10. 妻の妊娠
ソフィアとアレックスが退席した後、イエナもそれを追いかけるように席を立った。
「途中で申し訳ありません。アレックスも気にかかりますので、本日はこれで失礼いたしますね」
本当に残念そうに言っているが、おそらくあまり体調が良くないのだろう。食事もほとんど手を付けていなかった。
「もちろんです。無理をしてはいけないわ。また落ち着いたら、ゆっくりお話ししましょう」
アレックスを言い訳にしたが、おそらく休んだ方がいいのだろう。
イエナがいなくなって、オルティメティがそわそわと落ち着きなくカトラリーを動かしていた。
「ティティ。そんなに心配なら見に行ったら?」
「いえ・・・僕が行っても、何もできませんから」
はあ、と溜息。
「——アレックスの時はこんなことなかったのに。3年前と今回と何が違うのでしょうか」
「何がって・・・」
何もかも違うだろう。
生まれる子も、母親の年齢も、周りの状況も。
「アレックスの時は、それまでに相当なプレッシャーを感じていたようだったし。とにかくほっとして、大切にしたいって2人で・・・でも今回は、イエナはなかなかゆっくりしてくれない」
「ゆっくりできないんじゃないの?アレックスは活発な3歳なんだし」
王妃となって4年を過ぎた。仕事も一番忙しく、やりがいのある頃だろう。
「イエナが何を考えているのか、わからない」
オルティメティはぐい、とワインを一気飲みした。
久しぶりの家族団欒で、ついお酒が進んでしまったのだろうか。少し酔っているようだ。
食事を終えたので、エイダンがマリーヴェルを連れてそっと会場を出て行った。
別室には子供達のためにお菓子や玩具が用意されている。部屋には大人だけが残った。
「アレックスには乳母がいるじゃないか。法案だって、急がなくたっていいのに。——あれもこれもして、結果体がつらくなっているんじゃないかって思うんだ」
「ティティ・・・」
「僕は休んで、って言うんだけど。初めは笑いながら大丈夫って答えていたのが・・・最近は・・・」
オルティメティは頭を抱えた。
「うるさい、って言われた」
あら、まあ。
目の前の父親と目が合った。父も三児の父である。気を遣ってオルティメティの肩を叩いた。
「ティティ。女性は妊娠すると少し気が立ったりもするから。お前の母も、妊娠中はよく私を遠ざけていた。部屋を別にしたりしたこともある」
それは初耳だ。
「匂いが嫌だと言われてな・・・」
父は遠い目でそう言った。未だに傷ついているんだろうか。寂しそうな顔をしている。
「姉上は、どうだったのですか」
「え・・・私?」
確かに匂いには敏感になる。だが・・・。
シンシアは父と、弟を順に見た。
問題はそこじゃないように思う。
わかっていないんじゃないだろうか、この男達は。
とりあえずシンシアはライアスを見た。
「どうだったかしら、ライアス」
「あなたは、いつも素晴らしかったです」
ライアスに微笑まれ、シンシアはきょとん、とした。
質問の答えになってないんじゃないかしら。
「ええと、ライアス?具体的にどういうこと」
オルティメティが遠慮がちにそう聞く。
「シンシアは慈愛に満ち、美しく、心優しく、しかも思慮深く賢明な方です。以前も、妊娠中も、母となった今でも」
さらさらと言われ、熱のこもった目で見つめられる。
「私はシンシア程、素晴らしい人を他に知りません」
「言いすぎよ」
本当に言いすぎだ。
シンシアは生温かい視線を振り切って、給仕の者に紅茶を頼んだ。
気分を変えよう。
「——つわりはひどかったのよ、特にソフィアの時は。産むたびにひどくなる気がしたわ」
性別が違うとひどいとか色々言われてるけど、そういうのって結局個人差だしあくまで本人の主観だから。
毎回つらいものはつらいし。
「体の中が何もかも変わっていくのだもの。言葉では言い表しづらいわ。吐き気だけじゃなくて、眠かったり、怠かったり、——まあ、気が立ったりも、するかもしれないわね」
シンシアだって、エイダンの妊娠中は手負いの獣のような状態だったんだし。前世を思い出すまでは。
あまりその話を深堀りすると、傷をえぐることになりそうだ。
ライアスがそっとシンシアの手を覆った。温かい手に視線をやれば、相変わらず熱愛のこもった眼差しを向けられていた。
「3度もつらい思いをして、私達の子供を産んでくださって、本当にありがとうございます」
「ライアス・・・」
こういうことを言ってくれるのが、ライアスのいいところだ。
こんなところでも思わず抱きしめそうになるのは、シンシアもライアスに影響されているのかもしれない。
「——ソフィアの時は特につらそうでしたね。何日も食事を食べれず。一番ひどい時は塩とレモンを少し口に持っていく程度で」
ライアスの方がシンシアよりよく覚えている。
そういえばそうだった。夜な夜な塩を舐める公爵夫人って噂になりそうだわって思ってた。
「そうだったわね。ライアスまで一緒に食事を断ってしまって」
「えっ、なんで?」
「妻が食べられずにいるのを見ると、とても食べる気には」
「そんなことをして、仕事に支障が出なかったの」
騎士は体が資本である。
「鍛えていますから問題ありません。——シンシアの苦しみに比べたら、その程度」
「ライアスは、塩が食べれるとなったら美味しいと言われている塩をあちこち探し回ってくれて、そのうち塩漬けも色々と調べてくれて」
そうしているとめざしみたいなものとかが、少し食べれた。食べれるとライアスも本当に喜んでくれた。
「ああ、そういえば、私はむくみやすい体質で。良くマッサージをしてくれたわ」
マッサージはシンシアの得意分野でいつもライアスにしてあげていたのだが、妊娠中は逆転していた。
「——そこまでしていたのか」
オルティメティが、呆気に取られている。
「僕はイエナを大切にしているつもりだったけど、ライアスの足元にも及ばなかったよ。——姉上がライアスを愛するはずだ」
ライアスがシンシアに触れる手を反応させた。
照れている。乙女のように。
シンシアはそれはともかく、とオルティメティに向き直った。
「ティティ。もう少し、イエナ様に近づいてみたらどうかしら。ライアスのようにしろと言っているのではないのよ?」
イエナもそういうことを望んでいるわけではないだろう。
「例えばそのお酒もよ」
「え」
「イエナ様はお酒を飲めないのに、貴方はいつも通りお酒を飲んでいるんでしょう?」
父とオルティメティが揃ってグラスを見る。
思いもしなかった、という顔だ。
「やめろと言っているわけじゃないけれど。飲むことを何とも思わないのね、って、私なら思うわ。安静だってそうよ。健康な体で今日まできて、まだお腹も大きくなっていないのに、ただ寝て過ごせって言われても——例えば貴方、明日からしばらく動くなと言われて、素直にできる?気がかりが多すぎて落ち着かないでしょう」
「僕は、だって、国王だから」
「イエナ様だって王妃殿下で母親よ?どの役割もおざなりにはできないわ」
シンシアは淡々と続けた。家族として言っておかないとと思った。
同じ女性として、弟よりはイエナの心境に近い。
「厳しいことを言うようだけど・・・イエナ様にとって、貴方は夫ではあるけれど、運命共同体ではないんじゃない?イエナ様は一人で頑張らないといけないと思っているのかもしれないわ」
頼りないとは言わないが、言っても仕方ないと思われている。
「イエナ様は素晴らしい王妃殿下で母親でしょう。執務を誰かに代わってほしいわけでも、アレックスを誰かに代わりに育ててほしいわけでもないわ。自分でやりたいはずよ」
「だからって、それじゃあイエナの体が心配だよ」
「そうしろって言ってるんじゃないの。そんなイエナ様の気持ちを、わかっているのかしら、って思って。わかっていて初めて、話し合えるんじゃないの?」
個人差があるだろうから何とも言えないが、夫を味方だと思えないうちは、寝室に入れてもらえなくても仕方ないと思う。
匂いが無理と言われた辺り、父も母からそう思われていたんじゃないかなと思った。
オルティメティはしばらく考え込んでいた。




