23. マリーヴェルのおそれるもの
アルロは市場で仕事を探した。
12歳の子供を雇ってくれる店なんてなかなかいない。それも、もう店じまいが近い夕方である。
このままだと、父さんが何も食べられない。
途方に暮れつつもどうしようかと思い悩んでいる所だった。
「アルロ」
呼ばれて、アルロは驚いて振り返った。
滅多に名前を呼ばれることなどないから。
アルロの名を呼んだのはタンだった。時折訪問するペンシルニア公爵邸の、公子の侍従。
10歳差と言っていたから、22歳だろう。がっしりとした体躯だから一目で軍人なんだろうと思う。ペンシルニアは侍従に至るまで武術の心得があるようだった。
色黒で、異国の血が入ったような掘りの深い顔立ちをしている。普段は無口でほとんど話したことはない。
名ばかりの荷物持ちの侍従である自分とは違って、正真正銘の侍従だ。主であるエイダンの世話全般と補佐もしつつ、更には騎士でもあり護衛も兼ねている。今も腰には立派な剣を提げていた。
「タン様」
アルロは頭を下げながら、焦っていた。ここで知り合いと話している時間はない。
「これから買い物か?」
「はい」
「ちょうどよかった。実は、私も買い出しを済ませて帰ろうとしたんだが、急に屋敷から呼び出しがあって。数日帰れそうにないから、食材が駄目になる所だったんだ。これをもらってくれないか」
アルロは驚いた。
その内容というよりは、タンがこんなにしゃべるのを初めて見たからだ。
学園にいたときも、はい、くらいしか聞いたことがない。
若干棒読みのような気がするのは、そういう癖なのだろうか。
「——その頬は」
タンが指を指したので触れてみると、一筋の線のように傷があった。もう血も止まっている。
先ほど父親に酒瓶を投げられた時に、よけたつもりだったが破片が飛んだのだろう。
「そ、その・・・ちょっと」
「・・・・・・・・・」
タンは黙っていたが、それ以上追及する様子はなかった。
ぐい、と紙袋を目の前に掲げられる。
「どうだ?もらってくれるか?」
覗いてみると、根菜類、パン、それに肉まである。普段の食事を考えれば、1週間分に相当するかもしれない。
「こ、こんな・・・もらえません」
「だが、数日帰れないんだ・・・」
タンは繰り返してそう言った。
こんなにうまい話があっていいのだろうか。
アルロはなんとなくきょろきょろと辺りを見渡した。別に変わりのない、いつもの風景。
「あの・・・じゃあ、ありがとうございます。いただきます」
「ああ。助かる。——ではまた」
タンはさっさとその場を走り去っていった。
アルロはその後ろ姿に深く頭を下げた。
アルロの家へ行ってからというもの、マリーヴェルは塞ぎ込んだ。
騎士を遠ざけて、誰も部屋に入れず部屋に閉じこもっていた。
翌日、エイダンから事情を聞いたシンシアとライアスは深刻な顔を見合わせた。
「アルロが、ご家族から虐待を受けているということよね」
「はい」
エイダンは騎士を1人残し、周辺に聞きこみを行った。
給金は全て父親に渡っている上に、食事も与えられていないようだ。なんとかジーク家での昼食や父親の残したもので食い繋いでいたのだろう。
その上、父親の世話、家事。毎日怒鳴り声が聞こえ、暴力も受けている。
「給金を親に渡すのって普通なの?」
ペンシルニアには今、子供は働いていない。エイダンの質問にはライアスが答えた。
「普通、だな。——現状をジーク家に伝えることはできるが」
レグナートとアルロは、自分とタンほど密接な関わりがあるわけではない。レグナートもアルロの処遇については預かり知らぬことだろうと思う。
だが、それで解決になるのか、とライアスは考え込んでいる。
どう伝えるかも問題だ。ペンシルニアが出る事で拗れることのないようにしなければ。
「私は引き離すべきだと思うわ。それも、今すぐ」
シンシアはじっとエイダンを見た。
「まだ12・・・大人の保護が必要な年齢よ」
エイダンと重ねているのだろうか。思い詰めた声音にライアスはシンシアの肩を抱いた。
「警備隊は?張り込んでおいて、暴力を振るう時に拘束できないの?」
「親子関係でのそういうことには、介入できた前例がないです。——しつけだと言われたら、他人はなかなか入っていけません」
虐待の概念があまりないのだろうか。
納得いかないシンシアに、ライアスは続けた。
「ジーク家へ事情を話し、アルロは住込みに、父親については、療養施設へ入所させるのはどうですか」
「明日レグナートが来る予定なんです。僕が一度話してみてもいいですか」
アルロもついてくるが、どうせマリーと過ごすからゆっくり話ができる。
シンシアは難しい顔のまま頷いた。
「私も一緒に。——レグナートは萎縮してしまうかもしれないけど」
レグナートもまだ子供だ。もともとの予定されていた訪問ならそのまま来てもらうので構わないが、子供達だけで話をさせるわけにはいかない。
「私は、まだ出ない方がいいでしょうね」
そう言ってライアスはシンシアに任せることにした。
シンシアは暗い表情で頷いた。
この世界では、子供は親の所有物と思う親が多い。シンシアが手がける慈善事業でも、子供に教育と食事を与えようと思ってもなかなかうまく行っていなかった。
本当は、問答無用で今すぐここへ連れてきたい。しかし侍従とはいえ、ジーク家の所属の者は、あくまでもその家に決定権がある。その法令を飛び越えて何かをすることはできない。
権力を有するペンシルニアだからこそ、こういう時は動きにくい面もあった。
それでも、いざとなったらそれは最終手段として残しておかなくては。
シンシアはエイダンに向き直った。
「マリーは、アルロのことが気になって、エイダンと街へ向かったのね」
「その・・・すみません・・・」
「どうして謝るの?」
「マリーを止めるべきだったと思って」
シンシアは苦笑した。
止めるべきだったかどうかは、何とも言えない。街へ降りるのも、友人の家を訪ねるのも、8歳なら経験していることだろうし。
護衛とエイダンと街へ行くと聞いて、いってらっしゃいと普通に送り出したのはシンシアだ。
「貴方は悪くないわ。ちゃんと付き添ってくれたんだもの。ありがとう」
「でもそのせいで、マリーは昨日から、部屋から出てなくって・・・」
「アルロの事がショックだったのかしら」
暴力的な場面に触れたことなど今までなかったはずだから。
特に気に入っているアルロの事だ。
「様子を見に行こう」
実は昨日からずっと気にしていたライアスがそう言って、シンシアとライアスはマリーヴェルの部屋に向かった。
ライアスはマリーの部屋をノックした。
昨日から部屋から出てこず、食事も部屋に運ばせている。
「マリー?」
ライアスの呼びかけに、返事はない。
「マリー、入るぞ」
そっとドアを開けると、マリーヴェルはベッドの上で膝を抱えていた。
シンシアとライアスはそっとベッド脇まで近づいた。
「お父様、お母様」
「エイダンから聞いたわ。——ショックだった?」
マリーヴェルは顔を膝に埋めたまま首を振った。
「ご飯、あまり食べてないんだって?」
ライアスがそう言ってマリーヴェルの肩に手をやる。マリーヴェルがびくりと弾かれたように顔を上げた。
その目に一瞬、恐怖の様な色が浮かび——すぐにそれは困惑した顔に打ち消された。
「あ、お父様、その・・・」
何か言わないと、と口を開くが、マリーヴェルは何も言えなかった。
違うの、ただびっくりして。——本当に?
よくわからない。
しばらく部屋に沈黙が流れ、シンシアがライアスに目線で外を示した。ライアスも頷く。
ライアスはベッド脇に膝をついた。マリーヴェルと少しの距離を取る。
「——マリー。私は仕事があるが、アルロの事はちゃんと、いいようにするから。心配せずに任せなさい」
「お父様・・・」
「愛しているよ。今夜はマリーの好きなものを作らせるから、少しでも食べてほしい」
「私も、お父様、大好きなのよ。とっても」
いつもならそう言って抱きつきに行く所を、マリーヴェルはぎゅっと手を握りしめた。
その手をそっとシンシアの手が覆う。
「じゃあ、また」
そう言ってライアスが部屋を出て行くのを見送ってから、シンシアはマリーヴェルの横に座った。
「マリ——」
「ごめんなさい」
遮るように言って、マリーヴェルはまた顔を膝に埋めた。
「怖いの。なんだかわからないけれど、怖くてたまらないの」
「そう・・・。怖くて当然よ。何もおかしなことじゃないわ」
シンシアが抱きしめると、マリーヴェルは固くなっていた体を僅かに緩めた。
「アルロのお父さんが、アルロに乱暴したり、怒鳴ったりしていたのを聞いてしまったのよね」
怖かったわね、と言うシンシアに、マリーヴェルがゆっくりと頷く。
「助けたいのに。絶対にアルロの力になりたいって、思っているのに」
拳に力が入る。
「私には何の力もなくて、ただぶるぶると震えていただけ・・・」
「マリー・・・」
情けない。そう言ってマリーヴェルは顔を覆った。
「マリー。お母様だって、その場にいたら何もできなかったと思うわよ?立ち向かっていくことだけが正解じゃないでしょう」
「あの怒鳴り声が、頭から離れないの。私の周りの人は誰もそんなことしないって、わかっているのに」
シンシアはマリーヴェルを抱きしめる手に力を込めた。
「マリー、怖くなって当然よ。無理に平気になろうとしないで」
少し身体を離し、マリーヴェルの冷たくなった手を握りしめた。
「もちろんみんな、マリーヴェルを守るためにいるのよ。怖い事なんて何もないわ。けれど、怖いと思うのも仕方ないわ。だって実際に力が強いし大きいもの。うちは怖い顔の人も多いし」
シンシアが冗談めかして言うから、マリーヴェルは少し表情をやわらげた。
「——だから、駄目だなんて思わないでね。怖くなくなるまで、騎士には遠くから守ってもらうわ」
マリーヴェルはうっすらと涙を浮かべていた。
「こんなつもりじゃなかったのに。——自分が分からない」
マリーヴェルは自分を強いと思っていた。
陰口を叩かれても、面と向かって馬鹿にされても、負けはしないと。
それが大人の男の人の怒声を聞いただけで、よりによって大事にしたいアルロの事なのに。
自分は何もできず、抱かれてただ逃げるしかなかった。
「マリー。貴方はまだ子供なんだから。アルロの事はお父様とお母様に任せて、ね?」
シンシアは、もしかして、と思った。
2歳だったけれど。覚えていないと言っていたけれど、襲撃され誘拐された時のことを覚えているんじゃないだろうか。
それがマリーヴェルの心にトラウマを植え付けていたのだとしたら。
攫われた後は眠らされていたと言うが、馬車が襲われて落下し、騎士らが戦ったところを目の当たりにしたはずだ。
だとしたら、できるだけ恐怖の対象からは離してやった方がいいだろう。
マリーヴェルはしばらく黙って、それからポツリと呟いた。
「アルロに・・・会いたい」
そう言って膝を抱えるマリーヴェルを、シンシアはまたずっと抱きしめていた。




