21. 傷
家庭教師が去った勉強部屋で、アルロはマリーヴェルと一緒に教材を片付けていた。
最近はマリーヴェルが片付けもするようになった。アルロはそれを手伝う。
マリーヴェルの手がふと止まる。
「アルロ、包帯が出てるわよ」
マリーヴェルに言われて、アルロは、あ、と気づく。
袖口から包帯がほどけて出てきていた。
「すみません。巻き直してきます」
次の授業まで1時間ほどの休憩時間がある。
「見せて」
「え」
「そこ、前私が治療したところじゃない?」
「いえ、姫様にしていただいたのは、こちらです」
そう言ってアルロはシャツの袖をめくり、右腕を差し出した。
擦り傷はすっかり治って、綺麗になっている。
毎日治癒術をかけ続け、擦り傷は通常の倍の早さで治った。マリーヴェルの力は以前より確実に使えるようになっている。
湖に落ちてから——いや、アルロが倒れた時。マリーヴェルがアルロの治癒を切望した時に、マリーヴェルの魔力は以前より少し増えた。魔力量は滅多な事では増えないから、それだけ切実にマリーヴェルがアルロを想ったということだし、魔力のことはまだ未知数なことも多いが、やはり精神面が深く関わっているのだろう。
「じゃあ、次はそっちをやってみるわ」
「あ、いえ、こっちは・・・」
マリーヴェルの視線が左腕に向けられていて、アルロは困った。
ここは見せられない。
「あの、首に傷が。そちらをしていただけますか」
マリーヴェルは首の擦り傷に手を伸ばした。
温かい感覚が首に触れる。光の力は、シンシアにされたのは覚えていないけれど、マリーヴェルのはいつも心地いい。
絶対的な安心感、安らぎ。
ずっと触れていたくなる。
「——姫様」
アルロはそっとマリーヴェルの手を離した。
「ご無理は、いけません」
マリーヴェルの頬に汗が一筋伝っていた。
夢中になって魔力を枯れるまで注いだら、倒れてしまう。
「後少しなのに・・・もどかしい」
うう、と唸るマリーヴェルにアルロは笑顔を向けた。首筋に指を這わせてみれば、そこは少しも痛まなかった。
「すごいです、姫様。すっかり表皮が再生しています」
「でも、まだまだ跡が残っているわ」
マリーヴェルは恨めしそうにアルロの首筋を睨んで、はたとアルロのその手を掴んだ。
「そんなにしたら、また傷になるわ」
アルロの指が傷を何度も触っていた。
無意識だった。つい、癖で。
「——あ、申し訳ありません。せっかく治したいただいたのに」
「何度でもやるけど。——痛いでしょう?」
「いいえ、全然」
アルロがいつものように微笑む。
いつもの、大好きな笑顔だ。——そう思うのだけれど。
マリーヴェルの表情は晴れなかった。
ペンシルニアの屋敷には治癒師が2名雇われている。
治癒師というのは薬草や道具を使って患者を治療する者のことで、水の能力者が多い。水の魔力が人間の細胞との相性がいいだけで、魔力を使って病気や怪我を治すこともするが、それはあくまで本人の治癒力を高めるもの。光の治癒のように、根本から治癒してしまうのとは訳が違う。
だから治癒師は、生命の危機に瀕している場合以外は魔力を使うというより、医薬を用いて治療にあたる。
治癒師を訪れるのは騎士がほとんどである。
シンシアは時々治癒師の元を訪れていた。大怪我をした者がいれば訪ねていって治癒を施している。
そうでもしないと、皆遠慮して申し出てくれないからだ。
ライアスは、それくらいでないと、負担の大きい光の魔力を気軽に頼んでくるようでは困ると言うから、いくらか圧力をかけているのかもしれない。
1階の奥にある一室、かなり広い部屋にベッドが4つほど置かれている。
「失礼するわね」
シンシアがそう言って入ると、治癒師の1人が駆け寄ってきて頭を下げた。
「奥様。いつもありがとうございます」
「今日は一人?」
治癒師のエラ。まだこの職について3年程度。留守番を任されるようにはなったが、まだまだ新人である。
「はい」
「変わったことはない?」
「はい。重症の者はおりません」
勧められた椅子に座り、前回来た時から今日までの来室者リストをもらう。
数名だけだ。
相変わらず毎日アルロが訪れている。
「アルロは、相変わらずよく怪我をするのね」
「はい。あの・・・いえ、はい」
エラの返事に、シンシアはリストからエラに視線を移した。
青い瞳が迷うように揺れていた。
「どうしたの?」
アルロが傷が絶えない、という話は聞いている。これまでも何度かアルロの事は話題に上っていた。
アルロには、訓練は続けてもいいが、毎日治癒師のもとで治療を受けること、と条件をつけている。今の所その約束を守って毎日きちんと訓練終わりにはここへ来て、薬草を塗り包帯を巻いてもらっている。
「気掛かりがあるなら、教えて頂戴」
「アルロ君の傷の治りが、悪くて、ですね・・・」
「あら、そうなの?」
栄養状態は改善したはずだ。治る前に無理をするからだろうか。
「ひどいようなら、私が治癒するけれど」
「その・・・左腕だけなんです」
ここ、というようにエラが自分の左腕の、手首の下あたり、皮膚の弱いところを指す。
「おそらくですが、自分で傷を広げているのではないかと」
その言葉に、シンシアは眉を寄せた。
「初めは普通に訓練で怪我しただけだったんですが・・・その傷が、なかなか塞がらないと思ったら、化膿し始めて。化膿止めの薬を使っているので、悪化はしていません。でも、もう傷はガタガタで」
それは、繰り返し傷を触って広げているからなのだろう。
思っていた以上に状態は深刻かもしれない。
「アルロはなんて?」
「自分で触ってるか聞いてみたら、少し、と。もうしてはいけないと言っても、はい、とは言うのですが」
「続いているのね」
エラが頷くのを見て、シンシアは険しい顔をした。
アルロが自分で自分の体に傷をつけているとは思わなかった。——いや、見逃していただけかもしれない。過度な訓練も結局は自傷行為の一つだったと言えるだろう。
傷を治すだけなら、今から行って治癒してしまえばいい。しかし、問題は体の傷ではない。
訓練をやめさせるとか、傷つけないよう命じるとか、そんな事でも解決しないだろう。父親との関係を断ち切らなければ。
——いや、果たして、父親との面会を辞めるだけで事態は改善するのだろうか。
確かにレノンと会うことでアルロは荒れる。レノンは間違いなく引き金になるのだろうけれど。
根本的な問題は、そこじゃないのではないだろうか。
「痛いでしょうって言っても、いいえ、と。治療中も眉ひとつ動かさないので。アルロ君は、痛みには鈍い子なのかもしれませんが」
痛みの感じ方はそれぞれだから、とエラは言う。
「こんな事をしていたら、いずれ腕を失うことになるかもしれないと脅してみたり・・・どうして触ってしまうのか聞こうとするのですが・・・私達には、何も話してくれなくて」
2人の間には、沈黙が流れた。
「——早急に、手立てを考えるわ。知らせてくれてありがとう」
マリーヴェルは駆け出していた。
走ってはいけないと言われているけれど、歩いている余裕なんてない。
誰にも会わない道を走り、アルロを探した。
治癒師を訪ねて、アルロがちゃんと毎日治療を受けに来ているか聞こうと思ったところだった。
シンシアとエラの話を聞いて、マリーヴェルは雷に打たれたような衝撃を受けた。
アルロは私の侍従なのに。
私は何も知らなかった。
——けれど、それも当然なんだと分かっている。
アルロはマリーヴェルの侍従ではあるけれど、それはいつ断ち切られてもマリーヴェルにはどうしようもない、不確かなつながりだった。
マリーヴェルには何の力もなく、アルロを守ることもできない。
これじゃだめなんだって、思った。
ハギノル湖で、血の気を失って横たわるアルロを見た時、失うかもしれないと、たまらなく怖かった。
ただ甘えて、甘やかされて、幸せを感じていた。
それじゃだめだ。
——アルロだって痛みを感じているわ。痛くて痛くて、たまらないはずよ。
痛くない、と表情を変えずにアルロは言う。その顔で、つらくない、大丈夫ですとまた笑うのだ。
表に出さないだけで、間違いなく傷ついているし痛いはずだ。
そう思い、情けなくなる。
マリーヴェルには何も知らされていない。シンシアには少なくとも、アルロが何によって傷ついたのか思い当たるものがあるようだった。
何も知る権利がないんだ。こんな自分だから。
エイダンと違って、その場を感情で突っ走るしかできない。お茶会で問題を起こし、勉強が少しも進まない。それでも金の眼だから手のかかる子供。
——あなたはまだ何の義務も果たしていないでしょう。
シンシアの言葉が、今になってなぜか思い出されて、マリーヴェルは唇を噛んだ。
授業終わり、アルロは一度部屋に戻る。
まだ部屋にいるかもしれない。
マリーヴェルはアルロの部屋の前に立った。
使用人の控室が並ぶ区域で、夕方の忙しいこの時間は人気がない。
部屋の中から、コト、と微かな物音がした。
アルロが中にいる。
マリーヴェルは思い切り扉を開けた。
ノックもなく、突然入ってきたマリーヴェルに、アルロは驚いて固まった。
机の上には左腕が乗っていた。包帯を解き、傷が顕になっていた。右手は血で濡れていた。
「ひ、姫様・・・!?」
アルロは慌てて両手を背後に隠し、立ち上がった。
「いいから」
マリーヴェルは息を切らしながら言った。
「隠さなくていいわ。怒らないし、止めない。だからお願い、隠さないで」
泣くな。
マリーヴェルは歯を食いしばった。
トリガーはレノン
アンカーはマリーヴェル




