそのせいで。もう体も成長したので、そんなことにはなりません」
安心させようとして言ったことだったが、マリーヴェルの表情は晴れなかった。
「それって、いくつの時?」
「——6つ、です」
マリーヴェルはしばらく考え込んでいた。
そしてまた顔を上げた。
「でも、たった6つでしょう?それも無理に力を使えって言われたからでしょう」
6つの子供が、体に耐えきれないほどの魔力を使うなんて、聞いたことがない。
その子の命などどうでもいいと思っているとしか。
「あの時は・・・。上手くすれば、母が戻ってきてくれるって。きっと、それで、父は何かしようとしてくれていたんです。結局、僕が失敗してそれも・・・」
マリーヴェルは、そんな訳ない、と言おうとして、また口を閉じた。
アルロは本当に信じている。
何の疑いもない目をしていた。
あんな父親が言ったいい加減な、利用するための言葉を、今日、今この時まで疑っていない。
「僕がしっかりしていないから、父さんはあそこから出られないし・・・お酒もあげられないから。結局、僕は父さんの望みを一つも叶えてあげられない」
アルロの独り言のような台詞だった。
アルロのお父様はひどい人だ。
そう言ってやりたいのに、アルロを目の前にすると、言えなかった。
間違いなく、悪人だ。
けれど、アルロにとっては大切な父親で。
誰よりもアルロがそれを信じているのか、信じたがっているのか。心の奥底の本心なんて、アルロ自身にもわからないんじゃないのだろうか。
けれど、アルロと父親を会わせてはいけない、それだけは分かる。
「だったら、私も行く」
「——え?どこにですか」
「アルロのお父様の所。私と行きましょう」
「だ、だめです!」
「どうして?アルロの大切な人なら、私にとっても大切な人だわ」
「父は・・・」
アルロは絶望的な顔をした。
困らせているとわかっていても、マリーヴェルは譲れなかった。
「私に会わせられないっていうなら、アルロだって同じよ」
ぐっと近づいて、マリーヴェルは意志の強い瞳でアルロを見た。
黒い瞳が揺れている。
優しいアルロの瞳。
望みを叶えようと思えば、その力で好きなようにできるのに。自分の為には少しも力を使わない。
人を傷つけるくらいなら、自分を傷つけてしまう。
マリーヴェルは泣きそうになって、アルロに抱きついた。泣きそうな顔を見られたくなくて、アルロの体にしがみつく。
「ひ、姫様」
いつの間にかすっかり逞しくなってきたアルロの身体。
筋肉が増して、マリーヴェルが体重をかけてもびくともしなくなった。
アルロの温かい体温を感じると、マリーヴェルは泣きそうになったのも忘れてその温かさに引き込まれた。
「アルロ、貴方がこれからお父様に会いに行く時は、絶対について行くわ」
「姫様・・・」
「——アルロがいないと、私は駄目なんだからね。知ってるでしょう?」
「はい、——いえ、でも」
「でもじゃないの」
離れようとするのを、さらに力を入れて留めた。
「アルロの体は私のものでもあるのよ。私の侍従なんだから。だから、私のそばで元気でいてもらわないと困るの」
「・・・はい」
アルロの手が、そっと、恐る恐るマリーヴェルの背に回された。
アルロにとって、いつもなら抱き合うなんてとんでもないけれど。何故だか今は、これが自然な気がした。
抱き合うと、一つになったような一体感と安心感に、内側から温かい何かが溢れてくるようだった。
しばらく喋ることもせず、2人でじっとしていた。息遣いも鼓動も聞こえる距離。
体重をかけあって、まるで元々一つだったかのような安穏とした時間だった。
この時から、アルロはレノンとの面会をやめた。
正確には会えなくなった、が正しいのかもしれない。
しかしアルロ自身も会いたいと言わなくなったし、ライアスが許可しないのもそのままだった。
シンシアが心配していたほどアルロが思い詰める様子も、傷が悪化していくこともなく、日常が過ぎて行く。
アルロの心は今までになく安定していた。
アルロとマリーヴェルは時々、あの時のように抱きしめ合った。
それは二人っきりの部屋の時もあれば、散歩の途中の時もあった。
何かのきっかけで。ふとした時。アルロがどうしようもなくなった時。時と場所を選ばず、マリーヴェルはアルロを抱きしめた。手を繋ぐ時もあった。
安心感を得るためだけの抱擁は、家族のそれに近かった。
だからだろうか。護衛の騎士くらいは目撃していただろうが、それをどうこう言われることはなかった。
マリーヴェルと抱き合うだけで、あれほど痛みに依存していたのが嘘のように、ふっとアルロの心が軽くなるのだった。
おそらく、貴族令嬢としてはあるまじき接し方ではあったが。
アルロの心の安寧のためにと、黙認してくれているのだろう。
ライアスが許可したかはわからないが、シンシアが許しているのだと思う。
そうして日々が過ぎるうちに、アルロは以前のように活気を取り戻していった。
少しの危うさは残っているものの、無茶な訓練もしない、傷もすっかり塞がった。
「——もう、父のところへは行きません」
アルロはある日、きっぱりとライアスにそう言った。
その言葉の通り、アルロがレノンについて語ることはなかった。
アルロは父親と決別した。




